密室は簡単には作れない

桔梗 浬

第1話 はじまり

 バサッ。


 私は先ほどまで手にしていた原稿用紙を膝の上に無造作に置いた。そして天を仰ぎ大きく息を吸い込む。


 こんなことになるとは予想もしていなかった。


 そう、全てはあの日から始まっていたのだと、私は改めて考えさせられていた。


 全てはあの日から…。



* * *



「珍しいですね。先生が私を呼び出すなんて、よっぽどなお話ですか?」


 これは、喫茶店でのある日の出来事。


 目の前にいる男はホットコーヒーを飲みながら、悪戯っぽい目を私に向けてこう切り出した。



「急ぎでも何でもないのだよ。忙しい時期に申し訳ない。君にも私の新作を見てもらいたくてね。ちょうど年末に私の妻が誕生日パーティをすると言うものだから、君もどうかと思って」


「お誕生日でしたか、それはそれは…おめでとうございます」


 私は深々と頭を下げ、祝いの気持ちを表してみせた。


「めでたくも何でもないよ。もうすぐ古希を迎える私のことなんぞ、誰も祝う気持ちにはならんでしょ」


 ただ飯を食らいたい者が集う会だよ、と苦笑いをし、男は左手でカップをつかみコーヒを啜る。


「そんなことはないでしょう。奥さまも心から先生を愛しているとお見受けします。それでしたら私も、ただ飯を頂けるのであれば喜んでうかがいましょう」


 彼は満足そうに頷いた。


 今、私の目の前にいる男は夏目蝶十郎、御年68ともなる推理作家で、確か2年前に40近く歳の離れた、若く美しい妻を娶ったはずだ。肌艶もよく、ハゲ面に長く伸ばした白い髭がトレードマークのエロジジイだ。


「多いに結構。では存分に楽しんでくれたまえ」


 そう言うと、夏目先生はコーヒーのお代わりを注文した。左手でカップを軽く持ち上げて目で合図する。


 これが私の知る生きている夏目蝶十郎の最期の姿だった。

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