第3話 夕暉のホットミルクと雪どけフォンダンショコラ(2)

 水、ひと口でいいから水を飲みたい。自販機かコンビニを見つけなきゃ。

 そう思っていたけれど、バス停の真正面にあったのはこぢんまりとした洋館だった。緑のつるが絡まったガーデンアーチが、入り口になっている。

 水を求める気持ちとは裏腹にぼんやりしていると、唐突に声をかけられた。


「そちらは羽衣はごろもジャスミンと言います。常緑のつる性植物で、早春には可憐な白い花を咲かせるのですよ」


 まったく気づかなかったけれど、アーチをくぐった先に白いひげを蓄えた紳士が立っていた。後ろだけお尻が隠れるように長いジャケットは、燕尾服えんびふくというやつだろう。

 とっさに「へえ」と間抜けな声で応じた私に、紳士は続けた。


「よく見ると葉にが入っているでしょう、これはミルキーウェイという品種です」


 今度は「はあ」と相槌を打ちながら、アーチに控えめに下げられている看板に目を落とす。ティーサロン・フォス……そうか、お茶できるところなんだ。

 あの、と声をかけようとすると、紳士はにっこりと微笑んで言った。


「『ティーサロン・フォスフォレッセンス』にようこそいらっしゃいました、生田みつる様。生田様のためだけにお作りしたとっておきのスイーツと優しいお茶で、極上のおもてなしをお約束いたします」


 名前を呼ばれた、そうか、そうだっけ。病院のあとに予約をしていたんだっけ。こんな素敵なティーサロンを?

 頭が朦朧もうろうとして、霧がかかったようにさっきまでの時間が遠い。


「スイーツは……食べられるかわからないんですけど、お水、いえ、何か飲み物を」


 笑顔の老紳士に案内され、館内に進む。待ち合いのソファのあるエントランスを抜けてティールームに入ると、私は思わず目を見開いた。


 深い木の色をした床、花や植物のモチーフが描かれたモスグリーンの壁紙。カウンターにはお菓子の入ったガラスドームがずらりと並び、緩やかな弧を描く窓からは、蜂蜜のようにとろりと夕陽が注いでいる。


 カウンターの奥から漂ってくる甘い香りは優しくて、これだけでもう歓迎されている気分になる。


「当店にお越しの皆様、いまの生田様のようなお顔をされます。さて、申し遅れましたが、私は当店の執事のデュボワと申します。

 どうぞ、お足もとにご注意のうえ、階段の奥のお部屋へ。きっと、特別な時間をお過ごしいただけますよ」


 そう言われて半個室へと向かうなり、ああ、と溜め息が漏れた。

 テーブルの真正面にある大きな窓、その向こうでは金の光の中で白百合の大群が揺れていた。大ぶりの花は祝福のラッパのように福々しく、なのに、人の世界からあまりに遠い美しさが少し怖くさえある。


「よい時間にお越しくださいましたね。静かな夜を迎える前にほんのひととき立ち現れる、夢のごとき華やぎの景色です」


 丁寧にしつらえられたカトラリーが、夕の淡い光を受けて輝いている。座ってそれをぼうっと見つめているうちに、水と共に湯気を立てる飲み物が運ばれてきた。

 デュボワさんがまろやかな笑みを浮かべながら言う。

 

「たっぷりと甘いホットミルクです。蜂蜜の代わりに庭の百合から取れた、夕暉せっきを溶かしております」


 夕暉なんて言葉、私の語彙ごいにはないし意味だって知らなかった気がする。だけど、なぜか夕の光のことだとすんなり理解して笑った。


「こんなちゃんとしたお店の執事さんも、冗談を言うんですね」


「冗談だとお思いですか? 百合の花の中に溜まった金の光を、じいが腰を痛めて集めて参りましたのに」


 長身をかがめて、一つ一つの百合から光を採取するデュボワさんを想像して、ふ、と吹き出してしまった。不思議。憂鬱な気持ちを、お店の外に置いてきたみたいだ。

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