秘拳の十二  年若くして白髪

 トーガの家は根森村の集落から離れた場所に建っている。


 カメの家のような立派な貫木屋式ではなく、ティンダや他の人間たちが住んでいる茅葺式の家でもない。


 掘っ立て小屋である。根森村の住人でなければ廃屋と誤解されてしまうだろう。


 それほどトーガの家は他の家と違って一段劣る粗末な造りだった。


 場所も場所である。


 生命力に優れた植物が生い茂る中に点在しており、定期的に家の周囲の植物を刈り取らなければ僅かな月日で侵食されてしまう。


 しかし、ここに住む利点も少なからず存在する。


 家よりも高い植物の葉が強い日差しを遮る笠の役割を果たし、暑くて眠れない日が続くということがあまりない。


 またトーガの家は絶えず涼しげな風が家の隙間から入ってくる。


 一年を通して蒸し暑い日が続く黒城島にあってはすこぶる快適だ。


 もちろん食料の調達や仕事のために、村まで結構な距離を歩かなくてはならない不便性さえ問わなければの話だが。


「ようやく雨が上がってくれたな。これなら今日からでも仕事を始められるぞ」


 トーガは水瓶やかまどが置かれた台所の窓から外を覗く。


 二日間も降り続いた雨が止んだのは今朝である。


 瓦も茅も敷いていない屋根なので雨が止まなかったら天井を貫かれるかと心配したが、何とか天井が雨で貫かれる前に止んでくれたので取り越し苦労ですんだ。


 続いてトーガはかまどに乗せていた米釜の蓋を取った。


 蓋を取るなり大量の湯気が米釜から立ち昇る。すかさず用意した杓文字で一粒一粒が立っている白米を掻き混ぜた。


 米釜の底が焦げつくような失敗は見られない。


「うん、俺の炊事の腕前も中々に上達したもんだ」


 上々な米の炊け具合にトーガは満足した。


 これに海水で味付けした汁物を用意すれば朝餉の完成だ。


 たまに山菜や魚も付け加えることもあるが、大抵の朝餉は白米と汁物だけで十分に腹は膨れる。


 白米と汁物が入った器を両手に持ち、トーガは台所から床の間へ移動した。


 床の間と言っても歩く度に歪な音が鳴る板張りの部屋だ。


 しかも台所から目と鼻の先にあるので別の部屋という概念が薄い。


 それでも生まれ育った大事な家だ。その点ではトーガは特に不満はない。


「確かに不満はないが……」


 床の間の中央には年季の入った一枚の布団が敷かれていた。


 数年前に他界した母親が使用していた布団である。


 なので母親が死んでからは部屋の隅に畳んでおいたのだが、再びこうして床の間に敷くことになるとは二日前には夢にも思わなかった。


 現在、母親の布団は一人の女が使用していた。


 年齢は十五、六歳ぐらい。


 鼻先まで垂れた前髪から覗く顔は、何度となく見ても美人という言葉しか浮かんでこない。


 きめ細やかな色白の肌に高くもなく低くもない鼻梁。


 薄紅色の唇からかすかに漏れる音は拍子の決まった健やかな寝息だ。


 無駄な贅肉などもまったくなく、間近で見れば見るほど胸の鼓動が高まる恐ろしい魅力を全身から発していた。


 そして丸二日間も寝ているにもかかわらず、特にやつれた様子は窺えない。


 トーガは女の枕元に静かに座った。


「この子は今日も起きないか」


 すべては二日前、大木が立つ平地で猪に襲われたことが事の発端だった。


 そのときは何とか機転を利かせて猪を撃退することに成功したものの、まさか猪を撃退した後に一人の女が大木の樹上から落ちて来るなど誰が予想できただろうか。


 無論、トーガも予想などできなかった。


 それに意識を失っていた女を平地に放置しておくわけにもいかず、久しぶりの雨が降ってきた手前もあり仕方なく家に連れ帰ってしまった。


 その後、トーガはずぶ濡れになった女の着物を母親の着物に着替えさせた。


 雨に濡れたままでは風邪を引いてしまうと己に強く言い聞かせながらである。


 事情は女が意識を取り戻した後にでも聞こう。


 そう暢気に考えていたのだが、女がその日のうちに意識を取り戻すことはなかった。


(寝息を立てているのだから命に危険はないはずだが)


 などと医者として判断したのだが、丸二日間も起きない状態は普通ではなかった。


 いや、普通ではないことは他にもある。


 トーガは溜息を吐きながら女の髪に注目した。


「まさか、この子もティンダと同じ若くして白髪とはな」


 二日前に連れ帰った女の髪色は年老いた老人が持つ銀がかった白髪ではなく、誰もが澄み切った青空に浮かぶ雲よりも白いと答えそうなほどの見事な白髪だったのだ。


(本当に綺麗な色だ。まるで昔に母さんから聞いた……)


 トーガは無意識の内に女の髪の毛を右手の指先で撫でた。


 織物に使用される糸のような肌触りのいい質感。鼻腔に漂ってくるほんのりと甘い香り。こんな風に女の髪を触ったのは母親とナズナ以外初めてだった。


「君は一体何者なんだ? どうして大木の樹上から落ちてきた?」


 囁くように尋ねるが女からの返事はない。


 もしかすると、白髪の女はこのまま何十年もここで眠り続けるのではないか。


 と、トーガが不安に駆られたときだ。


 不意に女の目蓋がぴくりと動いた。徐々に閉じられていた目蓋が開き、互いの視線がしっかりと交錯する。


「や、やあ、おはよう。き、気分はどうだ?」


 トーガは目覚めた女にしどろもどろに声をかけた。


 だが女は何も話さない。ただ意志の強そうな琥珀色の瞳で見つめ返してくるのみ。


「どうした? なぜ何も言わない?」


 まさか、とトーガは鈍っていた思考を働かせた。


 この白髪の女はティンダと同じ体験をした故に白髪になったのではないだろうか。


 そして髪の色が抜け落ちただけではなく口も聞けなくなってしまった。


 それならば女の髪の色や口が利けない理由にも説明がつく。


「あ……あの」


 聞き覚えのない声にトーガは瞳孔を拡大させた。


 耳の奥をくすぐられるような柔らかな声は、白髪の女の口から漏れたものだ。


 その声を聞いてトーガは安堵の息を吐いた。どうやら聾唖ではないようである。


「俺の声は聞こえるか?」


「は、はい……しっかりと聞こえています」


 白髪の女は仰向けのまま答える。


「だったら訊くぞ。君は何者だ?」


 単刀直入な物言いに白髪の女は寝たまま小首を傾げた。


「あ~、まどろっこしい。まずは起きろ。起きて正面から俺の話を聞くんだ」


「分かりました。今すぐ起きますね」


 思ったよりも白髪の女は素直だった。


 トーガの要求に応えるべく、緩慢な動きで上半身だけを起こす。


 次に身体ごと振り向き、着物の裾を直して綺麗に正座する。


 そのとき、トーガは改めて白髪の女の美貌に眩暈を覚えた。


 美人という括りがあるならばナズナも範疇に入るだろうが、眼前に正座している白髪の女の美貌は風格が違う。


 いや、風格と言うよりも美格が違うとでも言うのだろうか。


 とにかく村の美人たちとは異なる美の雰囲気が白髪の女からは滲み出ている。


 決して豊満な体躯ではない。


 どちらかと言えば華奢なほうだ。


 それは母親が愛用していた木綿地の着物を纏っていてもはっきりと見て取れる。


 トーガは一度だけ咳払いをして喉の調子を整えた。


「さて、どこまで訊いたかな……そうそう、君が何者かだ」


「私が何者か?」


「そうだ。君自身も混乱しているだろうが俺も混乱している。そのため、まずは互いの素性から明らかにさせたほうがいいだろう」


 まずは俺からとばかりに、トーガは一本だけ突き立てた親指で自分を指した。


「俺の名前はトーガという。根森村で医者の仕事をして生計を立てている。両親は二人とも数年前に他界したので今は一人暮らし。村にはこれといった門中もいない」


「門中?」


「親類縁者のことだ。八重山に住んでいるならそれぐらい知っているだろ?」


「いえ、今初めて知りました」


 これにはトーガも眉間に激しく皴を寄せた。


 門中は八重山だけではなく琉球に住んでいるなら誰もが知っている言葉だ。


 それを白髪の女は知らないという。


 トーガは慌てて首を左右に振った。


「ちょっと待て。門中が何のことかも知らないなんて嘘だろう? 君の両親は教えてくれなかったのか?」


「さあ、私に両親なんているのでしょうか?」


「俺に問い返されても困る。それは君自身が一番よく知っているだろう」


「知りません」


 白髪の女は顔をうつ伏せ気味に呟いた。


「知らないというか分からないのです。両親のことも自分のことも何もかも」


「では君の名前は何という?」


「分かりません。私に名前なんてあるのでしょうか?」


 風向きが異様に怪しくなってきた。トーガは落ち着けと自分に言い聞かせ、何度も深呼吸を繰り返す。

「頼むから冗談だと言ってくれ。自分の名前も知らないなんて嘘だろ?」


「嘘ではありません。自分のことは何一つ思い出せないんです」

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