秘拳の三十六 トーガとの出会い

 初めてトーガを見たときのことは今でも鮮明に思い出せる。


 黒城島の常在神という役目を与えられて幾星霜。


 ユキはクバの樹上から緑豊かな森の景観を眺め、小鳥や蝉の鳴き声を聞いて健やかに日々を過ごしていた。


 人間が決めた年数にして百年ほどが経過した頃だろうか。


 自分の住処は人間の集落から遠く離れた場所にあったため、人間がこの場所を訪れることは今後もないだろうと思って油断していた矢先であった。


 七、八歳と思しき童子がたった一人で平地に現れた。


 仰天したユキはクバの樹上から訝しんでいると、童子はきょろきょろと周囲を見渡しながらクバの木に近寄ってきた。


「おはよう。今日からここを使わせて貰うよ」


 すると童子はクバの樹上を見据えながら挨拶をしてきたのだ。


 思わず「え!」と驚愕の声を出すことを堪え、ユキは高鳴る鼓動を耳の奥で聞きながら童子の様子を見守った。


 最初は自分の姿を見られたかと思ったのだが、童子が自分ではなくクバの木に対して挨拶をしたことはすぐに理解できた。


 また童子が単なる挨拶をするために平地を訪れたのではないこともである。


 クバの木に挨拶を終えた童子は、颯爽と振り向くなりクバの木から離れたからだ。


 何をするのだろうとユキは好奇心を掻き立てられた。


 平地を訪れた童子が二人以上だったならば何かしらの遊びをするのだと予想できたものの、たった一人で平地まで足を運んできた童子の目的が判然としなかったからである。


 やがてクバの木から数十歩離れた場所で立ち止まった童子は不思議なことを始めた。


 両足を肩幅ほどに広げて腰を落とすと、脇の位置まで引いた拳を前方に突いたのだ。


 左右交互に何度も何度も拳を突く。童子の眼前には誰もいないにもかかわらず。


 ユキは童子の奇妙な行動に首を捻った。


 童子の目的は遊びではない。


 遊ぶことが目的ならば半刻(約一時間)以上も延々と突きを繰り出すことなどしないだろう。


 しばらくして童子は突きを行うことを止めた。


 全身汗だくで今にも倒れそうなほど息が上がっていたが、童子は足元をふらつかせながら再びクバの木に歩み寄ってきた。


「今日は……これぐらいで……また……明日来るよ」


 肩で呼吸をしながら童子は頭を垂れ、身体を左右に揺らしつつ平地を後にした。


 その日からユキの日常に一遍の張りが出たのは言うまでもない。


 童子は嘘をつかなかった。次の日から童子は毎日平地に来ては奇行を始めたのだ。


 一人で突きや蹴りを何十、何百回と繰り返す。


 ユキは人間たちの間で流行している踊りの鍛錬かと思ったがそうではなかった。


「僕の名前はトーガ。こうして父さんから学んだ〈手〉を鍛錬するティーチカヤー(手の使い手)なんだ……いや、今の僕の腕前ではティーチカヤー(手の使い手)とは言えないな。父さんには少なくとも三年は鍛錬を続けろと言われているし」


 半月が経った頃だろうか。


 クバの木の根元で休んでいたトーガと名乗った童子は、誰に言うでもなく自分のことを話し始めた。


 本人は一人でいる寂しさを紛らわせるための独白だったのだろうが、クバの樹上からトーガの話を聞いていたユキにとってトーガの独白は森の景観を眺める以上に胸が躍った。


 百余年の間クバの樹上に隠れ住んでいたユキとは違い、トーガが語る自身の身近な話は起伏に富んだ凄まじい内容だったからだ。


 中でも特に心を揺さぶられたのはトーガと両親の話である。


 トーガの父親は八重山から遠く離れた本島の生まれであり、母親はその本島からさらに遠く離れた異国である大和で生まれた女という話だったからだ。


 またトーガが密に〈手〉を鍛錬する理由にも驚かされた。


 本島には血生臭い戦で発展した〈手〉と呼ばれる武術が受け継がれており、トーガの父親も八重山に島流しに遭うまでは那覇で明国人から明国の医術と武術を学んだティーチカヤー(手の使い手)だということも聞いた。


 ただ人間の怪我や病気を治す医術とは逆に〈手〉は人間を殺傷しうる恐るべき武技のため、〈手〉を学ぶ者は人目を避けて鍛錬に励むことが通常であるらしい。


 そのため、トーガは一人で静かに鍛錬できる場所を追い求めてこの平地へとやってきたという。


 もちろん、このような話は毎日聞けたわけではない。


 平地に来た早々から黙々と〈手〉の鍛錬に励み、一度のナカユクイ(一休み)も挟まずにそのまま帰っていくこともあった。


 けれども挨拶だけは別だ。


 平地にやって来て〈手〉の鍛錬を始める前と、〈手〉の鍛錬を終えて帰るときは必ずトーガはクバの木に挨拶をする。


 物言わぬ樹木に挨拶をするなど変な童子だと思っていたユキだったが、数年が経ってトーガの容姿が大人びてきた頃には嘲笑の念など綺麗に頭から吹き飛んでいた。


 それだけではない。


 自分のことを俺と言うようになり、枯れ木のように細かった肉体が齢を重ねた樹木の如き頑強に育ったトーガと面と向かって話をしたくなったのだ。


 いつも頭上から見下ろしていたトーガの隣に座り、一方的に自分や根森村のことを話すトーガに相槌を打つ。


 それが叶わぬのならばせめて挨拶だけでも交わしたかった。


「おはよう、今日もいい天気になりそうだな」と言われれば「そうですね、雲の流れから見て今日も夕刻まで暑くなりそうです」と返事をしたかった。


「さて、そろそろ帰るか。今日は父さんに付き添って村外れまで行くんだ。〈手〉と並行した学んだ医術を実践するためにな」と帰り際に言われれば「それは大変ですね。私もここからあなたの施術が上手くいくように祈っております」と返事をしたかった。



 ――人間は人間。神は神。互いは引かれ合いそうで相反する。ゆめゆめ忘れるな


 アマミキヨから授かった言葉を心中で反芻したユキは、膝元に付着していた土を払い除けて綺麗な所作で立ち上がる。


「此度の黒城島に起こった異変の原因はすべてあなたではなく私にあります。人間のあなたに力を貸しただけではなく、いけないと知りつつもあなたの厄介になってしまったのだから」


 ですが、と憂いを帯びた表情でユキは目元に潤んだ涙を拭った。


「本当に嬉しくもあり楽しかった。常在神としての役目を担っている以上、人間と一緒に暮らすなど絶対にないと思っていました。ましてや童子の頃から成長を見守ってきたあなたと暮らすことになるなどアマミキヨ様でも夢想できなかったことでしょう」


 当たり前だ。


 アマミキヨだけではない。


 琉球国を根底から支えている多くの神々の中でも常在神と人間が暮らすことなど考えるはずがなかった。


 なぜなら人間と神が互いの存在を確かに認め合ったとき、海流同士が激しく衝突して渦が発生するように人間と神の周辺で渦よりも強大な異変が起こるからだ。


 常在神であるユキが人間のトーガに姿を見られ、その日を境に黒城島に様々な異変が起こり始めたように。


 一拍の間を空けた後、ユキは抑揚を掻いた口調で言葉を紡ぐ。


「私はこれより最後の責任を果たして参ります。このままでは遅かれ早かれ黒城島に生きる者たちが悉く死に絶えてしまう。それだけは黒城島の常在神として是が非でも阻止しなくてはなりません」


 ユキは徐々に呼吸が穏やかになってくトーガを見て破顔した。


「トーガさん、あなたとはもう二度と会えなくなるでしょう。しかし、それが本来あるべき正しい形なのです。人間と神の間に定められた規律は破ってはいけない。にもかかわらず、私は定められていたその規律を破ってしまった」


 ユキは緩んだ表情を引き締めつつ颯爽と踵を返す。


「さようなら……私が愛してしまった最初で最後の人」


 一度も振り向かずにユキは掠れるような声で囁くと、黒城島の異変を静めるために落ち着き払った足取りで歩き始めた。


 根森村から感じる膨大なセジ(霊力)が満ちている場所へと。

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