秘拳の十三  君の名は

(思い出せない? つまり自分についての記憶を失っているということか)


 トーガは沈痛な面持ちで口元を左手の掌で覆い隠す。


 記憶の喪失。


 これはクダンから医術の手解きを受けた際に聞いたことがある。


 人間は心に強い苦痛を伴ったときや頭部に強い衝撃に見舞われたとき、自分に関する記憶を失ってしまう場合もあるという。


 どういう原理かは分からないが、医術も武術も大きく発展している明国でも似たような症例があったらしい。


 ならば白髪の女が記憶を失った原因は二日前、大木の樹上から落ちて地面に叩きつけられたときに生じたのではないだろうか。


「だったら君の記憶はどこまであるんだ? 自分の名前も知らない。両親の存在も知らない。門中の意味も知らない。これじゃあ知らない尽くしじゃないか」


「ふふふ、知らない尽くしって何か面白い響きですね」


「いやいや、そんなことに反応するな。俺が訊きたいのは」


「私の記憶がどこまであるのかですよね?」


 途端に白髪の女の声が低くなった。


「自分の名前や両親、門中の記憶はまったくありません」


「この家の屋根よりも高い大木の樹上から落ちてきたことも覚えていないか?」


「申しわけありません……覚えていません」


 トーガは再び長考に入った。


 記憶がまったくないということなど本当にあるのだろうか。


 確か先ほどの明国の症例でも記憶が欠如することは非常に稀だと教わったのだが。


(待てよ。まさかこの子は……)


 次の瞬間、トーガは意外な結論に達した。


「そういうことか!」


 トーガは瞬時に立ち上がると、床の間の壁に飾っていたススキの葉を取りに向かった。


 先端部分が曲げられたススキの葉――サンだ。


 以前にチッチビの一人から治療の報酬として貰った物であり、チッチビが言うには古来よりススキの葉は形が剣に似ているのでマジムン(魔物)撃退用の呪具として重宝しているという。


「お前の正体は分かった。お前は人間の女に化けたマジムン(魔物)だな」


 呆然とする白髪の女にトーガはサンを向けた。


「どうだ、恐ろしくて声も出ないか!」


 トーガは実際にサンで白髪の女を軽く叩いた。


 もしも白髪の女がマジムン(魔物)の類なら何らかの拒絶の態度を見せるはずだ。


 しかし――。


「あのう、それは何かの遊びですか?」


 白髪の女の反応はどこ吹く風とばかりに首を捻った。


 魔除けの効果が高いサンを微塵も恐れていない。


 それどころか、サンが首筋などに触れたときは「くすぐったいです」と屈託のない笑みを浮かべたほどだ。


(そんな……この子はマジムン(魔物)じゃないのか)


 効果がないと分かったトーガは、サンで白髪の女を叩く行為を止めた。


「マジムン(魔物)でもない。記憶もない。もう何が何だかさっぱり分からん」


「私もです。ですが一つだけ分かったことがありました」


 そう言うと白髪の女は綺麗な所作で立ち上がった。トーガは目眉を細めたまま白髪の女を見上げる。


「何が分かったんだ?」


「私がここにいるとあなたに迷惑がかかる、ということがです」


 失礼しました、と白髪の女は戸口に向かって歩き出す。


 十歩ほど歩いたときだろうか。トーガは出て行こうとする白髪の女に問うた。


「ここから出て行ってどうする? 行く宛てはあるのか?」


 白髪の女は立ち止まり、顔だけを振り向かせた。


「いえ、どこもありません」


「ならばどこへ行くつもりだった?」


「風の向くまま気の向くまま、村の中でも彷徨ってみようかと」


「フラー(馬鹿)! 記憶をなくしたまま村へ行ってどうする。そんなことすればツカサ様のお抱えの男衆に捕まってしまうぞ」


 腹の底から大声を発した後、トーガは前髪を掻き毟りながら大きな溜息を漏らした。


「それが嫌ならここにいろ。幸い俺の家は集落からかなり離れている。ここにいる限り村の人間たちに見つかることはないだろう」


「え? でも、ご迷惑になるのでは」


「仕方ないさ。どんな事情であれ君を家に連れて帰ってきたのは俺なんだ。それに男の一人暮らしだから居候の一人や二人ぐらい増えても構わん。まあ、男の家に住むのが不安ならば無理にとは言わないがな」


「本当によろしいのですか? 私は記憶をなくしている上に素性も分からないような女なのですよ」


 ゆっくりと踵を返した白髪の女は、目元に涙を溜めながら両膝をついた。


「マジムン(魔物)の類じゃないなら別にいいさ」


 それに、とトーガは二の句を繋いだ。


「素性の知れない人間が村でどういう扱いを受けるかは分かっているからな」


 唇の端を吊り上げると、トーガは白米が盛られた椀を白髪の少女に差し出す。


「丸二日も眠っていたら腹が減っただろう。これでも食べな」


「ありがとうございます」


 白髪の少女は鼻を啜りながら膝立ちのまま近寄ってきた。


「とても美味しそう」


 椀を受け取るなり、白髪の女は嬉しそうに破顔した。


 その笑顔を見てトーガは心臓に鋭い痛みを感じた。


 病気からくる痛みではない。


 それはトーガ自身が誰よりもよく理解していた。


「なあ、君は自分の名前も覚えていないんだろ? だったら記憶を取り戻すまで俺が仮名をつけてやろうか?」


 余計なお世話かと思ったが、白髪の女は迷うことなく首を縦に振ってくれた。


「そうか。だったら今日から君の名は」


 トーガは脳裏に浮かんだ名前を粛々と告げた。


「ユキ、というのはどうだ?」

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