秘拳の最終話 新たなる旅立ち

 颯爽と小船に乗り込むと、トーガは用意されていた二つの櫂を両手で漕ぎ始めた。


 海人のように巧みな操作はできなかったものの、それでもトーガは〈手〉の鍛錬で培った体力を生かして必死に船を走らせていく。


 波に逆らいながら小船を漕ぎ続け、やがて樹林に佇んでいるティンダが米粒ほどの大きさに見えるほど離れたときだ。


 トーガは櫂を漕ぐことを止め、生まれて初めて海から黒城島を繁々と眺めた。


 数十隻の小船が停船している浜辺の奥には鬱蒼とした樹林が続いており、その樹林を突き抜ければ根森村の集落へと辿り着く。


 さすがに集落の中を行き交う島人たちの姿は見えなかったが、釜場から何本も立ち昇っている黒煙を見れば今日も元気に働いている人間の姿がありありと浮かんでくる。


 他にもトーガの脳裏には父親のクダン、母親のユキエ、ツカサのカメ、ムガイのオジィ、乱暴者のゲンシャ、親友のティンダ、実妹と思っていたナズナなど様々な人間たちの顔が浮かんできた。


 たかが十八年、されど十八年。


 トーガは自分を今の今まで育んでくれた多くの島人たちに改めて心中で感謝の言葉を述べた。


 だが両親には感謝よりも謝罪の念のほうが強かった。


 一人息子が父親と同じ島流しにされたなど知れば、ニライカナイの地でどれだけ悲しむだろう。


「ニライカナイか……」


 琉球の神々が住まうという異郷――ニライカナイ。


 別の地域ではギライカナイともニルヤカナヤとも呼ばれ、宮古島では現世を離れた死者のマブイ(霊魂)はニライカナイに行き着くと信じられているという。


 その点に関しては根森村も同じである。


 ニライカナイは神々が住まう浄土であるとともに、善悪の区別なく死者のマブイ(霊魂)が向かう土地だとカメは口にしていた。


 それゆえにトーガの頭には常に一抹の不安があった。


「父さんと母さんはニライカナイで平穏に暮らしているのかな? それにユキも此度の責任を追及されてアマミキヨ様に折檻など受けてないだろうか」


 以前、ゲンシャは悪びれた様子もなく言い放った。


 ニライカナイは琉球の神々が住まう土地である以上、死者のマブイ(霊魂)は琉球人しか受けつけないと。


 ならば生粋の大和人であったユキエのマブイ(霊魂)は果たしてどこへ行くのだろう。


 ティンダが言っていたように大和や明国で信じられている極楽浄土か地獄に落ちたのだろうか。


 一通り考え込んだ末にトーガは苦笑した。


「止めよう。ツカサでもチッチビでもない俺が死んだ後のことを考えても意味がない」


 そうである。


 死者がどこへ逝くかなど生者には知る術がない。


 ましてやトーガは祭祀とは無縁な人生を歩んできたのだ。


 ニライカナイや極楽浄土、地獄などのことを考えても実感が湧かなかった。


 だからこそだろう。


 トーガはグソー(死後世界)のことを勝手に考え始めた。


 もしかすると、ニライカナイはおろか極楽浄土も地獄もないかもしれない。


 この世を去った死者のマブイ(霊魂)は国元など関係なく、一つの異郷へ向かっていく。


 むしろ、そう考えたほうがクダンもユキエも仲睦ましく暮らしていると信じられたからだ。


「そうに違いない。ニライカナイなんて土地もなければアマミキヨ様もいない。死者のマブイ(霊魂)は等しく同じ場所で生き続ける」


 と、吸い込まれそうな晴天を見上げながら呟いたときだ。


「ニライカナイは本当にあったよ」


 不意にトーガは瞳孔を拡大させ、首の骨が折れそうな勢いで顔を振り向かせた。


 同時に白布の一部が隆起し、もぞもぞと動き出した〝何か〟が白布の中から這い出てくる。


「ぷは~、やっぱり布の中にいるより外のほうが涼しい!」


 長い間、蒸し暑い白布の中で息を潜めていたからだろう。


 額や首筋に玉のような汗を滲ませていた〝何か〟は、手の甲で無造作に汗を拭っていく。


 トーガはあまりの驚きに目が点になった。


 白布から虫のように這い出してきたのは、風のような清涼感を感じる藍色の着物を纏ったナズナだったからだ。


 ひとしきり汗を拭うと、ナズナは水が入っていた陶器の口に唇をつけ、喉を鳴らしながら豪快に水を胃袋に収めていく。


 何度か喉を上下させた後、ナズナは上唇に付着した水気を舌で舐め取った。


「う~ん、生き返るとはまさにこのことを言うのね。ただの水がこんなに美味しく思えることなんてこれまでに一度もなかったわ」


「おい、ナズナ」


 未だに状況が判然としなかったトーガは、微妙に裏返った声で名前を呼んだ。


「あ、私一人だけ飲んでごめんね。はい、あなたもどうぞ」


 ナズナは半分以上も水が残っていた陶器をトーガに差し出した。


「おお、すまんな。ちょうど喉が渇いていたんだよ」


 陶器を受け取るなり、トーガも渇いた喉を水で潤した。


 陶器の中に満たされていた水は少し生温かったが、塩辛い海の水を飲むよりは遥かにいい。


 などと思った直後であった。


「誤魔化すな。どうしてお前が船に乗り込んでいるんだ、ナズナ」


 トーガは唇に付着した水気を掌で拭いつつ怒声を上げる。


 それでもナズナは怯えた表情一つ浮かべず、白布の上からでも分かるほど平らな荷物の一つに腰を降ろした。


「だってトーガは島から追放されたんでしょう? だったら私と同じじゃない。島から追放された者同士これから助け合って生きていきましょうね」


「はあ?」


 満面の笑みを作ったナズナにトーガは頓狂な言葉を発した。


 意味が分からなかった。


 カメの命を受けたゲンシャたちに重大な怪我を負わせた自分が島から追放されることは仕方ない。


 それだけのことをしてしまったことは十分に納得している。


 しかし、ナズナは違う。


 此度の騒動や異変にまったく関わっていないのだ。


 ならばナズナが島流しの刑に処されるはずがなかった。


「お前、まさか勝手に家から飛び出てきたのではないだろうな?」


 ナズナは力強く首を横に振った。


「だったらなぜ島から追放された? 言えるものなら言ってみろ。俺の罪状に匹敵するほどの罪を犯したのかどうかをな」


 トーガはナズナの返答次第では船を反転させ、黒城島へ帰ることも持さない考えだった。


 もちろんナズナを降ろした後は再び船を石垣島へ走らせる。


「私の罪状はね」


 どうせ言えないだろうと高を括ったトーガだったが、西から吹いてくる柔らかな風に黒髪をなびかせながらナズナは告げた。


「トーガ、あなたを罪人に仕立ててしまったことよ。ツカサ様……いいえ、もう島から追放された身分だしカメバァでいいや。そのカメバァに早とちりさせてしまったのは私なの」


「待て待て。お前は一体何を言っているんだ?」


「だーかーらー、カメバァがあなたを捕縛しろと男衆に命じた原因はすべて私にあったってことよ。どう? これで私が島流しに処された理由が分かったでしょ」


「分かるか! もっと詳しく話せ!」


「ベーヒャー(嫌よ)、長ったらしく話すのは面倒なんだもの」


 意固地なところは兄のティンダとそっくりである。


 だからと言って「面倒ならば仕方ないな」と承知するわけにもいかない。


「きちんと順序だって話を聞かせろ。そうでないと、このまま海に放り込むぞ」


「ちょっと、私を海に放り込むなんて冗談でしょう!」


 トーガは澄み切った海に視線を転ずると、「確かこの辺りはザン(ジュゴン)がよく出ると聞いたな。


 いや、ザン(ジュゴン)ではなく鮫だったかな?」と囁いた。


「アギジャビョー(いやああああ)、この年で鮫の餌になんてなりたくない!」


「ならば正直に詳しく島流しにされた理由を言え」


 互いの吐息が触れるほど顔を近づけてトーガが凄むと、ナズナは不機嫌そうに唇を尖らせて島流しにされた理由を語り始めた。


 オン(御獄)で琉球国を創世したというアマミキヨに呼びかけられたこと。


 異変により真っ二つに割れたイビ(聖石)に触れたことで、意識を失いマブイ(霊魂)の状態でニライカナイの地へ赴いたこと。


 そして彼の地でアマミキヨと対面し、異変の原因と対処法を聞かされたこと。


 だが、最も重要な話はそこではなかった。


 ナズナ自身は覚えていないらしいが、一度だけ意識を取り戻したときに「トーガを捕まえて」と漏らしたという。


 折しもそのときはカメが異変を起こした人間が誰か知りたがっていたときであり、ナズナの言葉を聞いたカメは異変を起こした張本人がトーガだと勘違いしてしまった。


「まったく、カメバァには呆れるわよね。私はトーガを捕まえてと言いたかったんじゃない。私は〝トーガの抜け落ちたマブイ(霊魂)を捕まえて〟と言いたかったのにね」


 抜け落ちたマブイ(霊魂)という言葉にトーガは反応した。


「おい、俺の身体からマブイ(霊魂)が抜け落ちたとは本当のことだったのか?」


 ジューグヤー(十五夜)の日から二日後、トーガはツカサであるカメの家にしかない畳張りの床の間で意識を取り戻した。


 あの日の感覚は今でも鮮明に覚えている。


 全身に走る打撲の痛みで仰向けに寝ていることしかできない不自由感。


 一定の拍子で襲ってくる頭痛。


 天井が歪んで見えるほどの眩暈。


 一切の食べ物を受けつけられなかった吐き気。


 ゲンシャならばまだしも親友のティンダに〈手〉の技を使ってしまったという巨大な罪悪感。


 意識を失う直前、黄金色に輝いて見えた異様なユキの姿――。


 トーガは何とか歯を食い縛って右手を布団から出すと、何やら柔らかいものに触れた。


 さらに指を動かしていくと、人差し指と中指がすっぽりと穴に入った。


 次の瞬間「乙女の鼻の穴に指を突っ込まないでよ!」とトーガは誰かに額を叩かれた。


 拳ではなく掌で力の限り。


 目の前で座っていたナズナである。


「全部じゃないわ。あなたのマブイ(霊魂)は半分だけ体外に零れ落ちた。どうして半分だけマブイ(霊魂)が抜け落ちたのかはあれからずっと考えていたんだけど、もしかしてトーガが半分だけ受け継いでいる大和人の血のせいだったのかもね」


「大和人の血?」


「だってマブイ(霊魂)が抜け落ちるなんてことは琉球でしか起こらないんだよ。明国や大和でも聞いたことがないってカメバァも言っていたもの。だったらトーガのマブイ(霊魂)が半分だけ落ちたということも得心がいく。クダンさんは生粋の琉球人だったんでしょう? 琉球人なら何かの拍子でマブイ(霊魂)を落とすことがあるからね」


(なるほど、だから俺は半分だけマブイ(霊魂)を落としたのか)


 次にトーガは床の間でナズナに聞かされた話を思い出した。


 自分は常在神であったユキと出会った驚きが原因で半分だけマブイ(霊魂)を落としてしまい、抜け落ちたマブイ(霊魂)は神の力に吸い寄せられてユキの体内に取り込まれたという。


 それだけではない。


 常在神はアカマタやクルマタなどの来訪神とは違って、人間に姿を見られてはいけないという規律が定められていたらしい。


 そのため黒城島の繁栄を司っていた常在神の力が悪いほうに働き、繁栄をもたらしていた黒城島に一変して様々な災いを起こしてしまったのだと。


 頻繁に起こった地震、荒れ狂う海、陽光を塞いだ暗色の雲、そして琉球では絶対に降らなかった雪などである。


「でも、あなたのマブイグミ(霊魂込め)が間に合ってよかった。おそらく、あのまま雪が降り続いていたら絶対に多くの死者が出ていたわ。何たってクバの木に住まわれていた常在神様をあっちこっちに連れ回したんだから」


 驚愕の話にはまだ続きがあった。


 チッチビとして力を覚醒させたナズナは、呆けているトーガにカメに勝るとも劣らぬ威厳溢れる声で言った。


 あなたは善行から常在神様を助けたいと思ったのではなく、自分のマブイ(霊魂)を無意識に取り戻すために常在神様の傍にいたのではないか、と。


「それが未だに信じられないことだ。平地に立っていた大木が常在神が住む神聖な存在だったとはな。しかも常在神だったユキの真の正体が……」


「信じられないかもしれないけど本当よ。あなたのマブイグミ(霊魂込め)を終えるなり常在神様は本来の姿に戻ってニライカナイへと帰られた。最初、私は変な形の白蛇だと思ったんだけど、後からカメバァに話したらそれは蛇ではなく竜だって言われた。竜よ竜。琉球の宗主国である明国で神とされていた神獣。驚きでしょう?」


 竜の存在はトーガも風の噂程度には聞いていた。


 形的には蛇に似ているものの頭部には何本かの角が生えており、長い顔の口辺には二本の立派な髭を持っているという伝説の生物だ。


 トーガは暗澹たる溜息を漏らすなり、船底にどっと腰を下ろした。


 そのときの勢いと波折りも合わさって小船がゆらゆらと揺れる。


「確かにユキが竜だったことは驚くべきことだ。明国で神と同格化されている竜ならば人間のマブイ(霊魂)を取り込んでしまうことも十二分にあり得るだろう」


 しかし、とトーガは口元を左手の掌で覆い隠した。


「そんなことは重要じゃない。重要なのは俺がユキに抱いていた気持ちが偽りだったかもしれなかったということだ」


「どういうこと?」


「どうもこうもない。俺は記憶がないというユキの言葉を信じ、彼女の記憶が戻るまで匿う腹積もりだった……おっと変に勘繰るなよ。俺にやましい気持ちはなかったんだからな」


「ふ~ん……」


 先ほどの怯えた表情はどこへやら。


 ナズナの冷めた視線が顔に突き刺さってくる。


「本当だぞ。俺は童子の頃から半端者だと苛められてきた。だから俺はユキのことを不憫だと思ったに過ぎない。ところが蓋を開けてみればどうだ。まるでお前は俺が自分のマブイ(霊魂)を取り戻すためにユキを匿っていたかのように言う」


「実際にそう思ったんだから仕方ないでしょう」


 でも、とナズナは急に表情を曇らせた。


「多分、常在神様はトーガのことを本気で好いていたと思う」


「常在神だったユキが人間である俺のことを? それこそ性質の悪い冗談だ。しかも俺とユキは出会って数日しか一緒にいなかった。好かれる理由がない」


「異性を好きになるのに日数なんて関係ない。その証拠にあなたのマブイグミ(霊魂込め)を行う前、常在神様が一つだけ条件を出してきたの。最後にあなたと抱擁させてくれって」


「それはジューグヤー(十五夜)の日のことか?」


「そうよ。あなたが瀕死の状態でオン(御獄)へやってきたジューグヤー(十五夜)の日のこと。もしかして覚えていないの?」


「いや、残念ながらはっきりとは覚えていないんだ。ただ、完全に意識を失う前に暖かな光が体内へ入り込んできたことは覚えている。もしかしてあれが……」


「常在神様が取り込んでしまった、あなたのマブイ(霊魂)だったのでしょうね。それは私の目にも焼きついている。あなたのマブイグミ(霊魂込め)を行った後、常在神様の身体から放出された光の一部があなたの肉体に入り込んでいく様をね。だけど、それよりも私は常在神様があなたを抱擁した姿のほうが忘れられない。あんな優しい抱擁は絶対に好いている男にしかできないわ」


 それっきり二人は押し黙ってしまった。


 トーガは顔を船底に落とし、ナズナは遠くに飛んでいる海鳥を眺め始める。


 しばしの沈黙に包まれた小船の中、再び口を開いたのはナズナであった。


「まあ、今さらそんなことを言い合っても無意味よね。どのみち私たちが島流しに処されたのは事実だもの。で? これからどうするの?」


 いい加減に問答も飽きてきたところだ。なのでトーガは低い声で本音を吐露した。


「まずは夕刻までに石垣島の仲間村へ行き、ティンダの知り合いの家へ泊めて貰う。そこで一宿一飯の恩を受けた後、次の日は船で本島へ向かうつもりだ」


「本島って首里加那志が住んでいる首里城がある本島のこと?」


「他に本島などないだろう。どうだ、これを聞いても俺と一緒に来る気か? ティンダの話によれば本島は八重山とは比較にならないほどの危険な」


 土地だぞ、と忠告しようとした瞬間である。


 ナズナは恍惚の表情を作って両の瞳を欄と輝かせた。


「一緒に行くに決まっているでしょう! 本島といえば琉球の都じゃないの! くうう、今から楽しみだわ!」


 女童のように胸を躍らせているナズナを見ていると、なぜかトーガは暗かった気持ちが徐々に晴れていくような爽快感を覚えた。


「だが分かっているのか? 俺と一緒に本島へ行くことがどういうことか」


 そこまで言葉を紡いだとき、ナズナは懐から取り出した細布をトーガに投げつけた。


 ティーチカヤー(手の使い手)であるトーガは空中で細布を綺麗に掴み取る。


 トーガが反射的に掴み取ったのは単なる細布ではなく、藍色と白色の二本線が入った身に覚えのある一本のミンサー(帯)であった。


「ナズナ、これは……」


「あなたに渡すはずだったこの世で一本だけのミンサー(帯)」


 ナズナは目を丸くさせていたトーガの懐に飛び込んだ。


 トーガは無意識にナズナの身体をしっかりと受け止める。


「ねえ、トーガ。この際だから正直に答えて。あなたは私よりも常在神様のほうが好きだったの? それとも初めから私なんて結婚の対象ですらなかった?」


「同じことを何度も繰り返し言いたくはないが、俺がユキを匿ったのは好きになったからではなく単純に放って置けなかったからだ。


 そして、お前を結婚相手と見られなかったのは妹同然と思っていたことと他にも理由がある」


 トーガはナズナにきっぱりと言い放った。


「俺は生涯に渡って妻を娶るつもりがなかった」


 これにはナズナも面食らったのだろう。なぜ、と言いたげな表情を向けてくる。


「理由は一つ。俺の身体の中に大和人の血が受け継がれているからに他ならない。しかし俺自身はそれを微塵も嘆いてはいないぞ。俺の身体に流れている大和人の血を否定するということは、生粋の大和人だった母さんを否定することになるからだ」


 ただ、とトーガは声量を低く落とした。


「もしも俺が誰かと結婚して赤子が生まれればどうなる? もしかすると、その生まれた赤子が成長した折に大和人の血を受け継いだ半端者だと罵られるかもしれない。それを思うと俺は結婚など怖くて考えられなかった」


「だからトーガは誰の女の家にも夜這いに行かなかったんだ」


「ああ……万が一、夜這いを仕掛けて赤子が生まれたら事だったからな」


「じゃあ、もう問題は解決したも同然じゃない」


 不意にナズナが奇妙なことを言い出した。


「だってそうでしょう。あなたが結婚を考えられなかったのはトーガという男には半分だけ大和人の血が流れていることを根森村の島人たちが知っていたからなのよね。だったらトーガのことを知らない土地へ行って結婚すればいいだけじゃない」


 ナズナは青空よりも晴々とした快活な笑みを見せる。


「トーガ、あなたの両親と同様にね。クダンさんとユキエさんも本島から八重山に島流しにされても立派に根森村で生きたんだもの。私たちだってやってやれないことはない」


「お前、まさかそこまで見越してこの船に?」


「さすがにそこまでは考えていなかったわよ。だから少々強引な策を取らせて貰ったけどね。事前に兄さんと相談して荷物の中に紛れ込んでって……と、とにかく人間一人が見知らぬ土地で生活するのは難しい。だけど二人なら大丈夫。きっと、どんな苦難も乗り切れるわ」


 しばしの沈黙の後、トーガは喉仏が見えるほど大きく口を開けて笑った。


「呆れたもんだ。本当にお前たち兄妹はフラー(馬鹿)だな」


「フラー(馬鹿)とは何よ! 私たち兄妹の頭が悪いとでも言いたいの!」


 トーガは小さく首を横に振った。


「悪い意味で言ったんじゃない。いい意味で言ったのさ」


 小船の縁に肘を置いたトーガは、潮の香りをたっぷりと含んだ海風に前髪を遊ばせた。


 鼻腔の奥を刺激する海の匂いを嗅いでいると、人間の考えなどちっぽけなことのように思えてしまう。それこそ、ナズナと二人ならば逞しく生きていけるのではないかと。


「ナズナ、お前は俺とならどんな苦難も乗り切れると言ったな?」


「言ったわよ」


「では、手始めに櫂を漕ぐことを手伝ってくれ。荷物が多い分、一人で船を走らせるのは一苦労なんでな」


「ジョートー(いいわよ)。日々の機織で培った機織職人の力を思い知りなさい」


 ナズナはトーガの隣に座ると、一本の櫂を両手で握って豪快に回し始めた。


「おいおい、勝手気ままに動かすな。いいか? 俺の呼吸に合わせて慎重に櫂を漕ぐんだ。そうすれば二人の力が上手く重なって船を速く走らせることができる」


「え~と勝手に櫂を動かさず、呼吸を合わせ、二人の力を上手く重ねる……って何かいやらしく聞こえるんですけど」


 にやり、と笑ったナズナにトーガは瞬時に左手を動かす。


「こんなときに何を考えているんだ、このフラー(馬鹿)!」


 広大な海に浮かぶ小船において、トーガはナズナの頭を優しく叩いた。



 トーガとナズナの先行きはおそらく上々である。




〈了〉

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【完結】島人のティーチカヤー ~琉球王国の八重山諸島で密かに武術を鍛錬していた俺、島の守り神だった少女と出会ったことで、幸福で最悪な運命の歯車が回り出す~ 岡崎 剛柔(おかざき・ごうじゅう) @xtomoyuk1203

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