秘拳の七  クバの木に宿る常在神

「本当かい? 本当に何でもするのかい?」


 何日経ったときだろう。


 心身ともに衰弱していたナズナの耳に、明らかにマジムン(魔物)ではなく生身の人間の声が聞こえた。


「ナズナ、お前はカンズミヤン(神に染まった病気)に侵されたんだよ。現世と異界の狭間で生きるマジムン(魔物)たちの姿が見えるようになったんだろう?」


「もういい、もう誰の声も聞きたくない! 私はこのままマジムン(魔物)たちに心を犯されて死ぬのよ!」


「自暴自棄になるのはおよし。大丈夫、お前は死なないよ。それどころかニライカナイの神々からカムピトゥ(神人)として生きる名誉な定めを与えられたのさ」


 女の年寄りと思しき声の主は淡々と言葉を続けた。


「いや、少し語弊があるね。正確には私を補佐するチッチビの一人に選ばれたんだよ」


「チッチビでも何でもいい! マジムン(魔物)と縁が切れるなら何にでも入る!」


「よく言った」


 その後、ナズナはカメを補佐するチッチビに加わった。


 理由は簡単である。


 声の主――カメが低い声で祈りの言葉を囁くなり、嘘のようにマジムン(魔物)たちが消え失せたからだ。


 二年前の忌まわしき記憶を思い出したとき、カメは大きく両目を見開きながら顔を近づけてきた。


「ナズナ、お前はカンズミヤン(神に染まった病気)に侵されたとき誓ったね。マジムン(魔物)と縁が切れるならチッチビに入ると。よもや忘れたとは言わせないよ」


「も、もちろん忘れてはいません。今でもカメバ……ツカサ様には感謝してもしきれないほど感謝しています。サリ アートートー ウートートー」


「だったら、なぜいい加減な気持ちで祈りをするんだ。最近は特に酷いじゃないか。先刻なんぞ欠伸を堪えていただろうに」


「それは……」


 返事に困っていたナズナを見下ろしながらカメは吐息する。


「まあ、言わなくても分かるけどね。大方、ジューグヤー(十五夜)に向けてミンサー(帯)でも織っているんだろ?」

 けどね、とカメは両膝を曲げてナズナと目線を合わせた。


「それはそれ、これはこれ。恋も大事だがオン(御獄)の祈りはもっと大事さ。皆まで言わずとも理由は分かるね?」


 微妙な沈黙が続いた後、ナズナはカメの顔色を窺いつつ答えた。


「根森村はオヤケ・アカハチの乱から逃れた人間が作った集落だからですか?」


「よく分かっているじゃないか」


 オヤケ・アカハチの乱とは、大浜地方を治めていたアカハチが琉球王府に対して起こした反乱のことだ。


 今でこそ琉球は奄美、本島、宮古、八重山を統括する海洋王国として近隣諸国と貿易を行っているが、宮古、八重山が琉球国に服属されたのは約百年前のことである。


 それまで八重山は各島の酋長が覇権を巡る群雄割拠の時代を迎えており、血生臭い戦が絶えない中でも火食や耕種の方法を伝えた神であるイリキヤ・アマミを信仰して島人たちは暮らしていた。


 ところが北は奄美から南は八重山まで支配しようと目論んだ琉球王府は、各島を支配していた酋長や豪族たちを王府に住むよう命じることで全島を琉球王府に属させようとした。


 これには当時の八重山の島人たちも大層怒りの声を上げたらしい。


 琉球王府は八重山に深く根付いていたイリキヤ・アマミを崇める祭祀を「悪戯に男女が裸になって踊り狂う淫祠邪教」として厳禁したからだ。


 そこで大浜地方を治めていたアカハチが、琉球王府に敢然と反旗を翻した。


 ここまで聞くならばアカハチは英雄として後世まで語り継がれただろう。


 しかし現在では反乱を起こしたアカハチは「逆賊アカハチ」として忌み嫌われている。


 アカハチは反乱を起こそうと軍を起こした際、反乱に加わることを拒否した各島の酋長や豪族たちを次々と殺し回ったからだ。


 石垣地方を治めていた長田大王は弟二人を殺された上、自分もアカハチの手から逃れるために西表島へ逃亡。


 仲間村地方を治めていた仲間満慶は計略を持って殺され、波照間島を治めていたミウスク・シシカドンも殺害された。


 最初こそアカハチを支持していた島人たちも、八重山を琉球王府から守るという名目を掲げて殺しを続けるアカハチを徐々に見限っていった。


 そして尚真が琉球国王に即位した二十四年目(一五○○年)、反乱軍は琉球王府から派遣された首里軍に大敗。反乱軍を指揮していたアカハチも底原に追い詰められた末に首を刎ねられた。


 ナズナはアカハチの乱の話を思い出すなり気分を沈ませた。


「アカハチが謀反を起こさなかったら八重山の被害は最小限ですんだでしょうね」


「まったくさ。こうして逃げ延びた黒城島に新たな集落を築けたからよかったものの、下手をすれば私たちはアカハチの軍に殺されていたかもしれないんだよ」


 眉間に皴を寄せたカメの心情はナズナも十分に理解できる。


 現在、根森村に住む大部分の人間たちは当時のアカハチから逃れるために各島から避難してきた島人の子孫たちばかりだった。


 石垣島、小浜島、西表島、、竹富島などからの避難者が多く、本来ならば反乱が鎮圧されたときに故郷の島へ帰るという選択もあった。


 にもかかわらず、黒城島に避難してきた人間たちは故郷の島には帰らなかった。


 無理もない。太古より獣島と恐れられていた黒城島は、他の島々よりも肥沃した素晴らしい土地だったからだ。


 しかも織物に欠かせない芭蕉、福木、楊梅が有り余るほど生い茂り、森の奥では壷や皿を作るために必要な陶土がいくらでも採取できたことが避難者たちの心を動かした。


 そこで避難してきた人間たちは黒城島に集落を作る決意を固め、伐採した木々で住居を建てると肥沃した土地で耕作を始めた。


 また豊富な資源を生かした工芸品作りに精を出し、百年近く経った今では他の島人が羨むほど富を持つ島へと生まれ変わったのだ。


 だからこそ、カメはオン(御獄)の祈りを何よりも重視するのだろう。


 根森村が繁栄したのはクバの木のお陰と考えていた。


 いや、厳密に言えば各島の繁栄を司っている常在神に祈りを欠かしていないからだと思っている。


 ナズナは天高くそびえ立つクバの木に視線を転じた。


「要するに私たちが日々を平穏に暮らせているのは、黒城島の中でもここにしか生えていないクバの木に宿っている常在神様の加護を賜っているからなんですよね?」


「うむ、常在神様がクバの木に宿られている限りは根森村に災いなど起こらない。故にカンズミヤン(神に染まった病気)を体験してカムピトゥ(神人)になった者は絶えず祈りを捧げなくてはならん」


「常在神様か……一度でいいから姿を見てみたいですね」


 そうナズナが本音を吐露したときだ。


「この子は何ということを口にするんだい!」


 先ほどよりも強力な怒声がカメの口から吐き出され、爪が皮膚に食い込むほど固く握り締められた拳骨がナズナの頭頂部に打ち下ろされた。


 頭蓋骨が割れたかと錯覚するほどの激痛に見舞われたナズナは、両手で頭を押さえながら地面を転げ回る。


 それほどカメの拳骨は凄まじい威力が込められていた。


「常在神様の姿を見たいだと? 常在神様はニライカナイで暮らすアマミキヨ様から、我ら人間に幸を与えるよう命じられた由緒正しき神なのだぞ。そんな御方の姿を見るなど人間如きが戯言でも言ってはならん。村に災いが降りかかるぞ」


 分かったか、とカメがとどめとばかりにナズナの後頭部を殴った直後である。


「あのう、ツカサ様」


 三十代半ばを過ぎた中年女のチッチビが恐る恐る口を開いた。


「ナズナはあまりの痛さに気絶したようです」


 利き腕だった左手を固く握り締めていたカメの目の前には、うつ伏せのまま一向に動く気配のない無残なナズナの姿があった。


「アギジャビョー(おやおや)、拳に力を込めすぎたかね」


 ぴくりとも動かないナズナにカメは合掌する。


「サリ アートートー ウートートー。クバの木に宿る常在神様、どうか今のナズナの言葉は綺麗さっぱり忘れてください。代わりに私が性根をとことん叩き直しますので」


 カメの祈りがオン(御獄)に響き渡る中、他のチッチビたちは絶対にナズナの二の舞にならないよう強く心に刻み込んだのだった。

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