第37話 少女たちは失われた四季に咲く④

 その日はシェルターから少し離れた小さな工場跡地で夜を明かし、翌日、僕らは海を目指し歩き始めた。

 世界には誰もおらず、僕たち五人だけが存在していた。


「あっつ……昼ってこんなに暑いんだな」

「でも風が気持ちいいですよ~」

「気温はどのくらいなの?」

「えー……? 三十五℃。湿度七十二%」


 河川敷をのんびりと歩きながら、萩原アカネが湿温計を見てうんざりと応える。僕らも揃って「えぇ~」とうんざりした声を上げた。時折吹き付ける風が、川の冷気を攫ってほんの少しだけ僕らに量をもたらす。それだけが救いだった。


〈外〉の昼は極寒の夜とは打って変わって、蒸し風呂のような暑さ地獄だった。

 確か、季節を生むのは地球の公転に関係していたのだったか。それでいうと今は寒さ厳しい冬のはずなのだが、冬とは一体何だったのかと思わざるを得ない気温と湿度だった。それでも日差しをさほど強いと感じないのは、曲がりなりにも冬のためか。とはいえ一面の雪景色なんていうものはどこにもなく、想像していた冬とは随分違う。

 予め用意していた飲み物は、みるみる減っていった。


「これで夏だったら四十五℃とかいくんだっけ?」

「灼熱地獄じゃん」

「蒸されて死んじゃうのです」

「それ、第一の話かしら」


 冗談にならない冗談に、揃って空笑いを零す。


「いっそ川を泳いでいきたいのです~」

「やめとけって。どんな菌がいるか分からないんだし」

「そうよ。私たち、シェルター育ちで耐性ないんだし」

「え~でも人工河川よりと同じぐらい綺麗に見えますよ? あっ、魚! 魚が泳いでます!」

「……そりゃ川なんだから、魚ぐらいいるでしょ」


 河川敷の堤防から眼下の川面を覗き込んで、はしゃぐ夜桜カレン。呆れたように呟きながらも、萩原アカネも興味を引かれているようだった。


 シェルターには、今もいくつか小さな湖川が残っている。しかしシェルター建設にあたりその水源が絶たれたり、埋め立てられたり、あるいは生態系が維持できなくなり生物が排除されたものがほとんどだ。今は景観のために維持されている物がほとんどで、そこに生き物は存在しない。


「食べられたりしないんですかね?」


 僕らが食べたことがあるのは、どこかの食糧プラントで生産された養殖魚だけだ。


「食糧が尽きたら獲るのもありかもな」


 他愛のないことを話しながら、ケラケラと笑って歩いて行く。叶いもしない夢想を、いくつも言葉にしながら。


 途中、渡ろうと予定していた橋が崩落していた。僕らは別の橋を探した。人がシェルターに引きこもって四十年近くが経つ。人の手が入らなくなった建造物はどれも古くなっていて、安全に渡れそうな橋を見つけるために、僕らは川沿いを行ったり来たりした。道も崩落したビルによって塞がれて迂回させられたり、時には霰混じりの豪雨に雨宿りを余儀なくされたりと、結局その日は川を渡るのを断念した。


 夜は近くに昔の鉄道路線の駅があるということで、折角なのでそこで明かすことになった。駅改札前のメインストリートはシャッターが落とされてはいるが、人のいた痕跡が強く残っていて、ここが確かにかつての人流の中心であったことを実感させた。


 南口と書かれた大きな出口からは、見事な夕焼けが見えた。世界中のあらゆるものを朱色に染め上げる夕焼けは見事の一言で、僕らはやっぱり言葉を失った。その朱色の中には遠く、巨大な白いドームが見えて、僕らは直観的にあれがメインシェルター・セントラルだと理解した。自分たちの生きる世界を外側から見るのは初めてだった。小さな世界は、やっぱり外側から見ても小さかった。


 夜はまた氷が張るような寒さが僕らを襲った。僕らは身を寄せ合った。寒さは身に沁みたが、それでも昼の暑さよりはマシなような気がした。

 夜に移動した方が楽かもしれない。そんな意見が上がって、けれど夜は視界も悪く、野生動物と遭遇した際の危険も増す。結局、僕らは次の日も、炎天下の下を歩いた。


 三日目。日がてっぺんに登る前に、安全そうな橋を見つけ、川を渡った。昼に、食糧が尽きた。

 夜桜カレンが持ってきた食糧は元々多くなかった。朝と昼と夜。空腹を紛らわす程度に咀嚼して、飢えを凌いでいただけだ。


 一番深刻だったのは、飲み水の不足だった。水は食べ物より重い。先を見越した百合野トオルが多めに持ってきてくれてはいたが、五人で分け合うにはあまりにも不足していた。常に喉が渇いたし、何なら頬を流れる汗でさえ、拭うのがもったいなく感じた。


 水なら、すぐ傍を流れる川になみなみとあった。けれど僕らはそれを飲まなかった。僕らの身体では飲んでもすぐに身体を壊すことが分かっていた。それを飲み水にする手段も持ち合わせていなかった。


 僕らは確実に疲弊していた。

 歩みは更にゆっくりになって、まるで牛歩のごとくになった。


 その日の夜は、道ばたにかろうじて残っていた崩れ掛けの民家で夜を明かした。古めかしいデザインの家だった。僕らは団子のように身体を寄せ合ったけれど、酷い空腹と這い寄る冷気にろくに眠れなかった。


 そしてシェルターを脱走して四日目。

 歩き疲れた僕たちはとうとう足を止めて、どこかの民家の庭先に生えた大木の下に座り込んだ。

 五人が手を合わせて円を作っても一周できそうにもない太い幹に寄り掛かって、天を仰ぐ。


 誰も弱音の言葉は一つも吐かなかった。

 疲れた、とも。

 無理だ、とも。

 もう歩けない、とも。

 言わなかったけれど、分かっていた。


 抜けるように青い空には、太陽が燦々と輝いていた。生い茂る枝葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日が、きらきらとしていて綺麗だった。葉っぱが透けて、裏側の繊維まで見えそうだった。その新緑色の向こうには真白い雲が、まるで山のように膨れ上がっていた。


 なんていう名前の雲だろうと、ふと思った。

 昔の人は雲をその形や色で判別し、色んな名称で呼んだという。僕らはそれを、一つも知らない。知る必要もなければ覚える必要もなく、知ろうとさえ思わなかった。学校でも、教えなかった。


 それはもう、生きるためには必要のない知識なのだ。

 どこからか風が吹いて、木々を揺らす。波のような葉連れの音が、心地よかった。

 僕らは、笑っていた。

 椿カナデも、萩原アカネも、百合野トオルも、夜桜カレンも。


「カレンちゃん、〈四季〉でよかったです」


 僕の右隣で、夜桜カレンが言った。ややあってその向こう側から「……そうだな」と微かに笑む気配がした。


「いてくれて、よかったよ」

「あたしは数合わせだけどね」

「またそういうことを言って~、このこの~」


 僕の二つ左から、つんとした声が上がる。言葉だけで、夜桜カランが萩原アカネを弄った。動く気力は、もう誰にも残ってなかった。


「……そうね」


 と、椿カナデが場の空気に吊られたように、顔を綻ばせる。


「悪くなかったわ。ずっと」


 そうして四人は各々に笑って、「あっ!」と夜桜カレンが何かに気付いた。


「キ、キミのことを忘れてたわけじゃないですからね! 仲間はずれなんていうわけじゃないですからね! 〈四季〉ってみんなが言うから、つい〈四季〉って言っちゃっただけで……」


 ぶんぶんとこぶしを振って、夜桜カレンは否定する。まだ多少の元気は残っていそうだった。


 構わないのに、と僕は笑んだ。別に〈四季〉は〈四季〉なのだから僕を含めなくて当然だしそれでよかったのだが――なんとなく、嬉しかった。


 彼女は虚を突かれたように目を丸くした。けれど納得できないというように眉根を寄せて、探偵のように顎に手を当て考え始めた。


「でも四人だから〈四季〉で……あ、そうなると〈四季〉じゃなくなっちゃいますね。うーんうーん……五人だから……〈五季〉?」


 僕を含む四人が、半眼になって夜桜カレンを見た。


「ゴキは……ちょっと……」

「それってあれじゃん……G……」

「アカネ、だめよ。それ以上は言ってはいけないわ」


 四人のみならず、提案者の夜桜カレンまでもが揃って脳裏に、太古の昔から姿を変えずに存続しているという黒光りするあいつを浮かべてしまう。


「ないと思う」


 きっぱりと言い切った僕に、一拍おいて〈四季〉は声を上げて笑い出した。そんなにおかしなことを言っただろうか、と目を瞬かせる僕の周りで、彼女たちは笑い転げた。百合野トオルなんかは、涙を浮かべるほど笑っていた。


 僕はなんだか釈然としない気持ちで、木の幹に体重を預け直した。

 呼び方なんて、どうでもよかった。別にGと同じでも、本当はどうでもよいのだ。


「いいじゃん、呼び方なんてなくても」


 萩原アカネが不機嫌そうに言って、


「無理にそんな枠組みに拘る必要なんてないしな」


 百合野トオルが淡々と頷く。


「〈四季〉だ〈五季〉だなんてのは、勝手に言わせとけばいいのよ」


 椿カナデが強気に言い放って、


「そうですね」


 と夜桜カレンが笑う。


「カレンちゃんたちは、カレンちゃんたちなのです」


 僕らは僕らとして、ここにいる。

 それだけで、十分なのだ。


 ――瞼が重くなってきた。


「……ねぇ、写真、撮っていい?」

『写真?』


 ぽつりと零した僕の呟きに、三人から訝しげな声が上がった。一人声を弾ませたのは、夜桜カレンだった。


「いいですね、写真! はいはい! カレンちゃんが撮ります!」


 そう挙手して、夜桜カレンがリストデバイスを起動する。ほどなくして「あっバッテリーが五%なのです!」なんて悲鳴が上がった。


「なんで今更写真なんか」

「なんとなく」

「まぁ……構わないけどさぁ」


 萩原アカネが億劫そうに身を起こす。


「いいんじゃないかしら。記念写真でしょ。ふふ、親が見たらびっくりしそう」

「それ、ひっくり返って頭ぶつけない?」

「あら、いい薬だわ。ざまぁみなさい」


 荒療治だなぁと、不適な笑みを零す椿カナデに思う。


「構図はどうする?」

「折角だから青空背景とかどうかな」

「いいな、それ。もうちょっと真ん中に寄るか」


 百合野トオルが夜桜カレンに身を寄せ、夜桜カレンが押されて僕にくっつく。反対側の萩原アカネと椿カナデも同じようにした。


 リストデバイスから爪の先程の小型カメラが分離。即座に展開した半透明の機械羽で、蜂のように宙に浮かび上がる。カメラは地面すれすれを飛んで、僕らから少し離れたところで制止した。夜桜カレンの手元のホロディスプレイには、カメラ映像が映し出されていた。太い幹の後ろに、青い空が見えた。


「みんなもうちょっと寄れますか~?」

「暑い……」

「もう無理。ぎゅうぎゅう」

「早く撮って」


 口々に文句が放たれる。けれどその顔には、みな笑みが浮かんでいる。

 僕もまた、口元を緩める。


「撮りますよ~? 撮りますからね~」


 そうしてシャッターが切られる、瞬間だった。

 夜桜カレンが、勢いよく僕の腕にくっついた。突然のことに目を丸くする僕を余所に、反対側から椿カナデも、僕の腕を抱え込むように抱く。百合野トオルが夜桜カレンごと僕を抱き締めるように腕を伸ばし、萩原アカネもまた身を寄せて椿カナデの肩に両手を回す。


 春が、夏が、秋が、冬が、花を綻ばせる。

 そしてカシャリ――と。

 棄てられた世界に、電子的なシャッター音が大きく鳴り響いた。



 それからしばらくして、僕らは警察に発見された。



 頬を打つ衝撃に、僕は意識を取り戻した。


「……か。――夫ですか!?」


 誰かが僕の頬を叩きながら、大声で呼びかけていた。


 重くて仕方ない瞼を、なんとか持ち上げる。ぼやけた視界に映ったのは、ぎょろぎょろとアイセンサーを動かすドローンと、なんだかよく分からない防護服に身を包んだ人間だった。フルフェイスマスクの向こうに、冴えない中年男性の顔が薄らと見える。両者は視界を覆い尽くすほどの至近距離から僕の顔を覗き込んでいて、僕は最初、それらがなんだか認識出来なかった。


 眠いな、と思った。それでも僕は朦朧とする意識の中、ゆるりと首を動かした。

 右手側に夜桜カレンと百合野トオルの姿が見えた。左手側には、椿カナデと萩原アカネがいた。写真を撮った体勢のまま、瞼を閉ざして、眠っていた。静かに静かに、眠っていた。


 夕焼けで真っ赤に染まった世界の中で、僕らは眠っていた。


「生存者あり! 生存者あり!」


 男性が鬼気迫った様子で声を張り上げる。マスクの中にインカムが内蔵されているのだろう。応答が僅かに漏れ聞こえる。けれどなんて言っているのか分からない。彼の向こうから、同じく防護服を着た人が、慌ただしい足音を立てて何人もやってくる。


 その光景をぼんやりと眺め、眺め――ふと僕はゆっくりと、瞼を閉ざした。

 身体が重くて、眠かった。呼びかけてくる声が、どんどんと遠くなる。意識は黒く塗り潰されていって、何も考えられなくなる。鉛の身体がまるで底なし沼に沈んでいくかのように、僕の意識は眠りへと落ちていく。もう指先一つさえ、動かすことは出来なかった。それでも――


 それでも、僕は笑っていた。

 細やかな微笑を、その口元に浮かべていた。


 僕たちは、どこにも行けなかった。

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