秘拳の二十三 島人のティーチカヤー

 心地よかった眠りを破ったのは、多年草の枝葉が大きく揺れるほどの微震だった。


「久しぶりに母さんの夢を見たのはいいが、地震で目覚めるとは最悪ここに極まるだな」


 トーガは目蓋を擦りながら暗雲が垂れ込めていた空を見上げた。


 時刻は昼前だろうか。


 トーガは〈手〉の鍛錬場所であった平地におり、大きくへこんだ大木の樹皮に背中を預けていた。


 クダンから学んだ〈手〉の鍛錬は日課だったものの、ここ数日は仕事が忙しくてまともな鍛錬ができないでいた。


 原因は三日前に起こった強震のせいである。


 ゲンシャとティンダの角力(相撲)勝負の際に起こった強震は、根森村に少なからず被害をもたらしていた。


 家屋が倒壊するという最悪な事態こそ免れたが、強震のせいで怪我をした人間が何十人も続出したのだ。


 そうなると当然、医者であるトーガに治療を頼む者が続出する。


 小さな擦り傷や打撲ぐらいでは医者の世話にならない者はいたが、今度ばかりは怪我の具合も規模も大きすぎた。


 トーガはモーアシビ(毛遊び)が開かれた翌日から村を駆け巡り、手酷い打撲や骨折を負った者を指圧、接骨、膏薬など自分が習得していた医術と按法の限りを尽くして治療して回った。


 朝から晩まで三日間ぶっ通しでだ。


 だから今日は三日振りに〈手〉の鍛錬を再開できた。


 けれども治療で疲れ切った上、三日分の鍛錬をこなそうと無理をしたことがいけなかった。


 鍛錬を終えたと同時に強烈な疲労と眠気が襲ってきたのだ。


 なのでトーガは大木の樹皮に身体を預けて軽い睡眠を取ったのだが、まさか自分の疲労の最大の原因であった地震で起こされるとは何とも目覚めの悪い気分である。


 加えて空一面がどんよりと暗いのだ。三日前の晴天が嘘のようであった。


 トーガは緩慢な動きで立ち上がると、首を左右に振って骨を鳴らした。ついでに両手の手首も振って気持ちを落ち着かせる。


 だが、いつものように気持ちが晴れることはなかった。


 〈手〉の鍛錬の後は必ず身体を動かした爽快感と技が磨かれた高揚感を覚えるのだが、今日は言い知れぬ不快感と倦怠感しか込み上げてこない。


(きっと疲れが溜まっているだけだ。そうに決まっている)


 根拠ない説得を自分に言い聞かせたトーガは、昼餉を取るために自宅へ帰ろうとした。


 ただでさえここ三日間は村中を走り回っていたのだ。


 あまり家を留守にしするとユキが不安になってしまうだろう。


 そう思った直後であった。


 トーガの視界に白い人影が飛び込んできた。髪の毛や肌の色だけでなく、純白の衣装を着た女の姿がである。


「ユキ、どうして君がここに?」


「お昼になっても戻ってこなかったので心配したのです。それで探し回った挙句にここの場所を思い出しました……それで」


 自分がユキと名づけた女は、多年草の陰から出てくるなり小さく頭を垂れた。


「それでご迷惑かと思ったのですが握り飯と水を持ってきました」


「本当か? それは助かった。わざわざ家に戻らなくともすむ」


 トーガはユキを大木まで招くと、硬い大木の樹皮に背中を預けて座るように誘った。


 ユキは誘われるままトーガの隣に座り、葉で包まれていた握り飯をトーガに手渡す。


 腹が減っていたトーガは、握り飯を受け取るなり一度に半分以上も頬張った。


「お水は要りますか?」


「ああ、貰おう」


 あっという間に握り飯を平らげると、トーガは隣に座っていたユキから差し出された細長い陶器を受け取った。


 蓋を片手で器用に外し、中身の水を半分ほど一気に胃の中に流し込む。


 ひんやりとした水を飲んだことで一息ついたトーガは、口周りに付着していた水気を手の甲で拭いつつユキに問いかけた。


「だが、よくここが分かったな。女の足だと傾斜地を登るのにも難儀しただろう?」


「そうですね。前に話を聞いていなかったら分からなかったと思います」


 ユキが平地に辿り着いたのは偶然ではなかった。


 当然と言えば当然である。トーガはユキが目覚めたときに話していたのだ。


 ユキが平地に一本だけ立っていた大木の樹上から落ちてきたことを。


 ならばユキが森の中を彷徨っている途中、平地の存在を思い出したのは理に適っている。たとえ当人がいるいないに限らず、とにかく一度は足を運んでみようと思うのは納得できた。


 トーガは汗を含んだ前髪をさっと掻き上げる。


「余計な心配をかけてすまなかった。本当は昼前には帰るつもりだったんだが、ここのところ仕事に忙殺されたせいで疲れ果てていたんだろうな。まったく医者として失格だよ。まさか薬草を探す途中に眠り込んでしまうとは」


 乾いた笑みで話を逸らそうとしたトーガとは打って変わり、遅めの昼餉を取り始めてから何も尋ねてこなかったユキは初めて表情を曇らせる。


「薬草を探していたというのは嘘ですよね?」


 ユキの言葉にトーガは笑みを崩した。


「すいません。覗くつもりはなかったのですが……その、あまりにも熱心だったもので出ようにも出られなかったのです」


 それだけでトーガはすべてを理解した。


 ユキは目撃してしまったのだ。自分が大木の木陰で眠り込む前に何をしていたのかを。


「そうか、つくづく今日の俺は疲れきっていたんだな。もっとも注意を払うべき〈手〉の鍛錬を見られていても気づけないとはティーチカヤー(手の使い手)として失格だ」


「ティーチカヤー(手の使い手)?」


「そのままの意味さ。〈手〉と呼ばれる武術の使い手のことをティーチカヤー(手の使い手)と言うんだ」


 続いてトーガは見られたのなら仕方ない、と吐息した。


「君の言う通りだ。ここに足を運んでのは薬草を探しに来たからじゃない。俺が今日ここに足を運んだのは父さんから学んだ〈手〉の技を鍛錬するためだった」


 トーガの告白にユキは黙って耳を傾ける。


「門外漢の君に言っても分からないとは思うが、〈手〉は琉球全土に広まっている角力(相撲)とは違って父から子に受け継がれる一子相伝の秘術なんだ。公の場は無論のこと、親しい友人にも見せることは避けろと父さんに教えられた」


「では、もしも赤の他人に見られた場合はどうするのですか?」


 と、ユキがたどたどしい口調で尋ねたときだ。


 トーガは左手を手刀の形に変化させると、左隣に座っていたユキに攻撃を繰り出した。


 トーガの手刀打ちがユキの頭部目掛けて飛んでいく。


 ユキは瞬き一つできなかった。それほどトーガが放った手刀打ちは神速の域に達していたからだ。


 まともに受けていたらユキは軽い怪我ではすまなかっただろう。


 ただし、それもトーガが本気で手刀打ちを当てるつもりだったならばだ。


 トーガはユキの頭部に触れる寸前で手刀打ちを止めると、続いて目を丸くさせたユキの白髪を優しく撫でた。


「そんなに怯えるな。少なくとも俺は何もしない。まあ、知られた相手が自分と同じティーチカヤー(手の使い手)だったならば話は違ってくるかもな」


「お、驚かさないでください。本気で殺されると思いました」


「ははは、悪い悪い。ほんの少しからかっただけだ。殺すつもりなんて毛頭ないさ」


 だがな、とトーガは険を含ませた顔つきでユキに忠告した。


「万が一、俺以外のティーチカヤー(手の使い手)を見つけたときは注意しろ。特に相手の鍛錬を覗き見したときは絶対に本人や周囲の人間に話すな。中には過敏なほど己の技を秘匿するティーチカヤー(手の使い手)もいるというからな」


 などと厳重に注意したトーガだったが、これはあくまでも黒城島を除く八重山や宮古島、琉球本島から奄美近辺までに目を向けた場合に限ると付け加えた。


 少なくとも根森村には自分以外のティーチカヤー(手の使い手)はいない。


 トーガは十八年間生まれ育った根森村で医者として働くうちにそう思うようになった。


 どちらかと言えば根森村は角力(相撲)が護身術として広まっている。


 また、根森村はオヤケ・アカハチの乱から逃げ延びた島人たちが作った集落だ。


 そしてこれは八重山に住む島人たちも知っていることだが、琉球王府に弓を引いたアカハチは棒術を得意としたティーチカヤー(手の使い手)だったという。


 だとすると、根森村の島人たちがティーチカヤー(手の使い手)を快く思っていないことは普通に頭を働かせば分かることだ。


 おそらく根森村は八重山の中で最もティーチカヤー(手の使い手)が住みにくい村の一つだろう。


「そう言うわけで俺がティーチカヤー(手の使い手)だということは誰にも秘密だぞ。君だから特別に話したんだ」


 トーガは自分の口元に一本だけ突き立てた人差し指を近づける。


「分かりました。誰にもトーガさんがティーチカヤー(手の使い手)だということは他言致しません……その代わり、一つ伺ってもよろしいですか?」


「俺が答えられる範囲のことならな」


 ユキは艶かしい桃色の唇を動かした。


「どうしてトーガさんは私に優しくしてくれるのです?」


「え?」


 呆気に取られたトーガに構わずユキは言葉を紡ぐ。


「見ず知らずの私を数日間も泊めてくれたばかりではなく、今のように他人はおろか門中にも隠すべき事柄まで教えてくれました。それは一体なぜですか?」


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