②
「親は仕事?」
リビング部屋に案内され、ソファーに腰を沈めると夏目君はそう尋ねた。
「うん」わたしは答えた。「共働きだから」今日も遅くなりそうなんだって、と、こそっと言い足した。
「何してる人なの」
両親が働いている会社の名をわたしが口にすると夏目君は、
「超一流企業じゃん」とからかうように言った。「ま、そりゃそうか。気候難民が増えてきてる世界の土地事情を無視した、この無駄に高級感のはびこる自己中心的にでかい家を見るに世帯収入は推して知るべしってとこか」
人のうちをひどい言い草だ。それに、初めて入る他人の家にもかかわらずものすごくリラックスしている。わたしだったら、たとえ親が不在だったとしても緊張してしまうのに夏目君はまるで緊張していない。
夏目君は他人からの言葉を気にしない、とビーちゃんは言っていた。それは他人の評価を必要としないということなのかもしれない。だから、非難されることを恐れない。だから、クラスのみんながわたしをいじめていても夏目君はいじめない。そして、おそらくはわたしのように孤独に苦しくなったりもしない。
元々そうだったのかな、それとも──と考え、頭がいいからそうなってるのかも、というひらめきが脳裏をよぎった。
頭が良すぎると理解も共感もされないというのは想像できる。見えている世界が根本的に違うからだ。わたしたち凡人の目には夏目君のような人は変わり者に映る。彼が大人になって利益を生み出すようになれば、暗愚なガラス玉たちは役に立つ人という認識により更に濁っていくだろうから、天才だともて囃す人も現れるかもしれないけれど、少なくとも今は理解不能な宇宙人とカテゴライズされる。
自分のことをそんなふうに解する人たちの中で生きてきたら、他人の言葉をいちいち気にするのが馬鹿馬鹿しくなっても不思議じゃない。他人はみんな自分のアンチ、という感覚が近いのかな。それか、自分と他人は見た目が似ているだけで完全な別生物だとでも思っているのかも。
そこで自分を
すごく強い人だと思う。わたしには絶対できない。だって、やっぱり寂しいから。嘘でもいいから誰かに共感されたいし理解もされたいし、わたしの世界と誰かの世界を繋げておかないと怖くて仕方がない。
──夏目君は本当にそれで大丈夫なの?
と不安になり、そして彼のつまらなそうな顔を思い出した。寂しいかは不明だけれど、あまり大丈夫ではなさそう──もしかして今日わたしに優しくしてくれたのって、わたしに何かを期待しているから?
本物のギフテッドには遠く及ばない、創造性に乏しい、いわゆる学校のお勉強ができるだけの脳髄しか持たないわたしだけれど、一般的な指標を基準にすれば平均より上ではある。
夏目君は、わたしのことを自分に比肩するかもしれないと期待したの?
話が通じるかも、退屈しのぎにちょうどよさそう──みたいな?
それとも──わたしのことをかわいいって思ってくれたの?
──よし! と気合いを入れる。風邪で本調子ではないけれど、夏目君には敗北を味わってもらおう。ふふ。
「何、にやけてんの」夏目が
そうやって馬鹿にしていられるのも今のうちだからね。
わたしにはちょっとした特技がある。
それはチェス。クイーンやナイトと呼ばれる駒を動かして相手のキングを取るボートゲームの、あのチェスのことだ。
街田市に越してくる前、近所の公園で開かれたアマチュアのチェス大会──といっても、ただの素人のお遊びなんだけど──で大人のプレイヤーたちを押しのけて優勝したこともある。
当たり前だけど、強いのには理由がある。わたしの頭は物事を記憶することに
もちろん、こんな力業が通用するのは素人レベルまでだっていうのはわかってる。
でも、まだ小学四年生の夏目君ぐらいになら勝てる。はず。たとえ彼がそれなり以上にチェスをたしなんでいたとしても負けない。はず。チェスアプリのオンライン対戦でレート2000近くもあるんだからそうそう遅れは取らない。はず。プロにも勝ったことがあると自慢げに語っていた赤ら顔の酔っぱらいおじさんだってやっつけられたんだし、同じ小学生に負けるわけない。はず。
そのはずなのに──、
「はい、ステイルメイト」
にやにやと嫌らしい笑みで夏目君が言った。
「そ、そんな……」
わたしは唖然としていた。これで三戦連続ステイルメイトのドロー。
チェスは引き分けがとても多いゲームだ。実力が
わたしが驚いているのは、どうやら夏目君は有利局面なのにそれをわざとやっているらしいということ。つまり、チェックメイトに持ち込める状況にもかかわらずあえて勝たずに引き分けにしているのだ。普通は今にも負けそうなくらい不利なときに意図的に自分が動けなくなることで何とか引き分けにするために行うものなのに、夏目君はわたしの駒を蹂躙して
「
圧倒的な高みからの生殺し、首を落とさずにプライドだけを徹底的に叩き潰す、そんなやり方だ。
騎士道精神も何もあったものじゃない。実力を見せつけるにしてもこれは最悪だよ、夏目君。ある意味ビーちゃんよりも性格が悪い。
「くっ……!」
わたしは悔しさに打ち震えた。わからせるつもりが、わからされてしまった。
「どうした? 具合悪くなってきたか? そろそろ休むか?」いけしゃあしゃあと夏目君は言った。何と憎たらしい顔だろうか。
「な、夏目君は、チェス歴は、どのくらいなの」
ちなみに、わたしは四歳から。
「始めたのはスマホ買ってもらってしばらくしてからだから、ええと、一年ぐらいか。つっても、たまにぽちぽちやるぐらいだからな、実質的にはもっと短いだろうな」
「そ、そうなんだ……」
これは理解不能な宇宙人だわ。わたしだって馬鹿じゃないはずなのに、お父さんと努力してきたのに、まったく歯が立たないなんて。頭の構造からしてわたしたち一般人とは違うのでは?──と、そう思った瞬間、はっとした。
違う違う。そうやってわたしたちが理解を諦める情けない言い訳をして壁を作るから、夏目君はつまらなそうな顔をする。そんなの、わたしだってつまらない。
だから、わたしは精一杯の強がりを口にする。
「き、今日は、風邪だし、本当の、実力じゃないもん」ちょっと声が震えている気がしなくもない。
「あ、そう」夏目君は興味なさそうに相づちを打った。
「つ、次は、治ったら、勝つから」
ふうん、あ、そう──夏目君はやはり興味なさそうに繰り返した。
でも、少しだけ悪い顔をしているようにも見えた。次もいじめてやろう、と思っているのかもしれない。
……優しくないなあ、もう。
その後はビデオゲームをしたり動画を観たりして過ごし、あっという間に五時半になった。まだ日は沈んではいないけれど、夏目君はそろそろ帰らないといけない時間だろう。
やだな、と思う。もっと一緒にいてほしい。お父さんとお母さんはまだまだ帰ってこないだろうし、一人の夜はとても静かだから。
でも、わたしのわがままで夏目君を困らせるのは、やっぱり駄目。
「夏目君は、まだ帰らなくて、いいの」
何でもないふうを繕って尋ねた。
「帰らなきゃいけないってことはねえけど、腹減ってきてるからな、帰って飯食いたくはある」
夏目君も何でもないことのように──実際何もおかしなことは言っていないんだけど──答えた。
「そうだよね……おうちの、人も、心配するもんね」
暗い顔にならないようにしているつもりだけれど、わたしの弱っちい表情筋は嘘が苦手だ、悲しみの色がにじんでいるのは明白だった。
チクタク、チクタク──秒針の刻むリズムだけが沈黙を彩っていた。ちら、ちら、と夏目君の顔色を窺ってしまう。
「……何つーわかりやすいやつ」夏目君が、あきれるように、でも優しげに含み笑うようにつぶやいた。それから出し抜けに、「俺さ、抹茶スイーツが好きなんだよね」
瞬間的に冷蔵庫の中身を思い浮かべ、イメージの中に抹茶スイーツを探した。けれど、
「ごめん、今うちにはないんだ──」今度買っておくね、と喉まで出て、いやいやいや、と自分にあきれ返った。わたしはどの立場でそう言おうとしたの? と不思議でならない。夏目君がまた来てくれるかもわからないのに。
「一人で顔芸してないで最後まで聞け」
「う、うん、ごめん」
夏目君に叱られてしまった。でも、何だかちょっとうれしいかも──。
「今度ヘブンのプレミアム厳選抹茶アイス奢ってくれよ。それなら、今夜はお前が帰れって言うまで相手してやる」
「え、それって──」わたしが帰れって言いさえしなければこのうちに泊まるってこと?!
「あと、宇治抹茶パフェも」
「うん、いいよ!」
「それから、抹茶ラテと有名店とのコラボ商品の抹茶ロールケーキも」
「う、うん、それくらいなら、別にいいんだけど」
「流石、エリートリーマンの娘は金離れが違うな」
普段お金はほとんど遣わないからお財布的には問題ないんだけど、「そんなに甘い物ばかり食べて、ちゃんと歯磨かないと駄目だよ」
うれしそうにしていた夏目君は一転、心底鬱陶しそうに眉を曲げ、「言われなくても歯ぐらい磨くっつーの」
「そうだよね、ごめん──えへへ」笑いが零れてしまった。
「その笑い方、普通にきもいからやめたほうがいいぞ」
言われて顔をきりっとさせようとがんばってみても、すぐにふにゃっと崩れてしまう。
夏目君って優しくないのに優しいんだ。不思議な人。
ほんわかした温かさに包まれているようで、甘くてぬくい安心が心を満たしていく。
浮かれるわたしに苦笑する長いまつ毛が、くすぐったい。
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