夏・第六章 既婚者フラグが立ちました!

 青く暮れる空と言うには、まだ青すぎる夏の夕方だった。

 週末の繁華街を一人で悠々だらだらと歩いていると、

「よう!」

 と聞き覚えのある、まる一日どっぷりと蜂蜜に漬かっていたかのような、女好きのしそうな甘い声に肩を叩かれた。「久しぶりだな、おい」

 立ち止まり顔を向けると、七条先輩の元婚約者の楠本が、明らかに何かありそうなにやけた瞳で俺を見ていた。

 そして、その楠本の隣には大学生らしき眼鏡の青年がいた。こちらは、洗練されきってはいないものの努力の跡は窺える風貌だった。つまり、整形しがいのありそうな十人並みのマスクに短くも長くもない黒髪、平均的な身長という大幅な減点要素のないパーツを取り揃えておきながら、見よう見真似みまねでファッション誌の表紙どおりに整えたかのような〈こなれてない感〉とでも形容すべきオーラが全身から漂っていて、何か芋くせえな、という印象を与えてくる。

「うぃす」我ながら日本語として終わってるなと思う挨拶を口にして俺は、「相変わらずチャラいっすね。ナンパでもしてんすか」と楠本に言った。

 楠本は、ははは、と例の上品な笑みを見せ、「ちょい違う。正解は──」

 と、面倒事の気配を察知した俺は、「じゃあ俺はこれで」と楠本の言葉から逃れようとしたのだが、

「まあ待てよ」

 とイケメンモンスターに回り込まれてしまった。

 何だよあんたの配役は勇者以外ありえねえだろ何でモンスターのふりしてんだよ早く肉便器ヤリマン退治にでも行けよ、と不満たらたらである。

「ま、ま、とりあえず聞けって」楠本はそう言って事情を説明した。

 要は、ドタキャンされて合コンのメンツが一人足りないから助っ人に入ってくれ、ってことらしい。

 あ、そう、大変すね、といった具合である。無関心オブ無関心。虚無の境地だった。

「な、頼むよ」楠本は拝むように手を合わせてきた。「金は出さなくていいし、何なら今度、焼肉でも奢ってやっから」

「……まあいいっすけど」

 楠本は顔を綻ばした。品がありながらも少年のような無心さのにじむ笑顔だ。「さんきゅー!」

 眼鏡の青年は、「ごめんな、助かるよ」と眉間にしわを寄せた顔で言っていた。

「時間もないし、行こうぜ」

 という楠本の言に従って一次会の会場だという飲み放題のある創作居酒屋へと徒歩で移動を始めると、彼は眼鏡の青年を紹介した。鍋屋なべや悠吾ゆうごと言い、楠本と同じ大学に通っているそうだ。するとその鍋屋が、

「経済二年の鍋屋です」

 と少し緊張した声で言った。

 二人ともチョコレート研究会所属で、仲間と言うと事々ことごとしいが、しかしやはりそう呼ぶのが一番しっくり来てしまう関係らしかった。

 今回の合コンは、いつも一人で難しい顔をしている鍋屋のために楠本が企画したそうだ。曰く、「人生を楽しむには、やっぱ女だろ。セックスの回数が人生の幸福度を決める云々」

 この人の頭の中には肉欲のことしかないのか? とあきれそうになったが、大抵の人間の行動原理は生殖にあるのだからこれは通説的と表すべき思想なのかもしれず、すなわちヤリチンヤリマンに眉をひそめるほうこそ人間として甚だしく間違っている。

 でも、やっぱりちょいきしょいわ、とぼくはおもいました。

 それはそれとして疑問なんだが、

「大学生って暇なんすか?」

 ここまでで勉強や授業といった単語は一度も登場していない。日本トップの私大の学生なのに、である。

「うちの大学の場合は」楠本は言う。「文系なら要領よくやれば時間は作れる」

「理系なら?」と俺は尋ねた。

「天才以外はかなりきついらしい」

 鍋屋も会話に入ってくる。「レポートも多いし実験もあるから。特に医療系学部と化学系学部は忙しい、とは聞く」

 へえ大変っすね、と相づちを打った俺に楠本が尋ねる。

「夏目は卒業したらどうするつもりなん?」

「一番は、ありとあらゆるご都合主義を掻き集めて凝縮させたような女のヒモになることっすけど、なかなかいないっすからね」

 あっははは、と楠本は珍しく大口を開けて笑い、「いいじゃん、それ。とりま、そのためにも数をこなさねえとな。抱けば抱くほど当たりを引く確率は上がるからな」

 鍋屋はあきれているようだった。が、気にせずこの話題を続ける。

「ハズレだったらどうすればいいんすか。普通は、だいたいハズレだと思うんすけど」

 たまらずといった様子で楠本は噴き出した。「だいたいハズレて」とそこがツボだったらしい。ひとしきり笑った後で、「ヤリモク女なら普通にワンナイトで終わらせて、それ以外は適当に付き合ってからリリースだな」と答えた。

「なるほど」俺は納得した。「毒見だけして、ヤリ捨てそれとわからぬようにキャッチ&リリースっすね」

「そそ」楠本もうなずく。「その気もないのに時間を奪うのはかわいそうだからね。人間、そういう優しさは大事よ」

 心底あきれ果てたといった軽蔑の目つきの鍋屋が言った。「君たち、いつか刺されるよ」

 それ、正当防衛の名の下に法的なデメリットなしで直接的な殺人を体験するいい機会じゃね?



 くだんの居酒屋の前には三人の女たちがいた。近い距離にいるにもかかわらず会話するでもなく全員がスマホに目を落としていて、ブルーライトに照る白粉顔おしろいがおが、大通りから一本入ったネオンサインの疎らな夕闇の路地にぼうと浮かんでいる。今日も暑いからホラー演出でもして涼を創作しようと気を利かせたのかもしれない。

「ごめんねー、待ったっしょ」

 楠本が陽気に声を掛けると、三人全員が揃って顔を上げた。その中の一人、ピンクのボブカットの女、ピンクといってもアニメキャラのようなビビッドなピンクではなく淡く暗めのピンクグレージュなのだが、表情を緩めたそのピンクボブ女がまず口を開いた。「ホントだよー!」

 と言いつつ馴れ馴れしい笑顔だ。楠本の知り合い、つまり女側の幹事なのだろう。

「わりわり」などと手慣れた様子で受け流す楠本は、やはりイケメン若手俳優のように端整な顔立ちをしているわけで、ピンクボブ女の右肩の後ろにいる、顎の辺りでコーラのボトルのようなシルエットを描いてゆるーく外にハネている、いわゆる〈くびれミディアム〉の女の目が、鈍感系主人公でも察するレベルで色めき立っている。

 うむ、欲望に従順で実に人間らしい。

 と俺が一人でうなずいていると、残りの、明るめの茶髪のショートで、丸っこくて大きなウェリントンフレームを鼻に引っかけている女と目が合った。

 彼女は、にこっと頬にほほえみを浮かべた。

 はいはいどもども、と俺は会釈を返して目を逸らした。その視線の先には萎縮したような硬い表情の鍋屋がいて、「夏目君は全然緊張してないね」と言う。

「緊張する理由もメリットもないっすからね」と軽く肩をすくめた。「鍋屋さんもリラックスしましょうよ」

 困り顔になった鍋屋は、「僕もできればそうしたいんだけどね」と物憂そうな色さえにじませていた。



 最近オープンしたばかりだというこの創作居酒屋は全席完全個室で、すなわち適当な仕切りがあるだけの半個室を個室と言い張っているわけではなく、不倫などのいかがわしい密会にも有用そうな店だった。寝ぼけたように弱々しい照明が作り出す妖しい薄暗さも実にそれっぽく、どこか静けさのある話し声が漂う中、俺たちは掘りごたつの席に案内された。

 さて、居酒屋とは酒を楽しむ店のことである。が、俺は普段、酒を飲まない。それは、自己加害を防ぐとかいうお節介の極みたるパターナリスティックな制約を遵守しているからではなく、酔っているという状態に魅力を感じないからだ。だから、飲酒の習慣はない。とはいえ、絶対に嫌というほどでもないので、楠本に、「みんな何飲むー?」と問われた時には、メニューの中で目についたライチソーダを注文した。ソーダっぽいのを飲みたいという理由だった。

 のだが、「あ、わたしも同じのでー」と真向かいに座ったウェリントン眼鏡の女が被せてきて、「ライチ系好きなんだよねー、気が合うねー」と微笑を寄越してきた。

 何やこの女。

 関西に行ったことはないのだが、俺はそう思った。ライチソーダのソーダのほうに惹かれたという可能性に思い至らない自己中心的で貧弱な想像力にあきれ返っていたのもあるが、一番の理由は別にあった。

 左手の薬指に日焼けしていないリング状のところ、いわゆる指輪焼けがあったのだ。これは、常日頃から指輪を着けていて、かつ日焼け対策を怠ると起こる。例えば結婚指輪を外した時などにしばしば目にするという──つまり、このウェリントン眼鏡女は既婚者にもかかわらず、今夜は遊んじゃおっかなー、と自制心のたがを緩めて合コンに参加してきたということ……かもしれない。ただ、女どもも大学生らしいし晩婚化著しい昨今の風潮を考えると、可能性はそう高くはないか、とも思うが。

 不倫ぐらいでガタガタ抜かすつもりはないが、ガタガタ抜かすカスどもの騒動に巻き込まれるのもシャクだ。この女には深入りせんどこ、と方針を決定した。

 コンコンとトイレノックの音が、俺のすぐ横──戸に近い下座なのだ──から聞こえた。前菜の茶碗蒸ちゃわんむしと酒が来たようだった。

 乾杯からの自己紹介となったわけだが、設定なんか何も考えていなかった俺は、「夏目朝陽って言います。大学一年っす」と飾り気のない嘘を口にした。鍋屋が主役なのだから、特徴のない退屈なやつだと思われたいという思惑もあった。

 しかし、まあそうなるよなって反応が返ってきた。

 ピンクボブ女が、「本当にぃー?」と疑わしそうな、それでいて愉快そうな声を発したのだ。「高校生ぐらいに見えるよ?」ニヤニヤしてもいる。

 くびれミディアムの女も大学生だとはまるで信じていないようで、「怒らないから本当のこと言いなよ」とうざ絡みしてくる。

 ウェリントン眼鏡の女に至っては、「年上が好きなのー?」と、もはや高校生だと確信しているようだった。

 年上ってもたいして違わねえだろうが。これだから酒の味を覚えただけで大人になった気になってるメタ認知の未熟な大学生ガキはうぜえ。

 はあ、と溜め息をつきたい心地だった。つまり、もう面倒になっていたので、

「ぶっちゃけ高二っす」

 と白状した。

「えー、こんな所でお酒飲んでていいのー?」もうアルコールが回ってきたのか首をもピンクっぽくしたピンクボブ女が、だらしなく口元を緩めて言ってくる。

「不良だねえ」とは、くびれミディアム女。「どこ高なの?」

「その質問こそヤンキーじゃねえっすか」九割、素で返した。

「ツンツンしちゃって、かーわいー」ウェリントン眼鏡女がそんなことを言い、グラスを傾け、くはー、とうまそうに息を吐いた。

「モテモテだねえ」

 楠本は、からかうように笑っていた。「流石、俺から婚約者を寝取っただけはある」と、これは明らかにわざとネタを提供していた。

「ええ?! 何その話、詳しく!」「あなたたちどういう関係なの?」「しゅっらばー」

 何やこいつら、うざすぎひん?

 やはりいくら探しても道頓堀を歩いた記憶はないのだが、なぜだか関西弁だった。

 たこ焼き食いたくなってきた。

 自分、たこ焼き、いっすか?

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