夏・第五章 真実は人によって違うって言うけどよ

「お話がありますので、この後、生徒相談室に来てください」

 帰りの会を格好つけて呼んでいるところのSHRが終わり、さあ帰ろうすぐ帰ろうとスクールバッグをリュックサックのように背負ったところで、三十路喪女の担任、影沢先生が声を掛けてきた。

「喪女に相談なんてあるわけないんで遠慮しとくっす」

 この生徒相談室なる小部屋は、いわゆる生徒指導室のことで、名称どおりに生徒からの相談に使われることはほとんどない。使用目的ナンバーワンはお説教である(潮調べ)。素行の悪い生徒がヤリ部屋として使うこともあるそうだ(風の便り)。

「そうはいきません」影沢先生は弱気に見える御しやすそうな──頼めば、キャバクラソープ代は無理でもパチスロ競馬代ぐらいなら渋りつつも出してくれそうな馥郁ふくいくたる香りを全身から常に発しているイイオンナなのだが、仕事には真面目な嫌いがあるようで、こんなふうに迷惑極まりない粘りを見せることも少なくない。

 続いて、影沢先生は、「学校が嫌で一秒でも早く帰りたい気持ちは痛いほどわかりますが……」と口にした。のだが、その顔に重苦しい影が差し、言葉が止まった。何かよくない記憶が蘇ってきたのだろうか。その過去(?)を振り払うように、「とにかく!」と強く発して彼女は、肩をそびやかし、「今日は逃がしませんからね。腐ったオレンジは擂り潰してアカリちゃんに飲ませるのです!」とわめくように宣言した。

 俺は腐ったオレンジということだろうか?──意外と高評価で照れるぜ。

 


 というのは真っ赤な嘘で、自分以外に自分を評価されるのが好きではない俺は少々モヤモヤしたのだが、早漏男のワンプレイ分ぐらいは付き合ってやるか、とついていくことにした。いつもよりも切羽詰まった感情を影沢先生の薄化粧の裏から嗅ぎ取った、俺の精神世界に巣くう気まぐれな好奇心が鎌首を三センチぐらいもたげたからだ。

 生徒相談室ハッピーお説教ルームに入り、長方形のテーブルの所にある、教室にあるのと同じタイプの硬い椅子に座った。意識したわけではないが、ドア側の下座だ。

 と、後ろのほうから金属がぶつかりこすれる音がした。振り向いて視線をやった。影沢先生がドアの鍵を掛けたようだった。

「今日来てもらったのはほかでもありません」

 テーブルを挟んで向かい側に着いた影沢先生は、口を開き、もったいをつけるようにそう言い、「夏目君の生活態度、授業態度についてです」と続けた。

「はあ」俺は気の抜けた相づちを打っていた。

 こんな反応では立場をかさに着て一方的に説教をかます快楽を味わえないと思うのだが、影沢先生は気勢ががれるでもなく、

「いつもいつも先生たちを無視してスマホをいじったり本を読んだりゲームをしたりサボったり──もう少し真面目に学業に取り組む気はないのですか?」

 と真剣な表情で、まるで低視聴率ドラマの善良な教師のようだ。

「あるかないかで言えば、マイナスっすね」

「わたしの授業はつまらないので仕方ありませんが、せめてほかの先生のときはちゃんとしてほしいのです」

「どの先生の授業も便所の落書きのほうがマシってくらいクソつまんないっすよ。たまに間違えてるし」

「あと、ちょくちょく口が悪くなるのも自重してくれませんか」影沢先生は薄い眉の尻を下げた。「ほかの先生方からわたしが怒られるんですよ? 今朝だって職員室の真ん中で、

『友達先生もいいですけどね、締めるところは締めてもらわないと困るんですよ。舐められたら終わりというのは警察やヤクザと一緒ですからね。そこら辺の自覚が足りてないんじゃないですか? 

 いいですか、よく思われたいなんて甘えた考えは今すぐ捨ててください──これ、もう何回目ですかね。同じことを言わせるのは楽しいですか。楽しいんでしょうね。だから、反省しないんですもんね。

 ──ちっ。いい加減、その無意味な謝罪は聞き飽きたんですよ。言葉はいらないので結果で応えてください』

 ってくどくどちくちく言われて、もう引きこもりたいですよ。アパートに帰ってお布団の中で暮らしたいです」

「大変っすね。つーか、よくそんな欠伸の出そうな長台詞覚えてますね」

「わたしなんかに偉そうに言われて、死ねよこのクソアマが、マジうぜえんだよ、と憤慨するのも無理はないとは思いますが」と、そこまで言ったところで影沢先生の視線がゆっくりと下がっていき、テーブルの染みの辺りに行き着くと、「何か死にたくなってきました。こんなゴミ人間なのにどうして生きてるんだろ。がんばっても意味なんてないのに……」

「影沢先生のほうが口悪くないっすか。ホント、おもしろい人ですよね、影沢先生って」

「そうですか、たまに言われるんですよね」納得していないのが伝わってくる、不思議そうで不服そうな声だった。「自分では何のおもしろみもない女だと思うんですけど」

「カマトトぶりよる」

「そんなつもりはないのですけど」と影沢先生はかすかに口を尖らせた──年を考えてほしい。

「ふうん、あ、そ」と無関心に応じ、「──で、本題は何すか?」と俺は尋ねた。

「えっ」影沢先生は虚を衝かれたかのようにきょときょとと視線を右往左往させたと思ったら、ふっと脱力するように肩を下げた。「どうしてわかったんですか?」

「必要もないのに鍵閉めてるんだもん」と俺は親指で背後を指し示し、「よっぽど人に聞かれたくない話でもあるのかと普通は思いますよ」

 生徒にするのはふさわしくないような特殊な話をしようと俺を連行したはいいが、いざ話そうとなったら迷いが生じてしまい、無難な生活指導でお茶を濁していた──こんなところだろう。

「え、そうでしたっけ?」と驚いた顔をして影沢先生は、俺の背後、ドアのほうへ目をやった。「全然意識してなかったです」

 それから影沢先生は、「あのぅ、こんなことを相談したことは誰にも言わないでほしいんですけど」と嗜虐心しぎゃくしんをひどくくすぐる前振りめいた諧謔的かいぎゃくてきな前置きをし、

「まあ誰も影沢先生になんか興味ないでしょうし、言わないっすよ」と俺が口先だけで返すと、安心したように、

「そうですよね」と自嘲的で卑屈な表情で答え、そして俺の目をちらと見てから言った。

「実はわたし、婚活を始めたんです」

 それを聞いた瞬間俺は、申し訳ないが──いや、別にそんなことはないか──噴き出した。だってよ、

「わたしなんか、とか、どうせ一生独りですから、とか、いつもぐちぐちうぜーこと言ってるくせに何だかんだちゃっかり幸せになろうとしてるんすね」

 血色の悪い影沢先生の頬に、さっと人間らしい温かみが差した。「い、いいじゃないですか! わたしだって、男の人と、その」とそこで、甘噛みでもするかのように唇を揺蕩たゆたわせ、ごにょごにょと言葉をふやけさせた。

「男とエロいことしたいってか」コンドームより薄いぺらっぺらの親切心から俺は、代弁してやった。「女の性欲は四十代がピークらしいっすからね。影沢先生はそろそろ自覚しはじめるころっすもんね」

 今度こそ影沢先生は、人間なんだから恥じる必要もないのに明確に顔を赤くした。「そ、そうではなくてですね」自身を落ち着かせようとしているふうにも聞こえる物憂げな溜め息を挟み、「夜、サービス残業が終わって近くのスーパーとかコンビニで買い物してからアパートに帰るとですね、電気がいてないんです」

「そりゃそうでしょ」

「手探りで電気のスイッチを押すんですけど、すごく静かで、もう夏も近いのにひんやりしてて、誰もいない森の奥にある洞窟のしじまみたいに思えて怖くなることがあるんです」

「逆に知らないおっさんとかがいたら嫌っしょ? そっちのが怖くね」

 影沢先生は一段と辛気くさい溜め息をつき、「わたしも、『ただいま』って言いたいんです、『おかえり』って言われたいんです」と魂から血を吐くようでもあった。

 エグチで察しが良くてキモい、きしょいくらい鋭い、本当に人間? 覚妖怪さとりようかいじゃなくて?──そんな心ない称揚しょうようをしばしば浴びせられる俺だが、ここまで聞いても影沢先生の思惑を掴みかねていた。

「何すか、俺に婚活のアドバイスでもしろって言うんすか?」人選間違ってるっすよ?

「いえ、その、そういうことではなくて、あ、いえ、広い意味ではそうなんですけど」影沢先生は首を振るでもなく、うつむきがちなまま中途半端に否定し、そして突然、

「年収一千万以上の一流企業の総合職、二十代後半、高学歴、高身長、元読者モデルのイケメン、煙草たばこギャンブルやらない、趣味は料理で得意料理はカニクリームコロッケ、未婚」

 と欲にまみれた呪文を唱え、「こういう条件をどう思います?」と上目遣いに、窺うように俺を見た。

「婚活が基本的に敗者復活戦だという厳然たる事実を理解してない人が出しそうな条件だなって思います」

「ですよね」影沢先生はすんなりとうなずいた。「わたしもそう思います」

「えーと、何が言いたいんすか?」

「ああ、はい、そうですよね、すみません」と肩を狭くしてから、「結婚相談所に入会して少ししたころに現れたんです」

「幽霊でも出たんすか」

 影沢先生はふるふると左右に首を揺すった。「今言った条件をクリアする超優良物件が、です」

「──で、不相応にもそれを狙いたい、と?」

 影沢先生は再びかぶりを振った。「狙われているのはわたしなんです。その彼がアプローチしてきてて、わたしを担当している仲人さんが言うには、『非常に熱心に』わたしとのお見合いを希望しているらしいんです。その男の人はわたしのプロフィールを見るなり、『理想の女性だ。結婚するならこの人しかいない』とまで言ったそうです」

「よかったっすね──帰っていいっすか?」俺は腰を浮かせた。

「駄目です」影沢先生は即答した。「後でこっそり、この前食べたがってたホワイトチョコレートを食べさせてあげるんで最後まで聞いてください」

 ふむ、と腰を下ろし、テーブルの上で手を組み、込み上げてくる利他的情動に逆らわずに、「続けてください」

 影沢先生は一拍ほど、あきれたように口を半開きにしてから、「もうっ、現金なんだから」と眉をハの字にしつつも年上らしい包容力を目元に浮かべた。

 肩をすくめて先を促すと、影沢先生はようやく核心らしきものに触れた。

「不安なんです」

 と、そして影沢先生は、懺悔ざんげでもするかのようにぽつりぽつりと言葉を繋いでいく。「彼みたいにいくらでも女性を選べる男性が、どうしてわたしなんかを求めるのかわからなくて、何か裏があるんじゃないかって考えてしまうんです。仲人の人は、こんな奇跡の男はキャリアで初めて見た、これはもういくしかないって猛烈に推してくるんですけど──怖くて踏み出せなくて」

 俺は顎を撫で、「つまり影沢先生はその男の真情を知りたいと、そういうことっすか?」

 はい、と影沢先生は半ばうな垂れるようにうなずいた。嘘や演技の気配はない。

「わたし、相談できる友達とか全然いなくて」

「あ、はい」突然の悲しい告白に、反射的にそう口にしていた。

「夏目君なら甘い物を渡せば大抵のことは何とかしてくれるって聞いて」

「ちょっとその話、詳しく聞きたいんすけど」誰だよ、それを伝えた馬鹿は。

「それに、夏目君はあの鉄壁要塞、七条雪芽さんを落としたっていうじゃないですか。彼女のアイドルデビューも夏目君が大金を要求したからに違いないって先生方も話してましたよ。七条さん相手に完全に主導権を握れるくらいのものすごい恋愛強者なんだってわたしびっくりしちゃって。だから、こういう相談には最適だと思ったんです」

「影沢先生、意外と耳聡いっすね。絶妙に間違ってますけど」

 しかし影沢先生の耳は都合の悪い言葉はキャッチできないのか、つまりは彼女にとっての真実は改正のしち面倒くさい日本の硬性こうせい憲法のように頑固らしかった。とはいえ、末人にんげんに、特に三十を過ぎたそれに対して自分の感性や価値観、そしてそれらに基づいた認識を軽やかに否定する柔軟さなど、さして期待していないので、理解してもらおうと躍起になることもない。

「推理するためにいくつか聞きたいことがあるんすけど」と話を進める。「その結婚相談所の名称と規模、入会手続きを教えてください」

「ええ、いいですよ。名前は──」影沢先生は答えた。

 聞いた情報の裏を取るためにスマホで検索する──なるほど、たしかに〈入会料が高く〉〈入会審査も厳しい〉〈大手〉のようだった。

「影沢先生が選ばれた理由は、何となく推測できたっすよ」

「本当ですか」影沢先生の顔は、明るく、とまではいかずとも真夜中から黎明れいめいになったかのようではあった。「流石ですね」

「俺からすれば、こんな簡単なことにすら思い至らない影沢先生の脳の矮小わいしょうさにこそ、『流石ですね』って言いたいっすよ」

 影沢先生は、「頭が悪くてごめんなさい」とお定まりの卑屈な前置きから、「でも、恋愛強者のあなたにとっては自明のことでもいい年して恋愛経験のないわたしには難しいんですよ」と流れるように卑屈な言い訳。

「まあ多いとは思ってなかったっすけど。飛び抜けて顔がいいわけでもないし、じめじめしててシンプルにうぜえし」

 俺のストレートな毒突きにも、

「ですよね」影沢先生は目に角を立てるでもない。「わたしみたいな貧乳無趣味地味根暗女に魅力を感じる人なんていないですよね──じゃあやっぱり彼は何かを企んでるんですね」

「『企んでる』って解釈も可能といえば可能かもしれねーっすけど、でも影沢先生ってもう三十歳っすよね? その人と結婚したらいいんでない?」責任は取れんけど。取れても取らんけど。

「あと数年もすれば元々ど底辺だった魅力がハイパーインフレ時の貨幣クラスにまで下がってしまうことはわたしにもわかっていますよ。でも、彼を信用していいものかわからないと不安で」

 母親にはぐれた幼子のように不安に覆われた顔を見ていると楽にしてやりたくなる──とは限らない。つーか、ぶっちゃけ答えを教えないほうがおもろそうだから、影沢先生にはそのままの君でいてほしい。が、甘味の分は働いてもいいとも思う。とはいえ、抹茶スイーツではない点は見過ごせない。したがって、

「影沢先生はよ、どうしてそんなハイスペ男がロースペの吹き溜まりである結婚相談所なんかに入会してると思います?」

 とヒントを提示するにとどめた。

「えっ、それは……なぜでしょう?」影沢先生は首をかしげた。「職場に出会いがないから、でしょうか?」

「仮にその推測が当たってるとして、その彼みたいな男なら友達とかに紹介させたりマチアプで食い荒らしたり商売女をカモにしたり、いろいろやりようはあるんじゃないっすかね」

「たしかにそうかもしれませんね──でも、そうなるとわからないです」

「この人、本当に馬鹿だなあ」と心底から思ったら我知らず言葉にしていた。

「ごめんなさい」と再び言う影沢先生に、

「とりま、そいつの人となりを知るためにも一度付き合ってみりゃいいんじゃないっすか。知らんけど」といい加減な助言を与えた。

「はあ、わかりました」納得はしていない様子ながら影沢先生は、「そうしてみます」と従う言葉を口にした。

 影沢先生のそういうところは嫌いじゃない。

 まあ好きでもないが。

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