秘拳の六  根守村のツカサ

 根森村全体に夜の帳が下りると、大抵の家からは灯りが消える。


 朝早くに漁を行う海人の家などは特にそうだ。


 明日の活力を得るために家族全員がさっさと布団に潜り込んでしまう。


 しかし、根森村を統括しているカメの家は違った。


「サリ アートートー ウートートー。本日も根森村に住む島人たちは平穏無事に過ごせました。これもすべてはクバの木に宿る常在神様のお陰でございます」


 カメの家の裏手にはオン(御獄)と呼ばれる聖域が存在しており、聖域を聖域たらしめているクバの木とイビ(聖石)に対して祈りを捧げている女たちがいた。


「私もまだまだ未熟者なれど、根森村のツカサとして祈りを欠かしません」


 一人は根森村のツカサであるカメだ。


 銀色と見間違うばかりの白髪に無数の皺が刻まれた相貌。


 純白の着物の上から水晶や珊瑚を連ねた首飾りをかけ、正座している横の地面には魔除けとしてススキの葉が置かれている。


 六十際を超えても未だ頭の冴えが衰えないカメは、先ほどから両手を合わせて一心に祈りの言葉を紡いでいた。


 当然だった。


 カメこそ根森村の最高権力者であるツカサなのだ。


 ツカサとは村の五穀豊穣を祈る神女の総称である。


 約百年前に八重山が王府に与されてからは公的な司祭者として琉球国王に認められ、その証拠にカメの結われた髪には琉球国王より賜れた金の簪が挿されていた。 


 一方、カメの後方にはツカサを補佐する女性司祭――チッチビに選ばれた十数人の女たちが、カメと同じ衣装に身を包んでクバの木とイビ(聖石)に祈りを捧げていた。


 けれどもチッチビたちが全員とも祈りに心を集中させているとは限らない。


 現に最年少でチッチビの一人に選ばれたナズナは必死に欠伸を噛み殺していた。


(あ~あ、こんな退屈な祈り早く終わらないかな)


 神木と崇めるクバの木の手前には香炉が置かれ、夜でも祈りを捧げられるよう設置された二つの燈籠には蝋燭の炎が煌々と点されている。


 このぼんやりとした光がまた眠りを誘うのだ。


 またカメの抑揚を欠いた祈りの言葉が重なると二重の意味で強大な睡魔に襲われてしまう。


「もちろんチッチビたちも同じにございます。ですから、どうぞ明日も災いから我らをお守りください。サリ アートートー ウートートー」


 ナズナの祈りが神に届いたのだろうか。


 今日は普段よりも早くカメの祈りが終了した。


(やったー、これでようやく家に帰れる)


 周囲に悟られないようナズナは心中で歓喜の声を上げた。


 本当ならばオン(御獄)で祈りなど捧げている暇などなかった。


 こうしている間にも宿敵たちは蝋燭の炎を頼りに織物に励んでいることだろう。


 もうすぐ八月十五日のジューグヤー(十五夜)がやってくる。


 根森村では週に何度か若い男女が唄や三線で情愛関係を築くモーアシビ(毛遊び)が開かれていたが、ジューグヤー(十五夜)に開かれるモーアシビ(毛遊び)は特別であった。


 ジューグヤー(十五夜)に丹精込めて織ったミンサー(帯)を意中の男に贈ると、大抵は恋仲になれると昔から伝えられていたからだ。


 その際は四角模様の外側に白と藍の二線が入ったミンサー(帯)を織る。


 白と藍の二線には「末永く二人の愛が育まれますように」という隠された意味があるからだ。


 それほどミンサー(帯)は女たちにとって情愛の証だった。


 もちろんナズナも現在ひたすらにミンサー(帯)を織っている。


 他の着物と並行して織っているので進捗状況は芳しくないものの、絶対にジューグヤー(十五夜)までには間に合わせるという強い決意を固めていた。


(いつまでも私を妹扱いしないでよ。トーガ、あなたと私はしょせん血が通っていない異性だということをジューグヤー(十五夜)で思い知らせてあげるわ)


 と、ナズナが想像を豊かに膨らませたときだ。


「こら、ナズナ!」


 突然、雷鳴の如き声量で名前を呼ばれた。


「お前はまた祈りに集中していなかったね!」


 ナズナは下に向けていた顔を正面に戻したが、体裁を取り繕うのが遅すぎたのだろう。


 香炉の手前で祈っていたカメがいつの間にか眼前に立っていた。


 怒気を含ませた眼差しで見下ろしている。


「へ、変な言いがかりは止めてください。私は心から祈りに集中していましたよ。サリ アートートー ウートートー」


「ユクシー(嘘つくな)、真剣に祈っていた奴が薄ら笑いなど浮かべるか!」


 カメは手にしていたススキの葉でナズナの頭を叩き始める。


「痛い痛い、ちょっと待ってよ、カメバァ。私はマジムン(魔物)でもヤナムン(悪霊)でもないわ。サンなんかで叩かないでよ」


 ナズナは必死に両手で頭を防御するが、カメはナズナの思考を読んでいるかのように僅かな隙間を狙って攻撃を繰り出していく。


「カメバァじゃなくツカサ様と呼びな。それに軽口も禁止」


「わ、分かりました。どうか叩くのを止めてください、ツカサ様」


 懇願するナズナを見てカメはようやく手を止めた。


「まったく、名誉あるチッチビに選ばれたというのに祈りの一つも満足にできないのはお前ぐらいだよ」


「だったら私をチッチビから外してください」


「フラー(馬鹿)なことを言うな。チッチビは誰にでもなれるわけではない。ツカサの補助をするチッチビになれるのはカンズミヤン(神に染まった病気)で強力なセジ(霊力)を賜った女だけだ。それは二年前にカンズミヤン(神に染まった病気)に侵されたお前自身が一番よく分かっているだろう」


 カンズミヤン(神に染まった病気)。


 この言葉を聞くだけでナズナは足の爪先から頭の天辺まで震え上がる。


 本島ではカミダーリィ(神が祟る)と言われているらしいが、八重山ではカンズミヤン(神に染まった病気)と言われている心身に異常をきたす病気のことだ。


 しかもこの病気の恐ろしさは前兆がまったくないこと。


 昨日まで元気よく生活していた者が今日にはカンズミヤン(神に染まった病気)を発症させることがあった。


 風邪でもないのに何日も高熱を出して寝込む者。


 特定の食べ物に異常なほど執着及び拒否反応が出る者。


 通常では考えられないほどの幻覚に襲われるといった、カンズミヤン(神に染まった病気)の症例の中でナズナは恐ろしい幻覚に何日間も悩まされた。


 カメ曰く、カンズミヤン(神に染まった病気)はニライカナイに住む神々からカムピトゥ(神人)に選ばれた実に光栄な証だという。


(冗談じゃないわ。あんな体験のどこが光栄なことなのよ)


 今でも昨日のことのように思い出せる。


 あれは二年前の春の頃だった。


 いつものように機織に勤しもうと目覚めたとき、ナズナは天井に張り付いていた異形の者とすかさず目が合った。


 それは全身が漆黒で覆われた一つ目のマジムン(魔物)であり、彼(?)は瞬きを忘れたナズナに男女が入り混じったような不思議な声で「おはよう。今日も朝から機織をするのかい? ベイビー」と馴れ馴れしく挨拶をしてきたのだ。


 ナズナは奇声を発しながら布団から飛び起き、本能のままに自室から逃げ出して母親のミンダに助けを求めに向かった。


 だが無駄だった。


 ミンダの部屋、ティンダの部屋、ムガイの部屋、機織の部屋、窯場、すべての部屋という部屋にマジムン(魔物)たちの姿があったからだ。


 あのときほどナズナは恐怖を感じたことがない。


 マジムン(魔物)たちは敵意を向けて襲ってくることはなかったが、布団の中に引き篭もったナズナに積極的に話しかけてきた。


「なあ、俺の着物も織ってくれよ。サイズはトリプルLでお願い」


「今日は天気がいいわ。一緒に森へピクニックに行きましょう」


「何でシランフーナー(知らないふり)するの?」


 マジムン(魔物)たちの意味不明な言葉を聞くたびにナズナは食欲をなくし、日を追うごとに二の腕や腰回りについていた脂肪が嘘のように消えてなくなった。


 やがてナズナはこの幻覚が消えるなら何でもすると声を高らかにして言い続けた。

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