第40話 チャルダッシュ

 旅館から出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。それと同時に感じたのは磯の匂い。


 ここが海辺であると、あらためて感じる。


 そして俺の五感を刺激したのは『海』だけでなかった。


 浜風に乗って穏やかなヴァイオリンの音が聞こえる。その音色に導かれるように、俺は歩を進めていく。


 浜辺に足を踏み入れ、静寂の中聞こえるのは砂を踏みしめる音、波の音、ヴァイオリンの旋律だけだった。


 そして辿り着いたのは、波打ち際に立つ白い鳥居だった。


 海岸の中で威容を示すこれは、ここの名物である。


 空から降り注ぐのは満月の明かりと満天の星々の輝き。


 だが、それを受けるのは鳥居ではない。その前に立って演奏をする天川だった。


「来てくれたのね」


「なんとなく、ここにいると思ってたからな」


 天の恵みを受けて輝く天川は、バスローブ姿もあいまって天女のようだった。


「それに天川の演奏を聞かないと寝れないんだ」


「そう、それじゃあいつも通り演奏しようかしら」


「申し訳ないが、コンサートの入場料は払えないんだ。山菜もヤマメもないからな」


「今日はボランティアコンサートだからいいのよ」


「ありがたや」


 俺は適当な岩場に腰をかけると天川の演奏を聞く。


 天川はヴァイオリンを構えると、穏やかな音色を奏で始める。


 これはモンティが作った『チャルダッシュ』だ。


 軽やかな曲調は凪いでいる海にぴったりの音色で、俺の心を落ち着かせてくれる。


「ありがとな天川」


 どういたしまして、天川はそう言いたいかのような得意げな顔をする。いや、顔じゃない。演奏から彼女の感情が伝わってくるのだ。


「俺、ずっとお前に感謝してる」


『だったら復縁してくれてもいいのだけど?』


「それは……もう少し考えさせてくれ」


『優柔不断、童貞、酒カス!』


「相変わらず手厳しいな」


 でも、天川と話しているって感じがして心地がいい。半年間さけつづけてきた天川との関係。


 でもここ最近は少しずつ、触れ合う機会が増えてきている。


 ようやく、天川に触れているという実感がわいてきたのだ。


「いい星だ」


 改めて空を見上げると、満天の星空の中に天の川が見えた。


「天川は織姫だな」


『じゃあ、あなたは彦星?』


「それだったらロマンチックだ」


こんなに強い輝きなのに、星々が見えなくなっていく。


八王子の夜空を見上げたときより強い光のせいだ。


「…………天川は一等星だな」


『谷崎節、久々に出てきたわね。でもまだ足りないわ』


「贅沢言うな。ろくに酒が入ってないから無理なんだよ」


『それなら飲ませておけばよかったわ』


「天川の前で酔いつぶれるのは絶対に勘弁だな」


 しばらく雑談をしていると、穏やかな曲調が激しいものに移り変わる。


 これこそが『チャルダッシュ』最大の特徴である。


 前半から一気に変調して、テンポを上げるのだ。


 心なしか、鳥居にぶつかる波も荒々しくなった気がする。


「チャルダッシュは、その中毒性のあまり禁止法律が出たとも言われているらしいな」


『よく知ってるじゃない』


「インプットのためにすこしばかり音楽もかじってるんでな」


 嘘をついた。


 天川の演奏をもっと楽しみたくて、ここ最近は音楽の勉強をしているのだ。事実、初めて山湖で天川の演奏を聞いたときは何の曲だかさっぱり分からなかった。


「中毒はこわいな」


 好きになって、夢中になって、盲目になる。


 だから、苦しくてもやめられない。手放せない。


 それはもしかしたら、幸せなのかもしれない。それだけ好きなものに出会えるのは中々の幸運だ。


 そしてその幸運に殺されるのかもしれない。


「俺は幸せだ」


 でも、その幸せの上に胡坐をかいていてはいけない。


 いつだって幸運は追い求めるべきものだ。待つものではない。


 だから。


「俺、天川と恵莉奈にたくさん迷惑をかけた」


 天川が寮に来てからは特にだ。


 俺がどっちかを選べればよかったのに、どっちも選べなかった。どっちを選んでも苦しくなりそうだったから。


 でももう、そんな迷いは捨てたい。


「天川は知らないかもしれないけど八王子花火大会ってのがあるんだ」


 演奏が終盤に差し掛かる。


 より激しさを増した演奏を象徴するかのように、星空に流星群が見えた。


「その花火大会の日に天川か恵莉奈、どっちかを選ぶよ」





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ここまでお読みいただきありがとうございました。

次から5章になります。


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