第4話 桜雨の紅茶とイチゴのフレジエ~祝福の花びらを添えて(2)

 別れたというのに、スバルとはちょくちょく会うことになった。最初の1、2年は、音楽系フリーペーパーや雑誌の記事の中で。

 その頃の彼はひっそりと部屋で撫でられるくらいのミニサイズだったけれど、やがて音楽雑誌の表紙、屋外広告の看板、街頭ビジョンと、月日を重ねるごとに巨大化していった。


 あれから7年が経ち、彼氏は5回も変わったのに、スバルとちゃんと別れた気がしない。未練ったらしい女だと思われたくないから、誰にも言わないでいる。

 

 だから、会社の昼休みにスバルとソロシンガーの女の子の熱愛を知ったときも、ひとりで動揺を飲み下すしかなかった。

 なんとか退勤して家に帰り着いたはいいものの、今晩は一睡もできなさそうだ。まだ夜の早いうちにそう悟った私は、部屋着にスニーカーで外に出た。

 桜は散り始めていて、風はなくて、ぬるまったコロナビールにライムと共に浸かっているみたいな気温だった。


 賑わう駅のほうへと自然に足が進むけど、やけ酒できるほど胃の調子はよくない。すでに酔っ払っている騒がしい大学生のグループとすれ違い、小道の暗がりにしゃがみ込んだ。

 私は絶対に人前では泣かない。別れ話をしたあの日だって、スバルには涙を見せなかった。


 数分だけスウェットの袖に突っ伏して、ふと顔を上げると、緑のガーデンアーチにかかっている小さな看板が目に入った。ティーサロン・フォスフォレッセンス。

 白い花が咲くアーチの先には石畳が敷かれており、奥には小さめの洋館が建っている。玄関ポーチに提げられているカンテラの光に吸い寄せられるように、私はアーチをくぐっていた。


「強い方だ、ご自分で光を見つけて立ち上がられた」


 ふいの声に驚いてアーチの脇を見ると、若めの男の人が立っていた。細身の体で着こなすタキシードはびしっと決まっていて、自分のいかにも不法侵入者然としたラフな格好が恥ずかしくなった。

 怪しい者じゃないんです——と口から出かかったところで、その人は上品に微笑んだ。


「暗がりからお声がけするなど、とんだ失礼を。佐倉さくら春香はるか様、お待ちしておりました。『ティーサロン・フォスフォレッセンス』にようこそ。

 佐倉様のためだけに心を込めてお作りしたスイーツと特製ドリンクで、心を癒やす最高のおもてなしをお約束いたします」


「お待ち……!? 予約してませんけど!?」


「おや、では佐倉様ではない? それではやはり怪しい方ですか? 春はいけませんね、人に道を踏み外させる。では警察に」


 元彼の熱愛で傷心のうえに、警察に連行されるのか。それだけは勘弁してくれ、とばかりに前のめりになる。


「待ってください、佐倉! 佐倉春香です! 怪しくありません、けど」


 勢い余って名乗ったけれど、やっぱり予約をした覚えはない。

 しかし、二の句を継げずに固まる私を見つめ、男は実に愉快そうに笑い始めた。


「再びのご無礼をお許しください。警察がお嫌なら、素直にお客様におなりになるのが得策かと。さあ、至福のひとときの始まりです」


 歯の浮くような台詞も、現実味がないほどの美男が言うと特に違和感がない。

 これって脅しでは? というか、新手のホストの営業? いや、コンカフェってやつ? という疑念もないではなかったが、お菓子の匂いで満ちるティールームに案内されるなり、俗っぽい疑いは消えてしまった。


 深い森の色をした壁紙には花が咲き、つるが茂っている。お客用のこぢんまりした丸テーブルの上では、キャンドルの火が思い思いに揺れている。

 カウンターには所狭しとガラスドームが並んでいて、ドライフルーツが練り込まれたケーキや焼き菓子でいっぱいだ。

 そこには、至福と呼ぶにふさわしい眺めが広がっていた。


 セノイと自己紹介した彼が、執事らしい優雅な手つきで部屋の奥を指す。彼に誘われ、低い階段を上がった先の半個室に入ると、私は息を呑んだ。テーブルの先に、白百合が揺れる庭が現れたからだ。

 もちろん窓越しの景色なのだけど、夜に浮かび上がる白い花弁の艶かしさに、壁とガラスの隔てなど忘れてしまいそうだった。


 セノイさんが引いてくれた椅子に腰かけ、グリーンと白で上品にしつらえられたテーブルにつく。3本差しのキャンドルに火が灯され、なぜだか胸の前で小さく拍手してしまった私に、セノイさんはまたくすっと笑った。

 次いで、ピンクの花が描かれたティーカップに、流れるような手つきで琥珀のお茶が注がれていく。


 立ち上る香りのせいで、説明されなくてもなんのお茶かわかった。気持ちが少ししんみりしてしまう。


「こちらは、桜まじりの春の雨で淹れた、桜雨さくらあめの紅茶でございます」


 私はぎょっとした。桜まじりの雨って何? てか、雨水ってこと?


 それを気取ったのか、セノイさんは猫のような瞳を細めて「桜で香りづけした紅茶だと思っていただければ。一種のフレーバーティーですよ」と微笑む。


 促されるまま恐る恐るカップに口をつけた瞬間、開花したてのような桜の香りが広がり、鼻の奥に抜けていった。


「びっくりした……飲んでみると、単に香りを嗅ぐよりずっと風味豊かで。これまで、なんで花を飲み食いするの? って思って桜フレーバーみたいなのは敬遠してたんですけど、おいしいんですね」


「お気に召したようで何よりです。華やぎと爽やかさのあるお味でよいでしょう」


「はい……でもちょっと悲しい」


 悲しい? と今度はセノイさんが目を見開いた。私は少し考えてから言う。


「桜は爛漫らんまんの美しさと散り際の儚さが、セットで記憶される花だからかも。いちばん幸せな時と終わりが、くっついて離れない思い出みたいな」


「それはきっと、切ないと言うのでしょう」


 再び、私が目を見張る番だった。わけもわからないまま、胸と瞳の奥がふんわり熱くなる。


「思い返すと胸が締めつけられ、痛いとさえ感じる。身を切られるようなその痛みは、贅沢な感情を——失礼、満開を知っている人のみが味わえる妙味みょうみです。違いますか?」


 そうだ。私とスバルは、悲しい恋をしたわけじゃない。

 本当に大切な恋だったから、こんなに大きく切ない気持ちになるんだ。


 返事をしたら、言葉と一緒に涙を落としてしまいそうだったから、無言で頷いた。

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