秘拳の二十二 トーガの過去

 その日、トーガは見るも無残な姿で家に帰ってきた。


 両鼻と口の間には鼻血を擦った跡が見受けられ、藍色の芭蕉布で織られた着物も右肩の部分が不自然に破れている。


「どうしたの? トーガ」


 トーガの痛々しい姿を見るなり、母親のユキエは着物の綻びを繕うことを中断した。


「何でもない。帰る途中の道で転んだだけだから」


 数日前に六歳を迎えたトーガは、鼻をすするなり素早く奥の部屋へ向かう。


「嘘言いなさい。また誰かに苛められたのでしょう?」


 ぴたりとトーガの足が止まる。


「違うよ。本当に道で転ん――」


「こっちへ来なさい」


 有無を言わせないユキエの迫力に押され、トーガは仕方なく土で汚れていた足を洗って床の間へおずおずと上がった。


「破れている場所を縫ってあげるから着物を脱ぎなさい」


「これぐらい平気だよ」


「トーガ、母の言うことが聞けないの?」


 若干の怒気を含ませたユキエの声は重苦しかった。


 またユキエの言葉が不慣れな琉球語から流暢な大和語になったこともあり、トーガは童子ながらに言い逃れはできないと悟った。


 しばしの間を空けた後、トーガは着物を脱いで下着一枚になった。日焼けしていない華奢な身体の至る場所に青痰ができている。


 ユキエは真剣な面持ちでトーガの肉体を摩り始めた。


「骨は折れていないようだけど思ったより打撲傷が酷い。一人じゃなく四人から五人に殴られたのね?」


 トーガは瞬きを忘れて瞠目した。


 当然である。ユキエの言ったことはすべて当たっていたからだ。


 あらかたトーガの怪我の具合を確かめたユキエは、部屋の隅に置かれていた小棚から一つの貝殻を取ってきた。


 貝殻と言っても中身は数種類の薬草と油を混ぜて作られた膏薬である。


「少し染みるけど我慢なさい」


 ユキエは非常に慣れた手つきで膏薬をトーガの肉体に塗っていく。


「母さん、一つ訊いていい」


 青痰ができていた箇所に膏薬を塗られたトーガは、ユキエを見下ろしながら琉球語ではなくたどたどしい大和語で問うた。


「どうして母さんは大和を捨てて琉球に来たの?」


 以前から聞いておきたいことだった。


 母親のユキエは生粋の大和人だ。


 芭蕉布の着物を身に纏うことが普通な根森村でも、ユキエだけは大和から持参した木綿の着物を着ている。


 髪の色や肌の色などは琉球人と区別はつかないが、やはり他の女たちと比べると何かが微妙に違う。


 何をするにも気品というものが漂うのだ。


「そう言えばトーガには話していなかったわね」


 膏薬を収めた貝殻を閉じると、ユキエは「そこへ座りなさい」と優しい口調で言った。


 トーガは言われた通りに座った。胡坐ではなく背筋を伸ばして正座する。


「琉球の人たちは私たちの国を大和と言うけど、私たちは自分たちの国を大和ではなく日本と呼ぶの。そして私は日本の中でも越前という国で生まれ育った。海にも山にも恵まれた豊かな土地でね。住んでいた人たちも穏やかな人たちばかりだったわ。冬には雪が多く積もって困ることは大いにあったけど」


 途端にトーガは目を欄と輝かせ、詳しく話を聞くために身を乗り出した。


「ねえねえ、その越前って国はどれぐらい雪が降るの?」


「雪国だったからたくさんたくさん降ったわよ」


「じゃあ何で琉球には降らないんだろう。だって雪って凄く綺麗なんでしょう?」


「綺麗だけど薄着でいたら一晩で凍死してしまうのよ」


「それでも一度は雪を見てみたいよ。母さんの故郷に行けば見られるんだよね?」


「けれど越前国は琉球からとても遠く離れた場所にある」


「石垣島よりも遠い?」


「もっと遠いわ」


「首里加那志って人がいる琉球本島よりも?」


「首里加那志……ああ、琉球国王のことね。そうよ、琉球国王が住まわれている琉球本島よりもずっと遠くに日本と越前国はあるの」


「ニライカナイとどっちが遠いかな?」


 ユキエから越前国の事柄を聞いたトーガは、親友であるティンダの母親から聞かされた琉球に伝わる理想郷の話を思い出した。


 琉球から遥か海の彼方に浮かんでいるニライカナイという島には、琉球国を創ったとされるアマミキヨを始めとした様々な神々が住んでおり、琉球国全土に五穀豊穣を分け与えるために色々な作物が実っているのだという。


「海の彼方に浮かぶ異郷――ニライカナイか。本当にあるのならいいのにね」


 ユキエは声量を落とし、一つ一つ言葉を選ぶように語り始めた。


「話を戻すわね。私が生まれ育った故郷を捨てたのは、越前国だけじゃなくて日本全土で大きな戦が起こったからのよ」


「戦って人がいっぱい死んじゃうんだよね。ムガイのオジィから聞いたことがあるよ。昔、八重山でも大きな戦があって人がたくさん死んじゃったって」


「私も知っているわ。アカハチが起こした乱のことね。けれど、日本で起こった戦はそんな小さなものじゃなかったの。大人は無理やり戦に駆り出され、働き手を失った女や童子が悪い人たちに売られることなんて当たり前だった」


 トーガは恐怖のあまり自分自身を抱きしめるような仕草を取った。


「だから母さんは琉球に逃げて来たの?」


「私だけじゃない。他にもたくさんの人が大坂の堺から琉球に渡った。今でもそうだと思うけど、大坂の堺は琉球だけじゃなくて南蛮とも交易していた貿易港だったから」


「大坂? 堺? 南蛮?」


「トーガは知らなくてもいいのよ。あなたはここでずっと幸せに暮らせばいいの。日本のことなど気にせずにね」


「ここにいれば幸せに暮らせる? じゃあ、何で僕は皆に苛められるの?」


「トーガ」


 ユキエは乱れたトーガの前髪を細くしなやかな指で整える。


「今日は何て言われて苛められたの?」


「お前は大和人の母親を持つ半端者だって。


 それに父親は琉球人だけど琉球本島から八重山に島流しにされた罪人だって言われた」


 事実である。


 ティンダと海辺で遊んでいたとき、自分たちよりも頭一つ分は背丈が高い童子が数人の取り巻きを連れて現れた。


 ティンダは顔見知りだったらしく、不機嫌な顔で「ゲンシャの奴だ」と吐き捨てたように声を漏らしたことは覚えている。


 そしてゲンシャたちは開口一番に角力(相撲)の稽古をつけてやると言い出し、断る間もなくティンダとトーガは強引に角力の稽古をつけられた。


 いや、あれは稽古ではなくて完全に苛めだった。


 背中から地面に落とされても勝敗は無効と判断され、倒されたまま殴る蹴るの暴行を加えられたのだ。


 またゲンシャは主にトーガに暴行を加え、あまつさえトーガの母親と父親の悪口を思う存分に言い捨てた。


「それで、あなたは手を出さなかった?」


「出さなかったと言うよりも出せなかった。だって僕やティンダよりもあいつらのほうが年上だし身体も大きいんだよ。まともに闘って勝てるはずない」


「いいのよ。トーガは誰とも争う必要はない。こんな苛めもしばらくすればなくなるわ」


「それでも悔しいよ」


 トーガはぎりりと奥歯を軋ませた。


「苛められたことが悔しいの?」


「違う。母さんや父さんのことを馬鹿にされたのに僕は何にもできなかった。それどころか友達のティンダにも迷惑をかけた。それが心の底から悔しいんだ!」


 目元に溜まった涙を掌で拭うと、トーガは「強くなりたい」と呟いた。


「僕は強くなりたい。母さんや父さん、ティンダやナズナを守れる強さが欲しい」


 やがてトーガが右拳を固く握り締めたときだ。


「あなたはやっぱり父さん似ね」


 ユキエはトーガを引き寄せるなり、痛みを感じるほど強く抱きしめた。


 トーガの鼻腔にユンの花から香るような甘美な匂いが漂ってくる。


「トーガ、今度は私から訊くわ。あなたが強くなりたい理由は単に仕返しがしたいという不純な動機ではないのね?」


 ユキエがそっと抱擁を解いて尋ねると、トーガは大きく首を縦に振って見せた。


「だったら私よりも父さんに相談なさい。あの人ならきっと力になってくれるわ」


「父さんが?」


「ええ、そうよ。だって父さんはティーチカヤー(手の使い手)だもの。きっとあなたが欲する力を与えてくれるわ。そのときにでも聞きなさい。父さんがどうして琉球本島から八重山に島流しにされたのか。今のあなたならきっと分かる。父さんは決して罪人だから島流しにされたのではないということをね」


「母さん、ティーチカヤー(手の使い手)って何? 父さんは医者なんじゃないの?」


 そう神妙な顔つきで問い返したときだ。


 突如、トーガの身体が左右に大きく揺れ始めた――。

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