桜・幕間三話 I still don't like black cats!
①
夏目君のおうちが黒のアメショを飼いはじめたらしい。
彼の口から朝一番で出た話題がそれだった。クロノアメショ、と最初に聞いた時は何のことかさっぱりだったけれど、アメショとはアメリカンショートヘアのことだと教えられ、黒猫を迎えたのだと理解した。
あまり興味の惹かれないわたしに夏目君は画像を見せた。
スマートフォンの中から、真っ黒な毛並みと透き通るきらめきの青い瞳の子猫が(飼い主とは違って)純粋そうな顔でこちらを見ていた。
黒猫は悪い魔女が飼うものだ、とおばあちゃんが言っていたっけな、と童話の魔女みたいにしわくちゃなその顔を思い出していた。黒猫は魔女が変身してるんだよ、いい子にしてないと連れてかれるよ、なんてありがちな子供騙しの脅し文句さえ口にしていた。しかし、当時のわたしは大変におびえて外出するたびに黒猫が横切らないことを祈ったものだった。そのせいか、今でもあん畜生には少しだけ苦手意識がある。
「かわいいね」と口に出しながらスマートフォンを夏目君に返した。
しかしわたしの拙い仮面は夏目君には意味を成さないし、彼は鈍感なふりをしてくれる優しい男の子でもない。
「嫌なものを見たって顔してるぞ」
夏目君はピンポイントで心情を言い当ててきた。だけでは飽き足らず、「黒猫は不吉だとでも思ってるのか?」と小馬鹿にもしてくる。
「そんなことは、ないけど」と無意味な抵抗をしてみた。「本当に、かわいいと思ってるよ」
夏目君と話せば話すほど、実は人の心が読めてるんじゃないの、という黒猫の迷信と似たり寄ったりの非科学的な疑惑が膨らんできていた。
「ホントわかりやすいよな」甘い物大好き人間くせにきれいな歯を覗かせて夏目君は言った。
何て言うか、この男の子は理不尽の塊だと思う。チェスでは相変わらずチェックメイトしてもらうことさえできていないし。悔しさを失わないようにするのに苦労している始末だった。
「何て名前なの」わたしは尋ねた。
「ルナ」夏目君は答えた。「俺はジジって名前のがよかったんだけどな、セーラームーン狂いの母さんが譲らないんだよ」不意打ちに渋柿を食べさせられたかのような不満げな顔だった。
「この子、雄なの?」
「いや、雌だ」
「雌にジジは、おかしいと思う」
「いいじゃねえか、犬猫の性別なんてそんな気にしなくても」
わたしの思考は、そうかな、と肯定的に出発し、そうかな? と否定的に着地した。それは暴論じゃない?
朝から不吉な予感はしていた。
それは黒猫がどうのというような根拠のない霊感ではなく、もっと具体的なものだった。ビーちゃんの視線がいつにも増して険しかったのだ。ぱっちり猫目が更に吊り上がっているようだった。
昼休み、わたしがトイレに行って個室の扉を閉めるとすぐにビーちゃんたち三人──クラスで最もかわいい子たちのグループの声も女子トイレに入ってきた。たくし上げたスカートを挟んだ脇に、じわっと嫌な汗がにじむ感覚がした。
ビーちゃんたちだって、昔のアイドルじゃないんだからトイレぐらいする。来ないでよ、とは言えない。けれど、わたしがいる時には来ないでほしいというのが本音だった。
ビーちゃんたちがいなくなってから出よう、と思って息を殺していると始まってしまった、わたしの悪口大会が。
「あの転校生さあ」まずビーちゃんが口を切った。
「あたしらからハブられてるからって、男子に色目使っててきしょいよね」
はっきりとした輪郭を持った彼女の口調は、わたしに聞こえるように言っているようでもあった。いや、そうに決まっていると、そう思わずにはいられなかった。どこか楽しげな響きだったから。
「そういうことしちゃうような性格だからシカトされるってわからないのかな」別の声、クラスで一番ショートカットの似合う子の声が答えた。
更に別の声、小学生とは思えないほど甘え上手な子の声が応じる。「わからないんじゃない? あの子、男子に気に入られることしか考えてないんだよ、きっと」
「夏目君のことチラチラ見てて狙ってるのバレバレだよね」ショートカットの子が、笑いをこらえるような様子で言った。
ねー、ねー、と悪意しか感じない相づちが場を満たした後、
「てかさあ」ビーちゃんが言う。「あいつ、今日のスカート短くない?」
「わかる」とよく聞く
「あれって絶対わざとだよねー」いきいきとした声でビーちゃんが言った。
「あ、やっぱりそう思う?」と甘え上手な子の意地悪な声。「流石にそこまではしないと思いたいけどねー、普段の様子を見てるとねー」
「わっかるー」ショートカットの子は、わかると言わなければ死んでしまう呪いにでも掛かっているのかもしれない。「これからもどんどん肌色が増えていきそうだよねー。夏とかヤバいんじゃない?」
「マジでイタすぎ」教室では聞いたことのない底冷えのするような酷薄な声は、たぶん甘え上手な子のもの。
ちっ、と大きな舌打ち。これはビーちゃんだろう。苛立たしげに、「ほんっと目障り。不登校になればいいのに」と続けた。
「ね、うちのクラスにいらないよねー」
「ねー、世界から消えてほしいよねー」
どちらがショートカットの子でどちらが甘え上手な子かわからない。心が掻き乱されていて冷静に聞き分けられなかった。
昼休み一杯、聞こえるように悪口を言い尽くし、彼女たちは去っていった。
掃除の時間が始まるから早く戻らないといけないのに、動けない。
気がつけば、脇からスカートがずり落ちて垂れ下がり、便器に触れていた。
ああ、汚い。
学校でやるべきことを何とかやりきり、軽くない精神的疲労を抱えながら昇降口で靴を履き替えていると、
「昼から変だけど、また何かされたのか?」
背中に夏目君の声がした。
振り返りつつ周囲に視線を走らせた。ビーちゃんたちに見られたら、またいろいろ言われてしまう隙を与えることになる。
彼女たちのきらびやかな姿はなく、安堵の息が洩れた。
「何でもない。お腹、痛いだけ」と遅ればせながら、そして我ながら下手すぎる嘘っぱちを口にした。
「──ま、いいけど」
「じゃあ、わたし──」行くね、と言いかけたところで、
「今からうちに来いよ」と夏目君が言った。「本能のままに動くジジを見てると、アホみてえなことばっかごちゃごちゃ考えてる人間が滑稽に思えてくるぜ」
一瞬考えて、ジジと遊べば嫌なことも忘れられるよ、と言いたいのだな、と結論付けた。ひねくれた言葉を上手く翻訳する技術が彼との会話には必須なのだと最近わかりはじめてきていた。そんな自分がおかしくて頬が緩みそうになる。
その表情から内心を読まれないように、誤魔化すように、「ルナじゃ、ないの」と尋ねた。
「俺はまだ諦めてない」
「その精神力が、羨ましいよ」
ビーちゃんたちのことを考えると夏目君のおうちには行かないほうがいいのはわかっていたけれど、濡れたティッシュペーパーにならぎりぎり勝てるぐらいの精神力しかないわたしには、彼の誘いを断りきることができなかった。
夏目君の家は、わたしの家の一つ隣の地区にあった。車が二台入るガレージと子猫しか満足できないだろう小さな前庭のある一戸建てだった。日本の三人家族が住む典型的な住宅、という偏見まがいの解説文と共に外国の何らかの教科書にこのおうちの写真が載っていてもわたしは驚かない。それくらい、わたしの持つ普通の住宅のイメージそのままだった。
夏目君が、ただいま、と言わずに玄関を抜けて廊下を進むものだから、誰もいないのかな、と思って安心し気を緩めた。初対面の大人には緊張してしまう。できれば避けたかった。
けれど、テレビの音だろうか、人の生活音が鼓膜をノックしてきて、あれ? 誰かいるの? と思ったのも
「おかえり」
少しだけかすれていて少しだけ柔らかい、夏目君とよく似た女性の声だった。だぶん彼のお母さんだろう。
「ジジに客を連れてきた」
夏目君が言ったら、
「ルナ、な」
女性の声は即座に訂正した。
ドアの所で入室をためらっているわたしに、
「何してんの、入れば」
とあきれるような、訝しむような口調で夏目君は促した。
夏目君のお母さんは、下がり目の
「顔で選ばないように育てられた記憶もないんだが」夏目君は口を曲げるようにして答えた。
「親の心子知らずというのは真実なんだな。今知ったよ」
「そんなの当たり前だろ。自分以外の心を知ることができるとでも思っているのか? そうだとしたら思い上がりがすぎるぞ」
「かわいくないガキだな」
「おかげさまでな」
夏目君が二人に増えたみたいで、おかしみが脇をくすぐる。我慢できなくて、ふふ、と笑ってしまった。その時、
「あ、ジジ」
と夏目君が目線を下げた。それに合わせてわたしも下を向いた。
「みゅ」月のない夜よりも
ホラー映画で急にでっかい音や強い光が発せられると、お化けやモンスターに恐怖していなくてもびっくりして、「ひゃ」などと悲鳴を上げて身体をびくつかせてしまうことがある。今のわたしの状態は、まさにそれだった。惜しむらくは、「ひゃ」というようなかわいらしい驚き方ではなく、「うわっ」と男の子みたいな勢いだったことだ。
それを見た夏目君が噴き出した。「やっぱり黒猫駄目なんじゃねえか」けたけたと笑っている。
「ち、違う、びっくり、しただけ!」
と言っても信じてもらえないところまでホラー映画のときと一緒。
夏目君がボールを投げた。黒猫のルナ(ジジ)が跳ねるように走り出し、リビングの壁にぶつかって跳ね返ったボール目掛けて突撃する。
それに合わせるように夏目君が紐──ボールに繋がっている──を手前に引っぱった。ボールは、「残念でしたー」と
活発な性格なのか、狩猟本能のスイッチが入っているのか、一心不乱、無我夢中にボールを追いかけ回している。
「ザ・猫畜生って感じだよな」
ボールを、つまりはルナをも操りながら夏目君が言った。「反応するシステムに支配された血の流れる機械って表現のほうが適切かね」
独り言を言うようだったためにわたしに尋ねているのだと、間髪を容れずには気づけなかった。
「……難しいことは、わからないよ」
内容が難しくて返答に困り、そんな言葉しか返せない。というのは少し嘘で、最初に思ったのは、突き詰めれば生物はみんなそうなんじゃないかな、ロボットとの違いなんて柔らかいか硬いかしかないよ、という無機質な視点によるものだった。けれど、それを口にするのはかわいくないよ、と内から聞こえる声が制止してきたから言いさしたのだ。でも、ウィットに富んだ代わりの答えも浮かんでこなかったから、夏目君の好みに合わなそうなことを言ってしまった。
「ふうん──」夏目君はわたしに流し目を送り、「で、本音は?」と追及してきた。
わたしの仮面は硝子製だ。本来隠れているはずの素顔がまる見えの、底のないコップの親戚。バレバレ。だから、さっき思ったことを正直に伝えた。
夏目君は、はっ、と喜色めいた嘲笑を吐いた。「お前も大概ねじけてるじゃねえか」
そうかもしれないけど、「夏目君ほどでは、ないと思う」特殊な翻訳能力を要求してくる君には負けるよ。
「まあな」夏目君は言い返すこともなく落ち着き払っている──手は動きつづけているけど。
と、弄ばれることに飽きたのか、ルナはボールから顔を逸らしたかと思うとこちらへ寄ってきた。
そして、
気持ちがちくちくする。
「みゃ、みゅ」ルナは前肢をぱたつかせる。嫌がっているようにも、じゃれついているようにも見える。
床に降ろされたルナが、わたしを見た。けれど、何よ、とくさくさしているわたしはお気に召さないのか、すぐと夏目君に瞳を戻した。
すると耳の付け根の辺りを撫でられ、何やらうっとりしている。たぶん。
あーあ、と心の中で大きな声を出した。わたしもう駄目かもしれない。
ルナを羨ましいと思っていた。嫉妬していた。
あなたはいいよね、悪口を言われることもないし、夏目君にかわいがってもらえるし──なんて心がぶつくさ言っていて、一方であきれもする。こんなちっちゃな子猫相手に嫉妬して何がしたいのだろうか。
というか、と改めて認識してしまう。
そんなことを思ってしまうくらい好きになってる。
あーもう駄目だあ。
思いを言葉にしたくて夏目君に聞いてほしくて、でもやっぱり少し怖い。
そんなシーソーゲームのようにどっちつかずの心が選んだのは、聞こえないようにささやくような声で、そして万が一聞こえても聞き取れはしないように早口で、さらには万万一聞き取れても意味がわからないように、
「I have a crush on you(君のことをとっても好きになっちゃってる)」
と口語調の英語で言うことだった。
しかし、夏目君はちらと目だけで、たぶん赤くなっているわたしを見ると、「ふ」と鼻先であしらうように嗤い、
「Why, thank you(そりゃどうも)」
と皮肉げなイントネーションを奏でた。
照れ──よりも感心が大きかった。
「耳、いいね」
良すぎるくらいだと思う。絶対無理だと思ってたのに。
「洋ロックで鍛えてるからな」
「歌に、そこまでの効果が、あるの?」
「あるんじゃねえの?」知らんけど、とおざなりに逃げ道を整えながら夏目君は、甘えるように擦り寄るルナと戯れている。
むぅ。
こっそりとむくれるわたしへと深い青の視線が向けられ、やはり興味なさそうに逸らされた。
「……」
──I still don’t like black cats!(黒猫はやっぱり好きじゃない!)
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