第10話 騒動の夏②

 いつもと違ったざわめきが廊下から教室へ飛び込んできて、校内を困惑と叫喚の坩堝へと落としていった。


「何? どうかしたの?」


 慌てた様子で廊下へ出て行こうとするいつもの男子二人に、僕は声を掛ける。さすがに異常事態だと分かった。

 返って来たのは意外な答えだった。


「百合野トオルがケンカしてるんだよ! 中庭で!」

「それも殴り合いだ!」

「え……?」


 火事か、それとも不審者の侵入者か。それらだったら、どれだけ良かったか。

 そんなものを想像していた僕は、思わず戸惑いの声を零す。

 嫌な予感が、胸中を支配した。


 騒ぎは騒ぎを呼び、話を聞きつけた生徒が中庭の見える場所へ向かう。気付けば僕もその流れの中にいた。


 現代において暴力は、ほぼ廃絶されたに等しい概念だ。

 以前、夜桜カレンが告白主から殴られそうになった時もそうだ。学校という空間が閉ざされていたのは昔の話。今では常に機械の目があるし、他者を害する行為は、学校においてはイジメではなく犯罪であり、家庭においては虐待だ。


 だから多くの生徒にとって、拳を振るうという行為は遠い世界の話で、物珍しいものだった。

 人混みをかき分けた僕は、廊下の窓に齧り付いて中庭を見下ろす。


「ふざけんな!!」


 瞬間、怒声が中庭に反響し、百合野トオルの右拳が男子生徒の頬に炸裂した。男子生徒は勢いそのまま吹き飛んで、地面に倒れる。

 ――東条アキラ。

 百合野トオルがゆっくりと彼に歩み寄った。


「何も知らないくせに、又聞きした話で人を勝手に決めつけて……カレンが男を取っ替え引っ替え? 遊んでる? ふざけんな! お前がカレンの何を知ってるっていうんだ!」


 百合野トオルが、起き上がろうとした東条アキラに馬乗りになり、足を使って動きを封じる。そのまま左手で彼の胸ぐらを力任せに掴むと、握った右拳を後ろに引いた。

 しかし拳が飛ぶより早く、東条アキラの反論が飛ぶ。


「知るかよ! 噂なんてな、流される方が悪いんだよ! 流した噂の方が信じられるんだ。その程度の人間だったってことだろ!」

「っ!!」


 百合野トオルの怒気が膨れ上がり、右拳が東条アキラの頬に打ち込まれる。女子の間から黄色くない悲鳴が上がった。血の混じった唾を吐き出して、負けじと東条アキラが叫ぶ。


「つーか気持ち悪いんだよ! 人のこと好きだかなんだか知らねーけど、影からこそこそ覗き見しやがって! それで勝手に人の会話聞いて、勝手に失恋しただけだろ? そんで勝手に学校に来なくなった。ハッ、ざまーみろだわ」


 口の端を上げて、愉快げに東条アキラは笑う。


「あの女が告白して玉砕した~って話だって、どうせ誰かが面白おかしく騒ぎ立てただけだろ? 俺に何の責任があるっていうんですかねぇ」


 確かに、夜桜カレンが不登校になったきっかけ――東条アキラたちの会話は、よく響く渡り廊下で公然と行われていた。誰かが僕らと同じく会話を聞いていた、そして盗み聞く夜桜カレンの姿を見ていた、あるいは不登校となった状況から邪推し、囃し立てた。


 僕は、二人の会話から得た断片的な情報を元に、そう推測する。

 百合野トオルはおそらく、夜桜カレンが学校に来なくなり、その理由を追っていたのだろう。そこで僕から情報を得て、東条アキラの開けっ広げな会話が原因だと知った。そして彼に問い詰めた。


「それでこんな風に殴られちゃって、これ、八つ当たりっていうんじゃないですかね~?」


 哄笑が中庭に響いて、途切れる。百合野トオルがまた殴ったのだ。だが東条アキラからの反撃はない。

 直観的に、あの男は分かっていると思った。殴り返すことが後々どういうことになるか。だから手は出さない。ただ相手を煽ることに徹している。


「お前があんな人前で、悪し様にカレンを悪く言わなければ……!」

「――だから?」


 嘲笑と共に吐き出された一言は、鋭いナイフのようだった。


「どうせみんな知ってる話だろ? どっちにしろ、あの女は俺にフラれる運命だったわけだ。ビッチだなんだって話を信じたから、だからどうだってわけ? 噂がなければ俺があの女と付き合ったとでも? それこそふざけんなだわ。噂なんかなくっても、あんな頭ゆるふわ女、土下座さされても願い下げだっての!」


 それが最後の言葉だった。

 百合野トオルの拳が振り下ろされる。何度も、何度も。東条アキラが煽り文句を吐き出す間すらないほどに。あるいはそれ以上、夜桜カレンに対する罵倒を紡ぐ間すら与えないように。


 殴って、殴って、殴って、そうしてようやく駆けつけた警備員が、その拳を止めた。

 警備員が百合野トオルを羽交い締めにして、東条アキラから引き離していく。一緒に駆けつけた教師に支えられながら身を起こす東条アキラの口元には、にやついた笑みが浮かんでいた。


 やがて校内にも教師がやって来て、僕らに教室に戻るように指示する。蜘蛛の子を散らしたように、生徒たちは各々の教室へ、一斉に戻っていく。


 しばらくの後、何事もなかったかのように午後の授業は始まった。

 教室の真ん中にあった空席は、二つになっていた。

 僕らはその空席について、触れようとしなかった。

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