秘拳の三十七 捜索

「なあ、何かどんどん寒くなってきてないか?」


 目の前の蔦を払い除けながら口を開いたのは、ティンダの家の釜場で働く男衆の一人であるアクルであった。


 他にも釜場で働く四人の男衆たちが大きく首肯する。


「ああ、俺も思った。いくら太陽が雲に隠れているからって、こんなに肌寒くなったことなんて今までに一度もなかったよな」


 一人が言い出すと途端に全員が同じ感想を口にする。


 無理もない、と集団の先頭を歩いていたティンダは空を仰いだ。


 カメの家から飛び出して一刻(約二時間)ほどが経っただろうか。


 刻限は夕方に近づいていたにもかかわらず、太陽を隠している暗色の雲が晴れる様子は一向にない。


 そればかりか汗を促す生温い風がぴたりと止み、次第に身を震わすほどの寒さを伴った風がティンダを含めた六人の男たちに容赦なく吹き荒れてくる。


 それでも今のティンダにはトーガのことしか頭になかった。


 何せ男衆の中でも凶暴なゲンシャたちに付け狙われているのだ。


 加えてトーガが連れているという白髪の女のことも気になる。


 自分と同じ年若くして白髪の人間など根森村には二人といない。


 そして他の村から船を使って黒城島に移住してきた家族がいない以上、その白髪の女は人間ではない可能性が高かった。


 ならば今はトーガを見つけることに全力を注ぐべきだろう。


 トーガがマジムン(魔物)の女に誑かされているのならば一大事だったからだ。


 ティンダは颯爽と振り向き、うつむき加減の男たちを叱咤した。


「今は肌寒さのことを考えるよりも早くトーガを見つけることが先決だ。何としてでもゲンシャたちよりも先にトーガを見つけるぞ」


 と、ティンダの凛とした声が周囲に響き渡ったときだ。


「ティンダ、俺たちはこのまま引き返さないか?」


 アクルが意外な発言を口にした。


「引き返す? 今さら何を言っているんだ」


「だって俺たちよりも先にゲンシャたちがトーガを追って森に入ったんだろ? だったら今頃トーガは捕まっているか身を潜めているかのどっちかだろうよ。まあ、こんな広い森の中に逃げ込んだんだから早々見つかるとは思えないけど、どちらにせよ俺たちが徒党を組んでトーガを捜し歩いても見つからないんじゃないか?」


「どういうことだ?」


「どういうことも何もこの森は根森村よりも圧倒的に広いんだぜ。そんな森の中を島人総出で捜索するのなら話は違ってくるが、数十人程度の男衆が捜し歩いても簡単に見つからないって言ってんだ。他の皆もそう思うだろ?」


 アクルの言葉に他の四人は渋々ながら同意した。


 現在、ティンダが連れている男衆たちは全員がティンダの家の釜場で働く男たちである。


 ニクロを追いかけてカメの家を飛び出した後、冷静さを取り戻したティンダは釜場で働いていたアクルたちに声をかけた。


 事情を知ったムガイからも頼まれたことで、釜場で働いていた男たちは二つ返事でティンダとともに森へ入ったのだ。


 他にも釜場で働くアクルたちを誘ったのにも理由があった。


 漁を生業にしている海人の男衆よりもアクルたちのほうが森の事情に詳しい。


 なぜなら、普段から陶器を作るために必要な陶土を採取しに森へ入っているのだ。


 そんな男たちならばトーガを探す大きな手助けになるとティンダは思ったのである。


 だが森の中に足を踏み入れて一刻(約二時間)が経った今、アクルたちは口を揃えてトーガたちを見つけるのは不可能だと言う。


「じゃあ、どうすればいいんだ? このままトーガたちがゲンシャたちに捕まるのを黙って見ていろと言うのか? お前たちを誘ったときにも説明しただろう。トーガは誤ってゲンシャに痛手を負わせたことで恐怖のあまり森へ逃げ込んだと」


 怒りを露にしたティンダをすかさずアクルが宥める。


「そんなことは言われなくとも分かっているさ。ゲンシャたちに先に見つかればトーガが手酷い仕返しを受けるぐらいな。でも、ここはもっと落ち着いて話をしようぜ」


 そう言うとアクルは近くの木の根に腰を下ろした。


「先刻も言った通り、森の中で人間二人を見つけるのは至難だ。俺たちだって普段は陶土の採掘場に続く道以外は滅多に足を踏み入れない。なぜかは分かるだろ?」


 ティンダは馬鹿にするなとばかりに舌打ちする。


「猪や猿などの危険な獣が出るからだろう?」


「それだけじゃない。森の奥に立ち入れば道に迷って野垂れ死ぬ危険もあるからだ」


「だったら尚更トーガたちを早く見つける必要があるだろうが。それに、このまま完全に日が落ちれば捜すことも間々ならなくなる」


「どうやら話し合いは終わったな」


 アクルの言葉にティンダは激しく眉間に皴を寄せた。


「やはり俺たちはもう引き返そう。ただでさえ太陽が雲に隠れて薄暗いんだ。ティンダが言ったように日が落ちれば森は一寸先も見えないほどの闇に包まれる。そうなったら今度は俺たちの身に危険が及ぶ番だ。たとえ松明を持ったところで無駄足に終わるだろう」


「なぜ、そう言い切れる!」


「落ち着いて頭を働かせれば誰でも分かることだ。トーガはマジムン(魔物)と思しき女を連れて逃げたんだろ? ましてや自分たちが追われることも知っている。仮に俺がトーガの立場だったら夜までじっと一箇所に身を潜めるよ。そのほうが追っ手に見つかる可能性も体力も消耗せずにすむからな。夜になれば尚更だ。息を殺しながら松明を持って現れる人間たちの動向をずっと見張り続ける。暗闇の中で松明の炎は格好の目印になるからだ」


 一気に言葉を捲くし立てたアクルにティンダは口を閉ざした。


 アクルの意見が正鵠を射ていたからだ。


 確かに日が落ちてから森の中を捜し歩くのは危険極まりない。


 それは松明を持っていたとしても同じだ。


 アクルは指摘しなかったが、下手に歩き回って禽獣の住処に足を踏み入れでもしたら取り返しがつかない。


 ティンダは深い溜息を漏らしたものの、すぐに表情を引き締めて拳を固く握り締めた。


「それでも俺は最後までトーガを探してみる。森が広いと言っても石垣島ほどじゃないんだ。獣の気配に注意しながら集落に近い森を彷徨っていればトーガを見つけることができるかもしれない」


 そこまで言ったとき、天啓とも呼べる閃きがティンダの脳裏に舞い降りた。


 ティンダはアクルに視線を向ける。


「アクル、お前は先刻こう言ったな。自分がトーガだとしたら追っ手に見つからないように一箇所に潜んでいる、と」


「あ、ああ……そう言った」


「しかし、もっと深く考えてみろ。この黒城島は四方を海で囲まれた陸の孤島だ。そんな孤島の森にずっと隠れ続けることができるものなのか?」


 アクルのみならず他の四人も互いに顔を見合わせた。


 ティンダが何を言いたいのか理解できないという顔つきである。


「だから自分に追っ手が差し向けられていると分かったとき、食べ物も飲み物もない状況で延々と森の一箇所に留まっていられるのかと聞いているんだ」


 ほどしばらくして、アクルは渋面のまま首を横に振った。


「無理だろうな。喉の渇きは沢や岩間から染み出ている湧き水を見つければ何とかなるが、さすがに空腹は森の中では十分に満たされないだろう」


「じゃあ一箇所に留まることが無理だと分かったら次に取ろうとする行動は何だ?」


「う~ん、そうだな。俺だったら早々に島から出ようと考え……あっ!」


 大きく目を瞠らせたアクルにティンダは両腕を組んで見せた。


「そうだ。もしも自分が追われていると分かった場合、取るべき手段は概ね二つに絞られる。一つ目は抵抗せずに大人しく捕まる。そして二つ目は」


「船を奪って他の島へ逃亡するかだな」


 二の句を繋いだのはティンダと同様の考えに至ったアクルである。


「おそらく。けれどトーガが黒城島から逃亡することなど考えるはずはない。もし考えたとしたらマジムン(魔物)の女に誑かされているからだろうな」


「トーガを誑かして他の島へ一緒に逃げるか。なるほど、強ち間違いではないかもな。ニクロの話を聞いた限りだと、トーガたちは自分の家に続く小道から森に入ったんだろ? だとすればトーガたちは無意識のうちに集落の方向へ逃げたことになる。もちろん、トーガたちが一箇所に留まっていないと考えてだぞ」


 ティンダは一度だけ大きく首を引いた。


「俺もアクルの意見に賛成だな。ゲンシャたちはいつもトーガを半端者だと罵っていたが、あいつは黒城島の島人なんだ。自分たちが森に逃げ込めば八方塞りになることぐらいは承知しているはず。それをマジムン(魔物)の女に話せば自ずと結論は出る。日が暮れるまで集落近くの森に潜み、日が落ちて周囲が闇に包まれた頃合を見て森から出るはずだ。しかる後に船を奪って逃亡するために」


「おい、ちょっと待て。集落近くの森って……」


 五人が固唾を呑んだとき、ティンダは一人だけ樹木から背中を離して周囲を見渡す。


「俺たちは道に迷うことを懸念して陶土の採掘場に向かう道から森に入った。幸か不幸か俺たちがいるのは集落近くの森ってわけだ」


 直後、ティンダを除く全員が身を震わせた。


「冗談じゃねえ。それって俺たちのすぐ近くにマジムン(魔物)の女が潜んでいるかもしれねえってことじゃねえか」


 落ち着いていたアクルもさすがにマジムン(魔物)の女が怖いのだろう。


 腰を下ろしていた木の根から立ち上がり、顔面を蒼白に染めながら視線を四方に彷徨わせる。


「凶暴な猪ならともかく、マジムン(魔物)の女一人に何をそんなに怯えている。それでもお前たちは男衆か。ええ?」


「猪も怖いがマジムン(魔物)の女のほうがもっと怖いわ。マジムン(魔物)だぞマジムン(魔物)。怖いと思うほうが当たり前だ」


「そうか? 俺は別に怖いと思わないんだがな」


 決して見栄を張ったわけではない。


 ティンダはマジムン(魔物)の一人や二人ぐらい恐るるに足りないと本気で思っていた。


 当然である。


 ティンダは数年前にマジムン(魔物)に襲われるよりも恐ろしい体験を骨の髄まで味わったのだ。


 あのときの恐怖に比べれば、マジムン(魔物)の女と対峙するなど恐ろしくも何ともなかった。


 それだけではない。


 ティンダは己の身体に絶対的な自信を持っていた。


 たとえ島人たちが恐れるマジムン(魔物)に襲われても身を守れる自信を。


「とにかく俺はここら辺の森を重点的に探してみる。運がよければ日が暮れる前にトーガたちを見つけることができるかもしれない。何せマジムン(魔物)の女は俺と同じ白髪らしいからな。こんな緑しかない森を歩いていれば遠間からでもすぐに見つかるだろう」


 ティンダはぐるりと他の五人の顔色を窺った。


「だが、お前たちはお前たちで好きにしろ。引き返したければ引き返せ」


 自分の意見をはっきりと口にしたティンダは、五人の顔から視線を外して歩き始めた。

 

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