月と太陽と(井上+沖田)

 ぼんやりとした月明かりだけが、ゆったりと照らす空間。

 こんな時刻に、縁側で揺れる影を見付けるのは、どの位の確率の偶然だろうか。


 最初は、そっとしておいた方が良いようにも思えたが、暗がりの中で辛うじて見てとれる表情は、どこか穏やかで。けれどどこか、憂いを帯びてもいるようでもある。

 いうなれば、空に浮かぶ愛しい場所へ帰りたいと、恋い焦がれるかぐや姫の様だった。


 郷愁の想いを邪魔するつもりはなかったが、なんとなくそのまま立ち止まり引き返すよりも、同じ時間を共有してみたいと思う力が勝る。

 この手の中の盆に、行き先を失った茶と茶菓子がちょうど乗っている事も、それを後押しした。


「暖かくなってきたとはいえ、夜風に長い間当たっていると、風邪を引くよ」


 驚かさないように、そっと近寄って話しかけたつもりではあったが、どこか現世からはかけ離れた所にでも、意識があったのだろうか。

 気配に敏感な総司にしては、珍しく驚いた様子で、弾かれたように夜空に向けられていた視線が、自分へと降りてきた。

 ぱちぱちと大きく瞬きを二回して、まるで何かが切り替わったように、いつもの笑顔に戻る。


「井上さんこそ、そんな薄着では風邪を引きますよ」

「ご一緒してもいいかな?」

「もちろんです。それ、頂けるのなら大歓迎ですよ」

「いいとも。では、お邪魔するとしよう」


 盆の上に乗る砂糖菓子を指さして、子供のように笑う姿からは、もうかぐや姫の面影は見出せない。

 隣に腰かけてお茶を渡すと、「いただきます」と律儀に挨拶をしながらそっと口へ運ぶ、ただの可愛い弟分の姿が目に映る。


「やっぱり井上さんが淹れてくれるお茶が、一番美味しいですね」

「そうかい? そりゃ、光栄だなぁ」

「……なんて言うか、優しい味がします」

「優しい味?」


 ほう、と幸せそうな息を漏らして、総司が微笑む。


「近藤さんのは大味なんだけれど安心する味で、土方さんのは几帳面で完璧な味がするんですよね。それはそれで、とっても美味しいんですけど」

「それはそれは……」


 そう続ける総司の言葉に、比べられる対象がずいぶん変だなと首を傾げるが、あの二人は総司の為ならば、お茶位淹れるかもしれないと思い直す。


 元々、試衛館は格式張ったところがない。

 むしろ相手の大半が百姓だからか、開け過ぎているきらいさえあった。

 だからこそ、今の仲間が集まった訳だけれども。


 客人を自らもてなすことに、何の抵抗もない。

 それどころか、内弟子に対してもこの調子なのは、もしかしたら自分の責任も、少なからず影響しているかもしれない。


 京に上ってからは、「今までとは違う」と言い聞かせるように、人目を気にして弁える行動を見せる土方君とは違って、近藤さんは多摩の頃の癖が抜けない。

 近藤さんが自ら茶を入れようとして、土方君に叱られているのを見ながら「それならば」と、自分が淹れて持って行くと「あんたもだ」と呆れた顔で、一緒に叱られてしまったりもした。


 だが近藤さんにお茶を入れるのは、自分の楽しみだからと言い切って、その権利だけは譲れないと、勝ち取ってしまった経緯がある。

 そんな苦言を呈していた土方君も、今の総司の口ぶりから見て、未だに自ら茶を淹れたりしてやっているのではないか、と思う。

 さすがに、他の隊士に気づかれたりはしないように、気を使ってはいるだろうけれど。


 昔から、あの二人は総司に甘い。めろめろに甘い。

 そして多分、総司はそれをわかっていて、二人が余裕をなくした瞬間、絶妙の間合いで甘えるのだ。


 それは何も、近藤さんや土方君に対してだけではない。

 甘やかしているようで、甘やかされているのは、癒されているのは、きっと大人達の方。

 総司の笑顔が、そっと甘えてくる我が儘が、演技だとは決して思わないけれど、本当に本心なのかと心配になる事はある。


 だから、かもしれない。

 月を見上げる総司に、ほんの僅かではあるが憂いを見出してしまったのは。

 けれど、それをどうにかできるのは、きっと自分じゃない。その事だけが、少し残念だ。


「近藤さんは、眠ってしまっていたんですか?」


 嬉しそうに砂糖菓子を摘み上げながら、何気なく総司が問いかけた言葉は、まるで見て来たかの様に、正確な情報だった。


「よくわかったなぁ」

「簡単なことですよ。井上さんがこんな時間にお茶を淹れる相手は、近藤さんしか考えられないですし。そんな薄着でうろついている理由も、眠ってしまっていた近藤さんが風邪を引かないようにと、羽織をかけて来てあげたとしか考えられません」

「言い切るね」

「違いました?」

「いや、全くその通り」


 そんなに自分の行動は、わかりやすいのだろうかと頭を掻くと、総司が可笑しそうに笑って頷くから、つられる様に自らの口からも笑い声が漏れる。

 総司と過ごす時間は、いつもこうやって穏やかに流れて行く。


 だからどうしても、総司の刀が隊の中で一番血を吸っていることを、忘れさせられてしまう。

 それにふと気づく度に、彼の纏う空気に無理がない事を祈るだけしかできない自分が、情けなくもあるけれど。


「それから、もうひとつの理由は、私が近藤さんの事を考えていたからかなぁ……」


 そう呟いて、総司が再び空に視線を上げた。

 そこには、雲にぼやけた天候の悪いこの時期によく見られる、贔屓目にも美しいとは表現できない、月の姿。

 それでも総司は、そのぼやけた月を熱心に見つめている。


「月を見ていると、近藤さんに見守られてる気がするんですよ」

「おや、ちょっと意外だなぁ」

「そうですか?」

「近藤さんは、どっちかと言うと太陽じゃないかい?」

「うーん、太陽は土方さんかなぁ……」


 満ちて欠けるように、一緒に悩んで迷って、いつも傍にいてくれる。近藤さんは、優しいお月様。

 迷いを振り切って、ただ前へ進もうとする、近づくものを焦がすほどの熱で、真っ直ぐに。土方さんは、道を照らす太陽。

 小首を傾げてそんな風に二人を表現する総司に、個人の印象は随分違うものだと感心する。


「それなら、総司は『空』だね」

「私が空ですか? どうして?」

「月も太陽も、空がなければ輝けないだろう? そこに存在するかどうかも、わし達にはわからなくなる」

「えぇ? そんな重要な役割なんですか。困ったなぁ……」


 朝に太陽を迎えて青く透き通り、沈みゆく太陽と昇り始める月を朱色で優しく包んで、夜は月を輝かせる為にその身を闇に染める。

 もし総司の言うように、月が近藤さんで、太陽が土方さんなのだとしたら、空は総司しかあり得ないようにさえ思えた。


 三人の内、誰が欠けても駄目なのだ。

 欠ければ、何かが崩れてしまう。上手く言えないけれど、そう感じる。

 そしてそれはきっと、間違っていないだろう。


 本当に困った様子で、空をじっと見上げる総司の頭を、いい子だと言わんばかりに、そっと撫でる。

 小さい頃こそ「子供扱いしないで下さい」と、嫌がっている様子だったが、誰も止めようとしない。

 更にその上、近藤さんや土方君、そして自分だけだったはずの、総司の頭を撫でる人口は、何故か年を重ねるごとに増える一方だ。


 更に皆が皆、癖になってしまったかのように、何かある度に総司の頭を撫ぜるものだから、最近ではもう諦めてしまったのか、素直に撫でられてくれる事の方が多くなった。

 かく言う自分も、癖になってしまった一人ではあるのだが。


 それでも、大人しくそれを許容してくれている間は、もしかしたら甘えてくれているのかもしれないと思えた。

 子供っぽい振りを通してはいるが、それは周りの皆がそうさせているだけで、手のかかる大人達に囲まれて、恐らく一番大人なのは総司なんじゃないかと、ふと思う瞬間がある。

 それを、払拭できるのが、この時なのだ。


 くすぐったそうに受け入れる、その姿を見たくて、つい手が伸びてしまう。

 きっと、皆もそうなのだろう。

 どこまで感じ取っているかは人それぞれだろうが、総司の頭を撫ぜる理由は、皆似た様なものではないかと思う。


「総司が、二人の傍にいる。それだけで十分だって事だ」

「それを言うなら、井上さんこそだと、私は思いますけど」

「わしは、みんなの数歩後ろを付いていければ良いんだ。そう例えば……ただ笑って、近藤さんにお茶を淹れてあげられれば、それで良い」


 自分の役割は、今までもこれからも、それだけだと思う。

 どんなに環境が変わろうと、どんなに状況が変わろうと、せめて自分だけは変わらずにいたい。

 近藤さんを守れるほどの腕はなくても、それこそが自分の力だと信じているから。


「そうですね。私も……そうありたい、です」


 変わっていく流れの中で変わらずに、例え世界中を敵に回しても、たった一人になっても、味方でいる。

 ただ、笑って傍に。


 かちんっと、まるで杯を合わせるように、総司の持つ湯呑と自分の持つ湯呑を合わせて、そこにあるだけのぼやけたままの月に、そう誓い合った。


 隊の中で、一番年の離れた自分と総司が、こんな風にこっそりと同盟を結んでいる事が、なんだか可笑しい。

 しかも、誓いの杯はただのお茶で、添えられる約定は、甘い砂糖菓子。


 けれど、何気に交わしたそんな約束こそが、ただ「明日も遊ぼう」そんな子供のような軽い約束こそが、本当は重要なのかもしれない。

 きっとこの先、何があったとしても、今日のこの約束はずっと守られるだろう。


 そんな確信めいた予感と共に、空に浮かぶ優しい月を、二人で同時にゆっくりと見上げた。





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