第4話 桜雨の紅茶とイチゴのフレジエ~祝福の花びらを添えて(1)

 春は嫌いだ。ぬるい暗闇に私を置き去りにした男を思い出す。


 その恋は私の青春。乳房の下に隠すように押された、もっとも美しい後悔の焼き印——だというのに、出会いには特におもしろいところがない。

 彼とは同じ大学で、同じ一般教養パンキョーの授業を取っていて、座る席が近いことが多かった。


 伸ばしかけというわけでもなくただ切り損ねているっぽい髪型、ゆるっとした無地のグレーのスウェット、だぼっとしたワークパンツもやや濃い目のグレー。いつも所在なさ気に教室に現れ、空いている席にそろりと座ろうとする。


「それ、ノームコアってやつ?」


 頬杖をついたまま、思ったことがそのまま口をついた。彼はぎょっとした顔で振り返り、立ったまま怯えたように小首をかしげた。


 びっくりさせて悪かったな、と思いながら「『究極の普通』って意味のファッションなんだって。てか知らないなら違うね、ごめんね」と謝りかけたところで素っ頓狂な声が出た。


「え!? バックステージパス?」


 再び彼がびくっとした。私の視線を追って、自分の腰のあたりに目を落とすと、慌てた様子でスウェットの裾に貼られたシールを剥がしにかかる。私はちょっと息を弾ませた。


「バンドやってるの?」


 ハガキよりちょっと小さめのこの布製シールは、ライブに出るバンドメンバーが、自分が演者であることを示すために貼るものだ。

 さっきちらりと見えたけど、ネーム欄にはバンド名らしきアルファベットが書かれていた。


 彼は難儀して剥がし終えたシールを、手のひらに隠すように丸めた。顔が赤くなっている。

 服にパスを貼ったまま洗濯して、気づかないまま着てくるのはバンドマンあるあるだ。


「バンドは、やってる。服は、ユニクロ」


「いいね! 私もやってたよ、高校生のとき。あ、私の服は別にユニクロじゃない」


 ボカロ世代だしEDMなんかが流行っている頃だったから、バンドやってる同年代に会えるなんて珍しくて、素直にうれしかった。それは彼も同じだったみたいで、初めて目が合うと、イルカの子どもみたいな笑顔を見せてくれた。

 今度は私が赤くなるのがわかった。至極普通に恋が始まっていた。


 知っている音楽なら、私のほうが多かった。まあまあ凝り性だから好きなバンドの好きなバンド、みたいなのをどんどん遡って聴いてきたおかげだ。

 でも、彼の指は知識なんかやすやすと超えた。全身灰色の目立たない男の子は、ステージの上では優秀なリズム隊で、楽曲の骨格そのものになるルート弾きを披露した。


 関係者パスをもらって初めて彼のバンドのライブを見たときには、若い女の子の多さにびっくりした。ノルマのために知り合いを無理やり連れてきた感じじゃない。ちゃんと自分の意志で来ているお客さんだった。

 大学にいるときとは全然違う。ここでの彼は、全然ノームコアじゃなかった。


 女の子たちの刺すような視線を気持ちよく感じながら受付を済ませ、控室のほうに進む。その途中の階段の踊り場で、彼と出くわした。

 緑がかった暗い照明とは不似合いな笑顔で彼が言う。


「今、迎えに行こうとしてた。来てくれてうしい」


「もう3回目だから場所わかるよ、迎えはいいって。ねえ、酔ってるよね?」


「うん!」


 彼が右手のコロナビールの瓶を掲げ、にっこりと笑う。お酒に弱い。飲むとすぐに赤くなって、上機嫌になる。

 だけど、私やバンドメンバー以外の前で饒舌じょうぜつになることはない。そんなところもかわいい。


「残りは私がもらうよ。いつもはもっといい子じゃん、出順までに酔いを覚ましなよ」


 そう言ってビールを奪い、濡れた飲み口に唇を当てた。瓶の中に揺蕩たゆたうライムが、ぬるい苦みの中で香る。

 彼はとろんとした目でそれを見つめていたが、急に私の袖を引っ張りながら壁に近寄った。

 気分でも悪くなったのかと思ったが、続いてグレーのパンツのポケットをがさごそとやって油性ペンを取り出す。パスにバンド名を書いたときのものだろう、受付に返し損ねたらしい。


 彼が真面目な顔で、ステッカーと落書きだらけの壁に文字を書きつけていく。


『スバル ハルカ』


 彼と私の名前だ。たわいもない、まるで中学生みたいなイタズラに思わず苦笑した。


「わかった、全然いい子じゃないね。悪い男だ」


 私の言葉に満足したらしいスバルが、至福の笑みを浮かべる。さらには少し迷うような素振りをしたあと、ふたりの名前の間にハートを書き足した。

 

 私が笑うのを横目に、彼が踊り場の隅に立てかけてあったベースケースに手を伸ばす。控室がいっぱいで、ここに置いておいたみたいだ。 

 そろそろ全体のリハが終わる頃だから、彼は行かねばならない。酔ってケースストラップをつかみ損ねる彼の代わりにベースを背負うと、骨身に沁みる重みがずしりと来た。


 そうだった、ジャズベ(※)って、何度背負っても思っているよりずっと重かった。

 私はもう音楽をやることはないだろう。高校時代に組んでいたバンドは楽しかったけど、いつの間にかすっかり青春の一コマになってしまった。

 大学生になった今、お金は楽器代やらスタジオ代やらよりはコスメと服に使いたいし、揚げ物とタバコの臭いまみれになる打ち上げの安居酒屋よりは、かわいいカフェに行きたい。

 私は音楽を振ったのだ。


 背中の重みを引き渡しながら、あんたたちは幸せ者だねと思う。相思相愛のスバルとベースふたりに手を振り、はにかみながら何度もこちらを振り返る彼の後ろ姿を見送った。

 控室の扉が閉まったとき、このまま一生彼とは交わらない暗闇に、永遠に取り残されたような気がした。緑の照明が不穏に瞬いていた。


 脳裏をよぎる一瞬の予言など、若さの前になんの意味も持たない。

 スバルはその日も最高のステージングをし、私たちは打ち上げの帰りに寄ったファミレスで付き合うことになった。


 気弱でなかなか人と打ち解けられないスバルと、社交的だけど器用なほうではなく、強がりな私との相性はよかった。喧嘩もしたけれど、「もういい!」と拗ねてきびすを返す私を、彼は必ず追ってきてくれた。

 スバルがときどき、溢れてくる想いをどうしたらいいかわからない、といったふうに悶えたあと、諦めたように「好きだよ」と言うのがうれしかった。

「好き」を伝える特別な方法を思いつかない、その凡庸ぼんような悲しみがわかるから、私と彼は恋と悲しみで繋がれているのだと思えた。


 ちょっと特別で、ちょっと光るものがある、それも含めて普通の恋を謳歌し、4年の月日が過ぎた。

 私も、そしてスバルも地元で就職することが決まっていた。彼のバンドはすでに地元の数百人の箱を満員にできるくらい人気だったけど、就職後は週末を中心に活動していく予定だった。


 だから、3月末に呼び出されて、「メジャーデビューする」と告げられたときには冗談だと思った。

 付き合うことになった日に、一緒に始発を待ったファミレスの同じ席で、私たちは向かい合っていた。


「東京に行くんだ。メンバー皆で」


「は……何言ってるのかほんとにわかってんの。就職蹴って、東京って、そんな」


「甘くないよね、わかってる」


「わかってないよ。バンドって横のつながりすごい大事なのに、スバル、知らない人と喋るの苦手じゃん。控室でも打ち上げの席でも、私が対バン相手と話繋いであげたりしてさ。

 大手からデビューなんかしたら、そんなんじゃ通用しないよ。業界のいろんな人に頭下げて、言いたくないお世辞言って、先輩アーティストに媚売って、そういうの、できないでしょ?」


 そんなの就職してからだって同じことだし、今それを持ち出すのはずるいってわかってた。それでも引き止めずにいられない私に、彼はしっかりとした声で、一語一語はっきりと言った。


「そういうのも、変えなきゃいけないって、思った。ハルカにいっぱい助けてもらってきたけど、いつまでも甘えたままじゃ、いけないと思ったから」


 バンドマンの彼氏と遠距離恋愛なんてできない。私は涙を飲み込みながらそう言うと、ファミレスをあとにした。しばらくして振り返ったけど、スバルはもう追ってきてはくれなかった。

 のんきにほころび始めている桜並木と、ぽつぽつ降り始めた雨がうざったかった。


 店を飛び出したのは私なのに、あれからずっと、私のほうが緑がかった暗闇にひとり、置き去りにされたような気がしている。


 

※ジャズベ……フェンダージャズベース。ベースのブランドのモデル名。

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