第5章⑨

 その日から、黒崎さんの指導のもとに、鞭の練習が始まった。言っていることがよく解らないと思うのでもう一度言うが、そう、鞭の練習が始まったのである。もう一度言っても我ながらよく解らない。

 何が悲しくて鞭の練習……レディ・エスメラルダとしてもしたことがないのに、なんでまた……と、崩れ落ちそうになりながらも、黒崎さんの指導のもと、めきめき鞭の腕前が上達する私である。なんでやねん。

 今日は黒崎さんは別件があるらしく、「やりたければ自主練でも、あるいは休んでもかまわないぞ」と言われ、私はとりあえずジャスティスメイカー総本部のトレーニングフロアにやってきていた。

 鞭の練習がやりたいわけではないけれど、もう少しジャスティスメイカーとかジャスオダの情報を入手して、スパイとしての役目を果たしたいからだ。

 ちなみにコスモスエナジーについては既に報告済みである。数が管理されているようだから検体としては提出できず、事情を知らされたドクター・ベルンシュタインに「せっかくなのに。使えないオバサンだよね」と唇を尖らせられた。だからオバサン呼びは止めてほしい。

 何はともあれ、このトレーニングフロアで頑張りましたよ〰〰だからその後うっかり他の階に行ったのは休憩室を探してたからですよ〰〰という名目を作るために、私が黒崎さんから教えてもらった通りに、マネキンを床から用意した、その時だ。

 ポーン! とエレベーターの音が鳴る。

 あれ、黒崎さんかな。そうそちらを見遣った私は、「うわ」と小さく呟いてしまった。幸いなことに向こうさんには届かなかったみたいだけれど、彼は彼で「チッ」と露骨に舌打ちしてくれたようなのでどっちもどっちである。

 

「あ、蒼樹山、さん?」

「気安く呼ばないでもらえますか、柳みどり子さん」

 

 いや『蒼樹山さん』以上に他人行儀に呼ぶことこそとても難しいことだと思うのだけれども、それすらも気に食わないらしいジャスティスオーダーズブルー担当蒼樹山青威さんは、フン、と鼻を鳴らして私を冷ややかに見つめてくる。

 初対面の時以来だけれど、あの時からどうにもこうにも当たりが厳しい彼に、どうしたものかなぁと思いつつ、「はあ、すみません」と頭を下げると、ますます強く睨み付けられる。

 

「心にもない謝罪ならば結構。まったく、レディ・エスメラルダといい、あなたといい、どうして深赤は……」

「朱堂さん?」

 

 なんか普通にここで出してほしくない名前をさらりと出されたけれど、まあいい、レディ・エスメラルダはまあいいのだ、それよりも朱堂さんのことが気にかかった。

 いまだに朱堂さんは安静を要し、医務室で大人しくせざるをえない状況であるとは黒崎さんから聞かされている。お見舞いに行くのもなんとなく気が咎めてできなくて今日に至るのだけれど、この言いぶり、蒼樹山さんは彼の現状を知っているのかもしれない。

 お見舞いには行けずとも、他人から伝え聞くくらいなら許されるかも、と、ついその朱堂さんの名前を疑問形で口にすると、蒼樹山さんはそのクールに整った顔をツンと背けた。

 

「あなたに教えるべきことはありません。誰のせいで深赤がああなったと思っているんですか」

「……すみません」

 

 言われなくても解っている。私のせいだ。朱堂さんが勝手にやったこと、だなんて口が裂けても言えない。

 改めて申し訳なさが込み上げてきてうつむくと、何やら視線を感じた。ん? と顔を上げると、蒼樹山さんが、いかにも「言ってしまった」と言いたげな、後悔をにじませた顔でこちらを見つめていた。

 

「あ、あの」

「――――僕こそ、すみません」

「え」

「もともと一般人のあなたを責めるべきではありませんでした。むしろ無茶をした深赤を責めるべきですね。あなたを気に病ませたいわけではありません。大変失礼しました」

「いいいいいいいえ⁉ そんな、頭を上げてください!」

 

 いつぞやの私のように、直角90度で腰を折る蒼樹山さんに、慌てずにはいられない。

 なんて極端な人なのか。ああなるほど、でもこれで解った。蒼樹山さんは、朱堂さんがボロボロになったことが悲しかったのだ。だからこそ、その原因になった私のことが許せなかったのだろう。

 はー……朱堂さん、罪な男だな。レディ・エスメラルダに引っかかってる場合じゃないぞあんた。

 

「蒼樹山さんは、本当に朱堂さんのことが好きなんですね」

「なっ⁉ い、いや僕は、ただあいつの馬鹿さ加減が許せないだけで!」

「そうですね。朱堂さん、優しすぎますもんね」

 

 顔をカッと赤らめる蒼樹山さんの姿は、世間で騒がれるクールなブルーさんの姿からは想像もできないくらいに、なんかこう、そう、かわいいとすら言ってもいいもので、つい笑ってしまう。断じて馬鹿にしているわけではなく、微笑ましいなぁ、という気持ちゆえだ。

 そのままくすくす笑っていたら、ますます蒼樹山さんの顔は赤くなっていって、彼はそれをごまかすように、ずれた眼鏡をかけなおした。

 

「深赤は……まあ、そうですね。馬鹿みたいなお人好しだと思います。だから僕らは、いつも気が気じゃないんですよ」

「ああ、お疲れ様です。でも、いいですね」

「は? 何がいいんですか?」

「だって、そう言ってくれる仲間の方が朱堂さんにはいらっしゃるじゃないですか。蒼樹山さんみたいな方がいらっしゃるなら、大丈夫だと思いますよ」

 

 適当なことを言っている自覚はある。でも、いいなぁ、と、思わずにはいられなかった。

 仲間というだけではなく、きっと蒼樹山さんは、朱堂さんのよき友人でもあるのだろう。いいな、私、友達いたことないもんな。幼馴染にとんでもないのがいる分、友達には恵まれなかったからな。

 うんうん、とそうやって頷く私を、蒼樹山さんは、眼鏡の向こうの切れ長の瞳を見開いて見つめていた。その唇が、やがて、小さく震える。

 

「……その、あなたも、そうでしょう」

「はい?」

 

 何が? と首を傾げると、蒼樹山さんの整ったかんばせが、今までになく真っ赤になった。

 

「だ、だから、あなたも、これからは僕らの仲間でしょう! 他人事だと思わないでくださいね! 解りましたか、柳みどり子さん……い、いえ、み、みどり子!」

「あ、は、はい、胆に銘じます」

 

 有無を言わせてもらえない勢いで、ビシィッと人差し指を突き付けられ、反射的に姿勢を正して何度も頷く。

 私のその反応に対して、蒼樹山さんは顔を赤らめながら、満足げに頷きを返してくれる。なんかものすごくいらんフラグを立てた気がする。これあれじゃん、のちのち私が盛大に裏切りをやらかして蒼樹山さんを傷付けるやつじゃん。

 すみません、私、あくまでも本職はカオジュラなんです、とは言わんとこ。当たり前だけど言わんとこ。

 そしてなぜか蒼樹山さんはその後も、自分の訓練ではなく、私の鞭の練習に付き合ってくれた。まかり間違っても頼んでいないのだが、「一人でマネキンに向かうよりも効率的でしょう」と言い切られてしまっては反論できるわけもない。

 黒崎さんによる訓練とはまた違った意味でしごきにしごかれ、へろへろになった私は、休憩室があるフロアへとやっと移動することができた。

 休憩室、とだけ表すにはあまりにも設備が整ったフロアだ。普通に寝室があるのはもちろんのこと、キッチンダイニングもあって、冷蔵庫の中身はなんでも使ってヨシ食べてヨシという夢の空間である。

 トレーニングフロアに行く前に、家でレモンのはちみつ漬けを作って、それを持ってきてあるから、とりあえずあれでレモネードでも……と、ふらっふらとダイニングに入った、私の鼻をくすぐった、甘酸っぱい香り。

 

「あ」

「ん?」

 

 ダイニングの隣のリビングのソファーに陣取って、私のレモンのはちみつ漬けのタッパーを広げ、ド派手な黄色のスマホをいじっている金髪の美青年。ジャスティスオーダーイエロー担当、山吹黄一さんだ。

 私の視線に気付いた彼は、「もしかして」とほとんど空になっているタッパーを持ち上げた。

 

「これ、みどり子ちゃんのだった? わり、食っちゃった」

「……いえ、お口に合ったなら何よりです」

 

 ふざけんな食べ物の恨みは怖いと思えよ、とは思っても口には出さず、ははははは、と軽く笑って、カウンターの向こうの冷蔵庫へと向かい、無糖炭酸水を取り出す。

 これではちみつレモンを割るはずだったのだけれど仕方がない。すっかりからからになっていた喉を潤すために、一気にぐびっとあおる。キンキンに冷えた炭酸水はいっそ痛いくらいに刺激的だけれど、今はそれが心地よかった。

 ……いやはやそれにしても、本当に私は何をやっているのだろう。カオジュラの女幹部をやってる時点で既にアレだけれど、その上ジャスオダで、しかもカオジュラからのスパイでなんだって?

 情報量が多すぎてパンクしている。しかもスパイって言ってもスパイらしいこと何もせずにひたすら鞭の練習をしているだけであるところがまたどうかという話だ。おかげさまで鞭はめきめき上達している。これならレディ・エスメラルダの時にも困らないね☆とか言っている場合ではない。

 一気に飲み干した炭酸水のペットボトルを下ろして、はあ、と溜息を吐いた、その時だ。

 

「なー、みどり子ちゃん」

「ひゃい⁉」

 

 気付けば背後のカウンターに頬杖をついていた山吹さんからの呼び声に身体が跳ねた。私の過剰な反応がおもしろかったのか、けらけらと彼は「驚きすぎぃ」と笑う。

 軽薄にも見えるその笑顔は、親しみやすさが全面に出ていて、ただ他人に好意を植え付け、警戒心を奪うものだ。あれだ、藤さん……アキンド・アメティストゥとどこか通じるものがある笑顔だ。あれに慣れていると逆に警戒心が涌いてくる。まああれよりは山吹さんの笑顔はだいぶ人好きのする、繰り返すが親しみやすいものではあるけれども。

 

「ええと、山吹さん、なんでしょうか……?」

「みどり子ちゃんは、深赤のことどう思ってる?」

「へ?」

「だからさ、男として、どう?」

 

 その親しみやすい笑顔と口調とは裏腹に、なんとも底知れない光をその瞳に宿して問いかけてくる山吹さん。はあ、男として? 朱堂さんが男としてどうかと言われましても。

 

「ないですね」

「え」

「恋愛対象の男性として見た場合の話でしたら、朱堂さんはないです。論外です」

 

 なんでまたそんなことを聞くんですか? と問い返すよりも先に、本音が飛び出た。恥ずかしがっているからだとか遠慮しているからだとか、そういうわけでもなく、普通にないのである。繰り返そう、論外だ。

 私がそう即答したのが意外だったのか、山吹さんはきょとんと瞳を瞬かせてから、一泊置いて、思い切りげらげらと笑い出した。その笑いは収まるところを知らずどんどん大きくなり、最終的に腹を抱えた引き笑いにまで至っている。

 そろそろ呼吸すら危うくなってきたところでやっとその笑いを収めた彼は、涙がにじむまなじりをぬぐった。

 

「ははっ、は、は〰〰〰〰! いいなそれ! 論外って! 深赤に親切にされた女の子ってみんな勘違いすっからさ、みどり子ちゃんももしかしてって思ったけど、いや~~よかったよかった」

「……勘違い?」

「そ。こんなにも優しくしてもらえる自分は深赤の特別なんだって思っちゃうんだよ」

「ああ、なるほど。朱堂さん、その辺ぜんぜん解ってなさそうですもんね」

「そうそう! それはあいつのいいとこだけどさぁ、周りのオレらは心配でたまんねぇの。何度忠告しても聞かねぇし、そのくせ最近はレディ・エスメラルダに惚れたとか言い出したからもうどうしたもんかと。あいつ、ほんとどうにかしてほしい」

 

 けらけら笑いながら山吹さんは続けるけれど、最後の一言があまりにも重かった。それは心中お察し案件である。気の毒なことだ。

 朱堂さんは優しくて、優しすぎるから、それだけ他人のことを傷付けることもできる人間なのだろう。あと普通に迷惑をかけることもできてるんだな。いいな。迷惑をかけることが許されている、甘えることが許されているのだ、あの人は。彼の無自覚のその甘えを、山吹さんは許しているのだろう。

 

「山吹さんって」

「ん?」

「いい男ですね」

「……へ」

「甘えさせ上手の大人の男性はモテますよ。素敵な長所をお持ちですね」

「…………ど、うも」

 

 ジャスオダにはそれぞれに固定ファンがついているけれど、軽薄なイエローはいまいち、と言う人もいる。だが、同時に、「あたし達だけが知ってるイエローくんの魅力があるのよ‼」と声高々に宣言してはばからない一部の熱狂的すぎるファンも存在する。それはこういうところ、なのだろう。たぶんだけど。

 そりゃモテるだろうな、という気持ちを込めてそのまま言ったら、なぜか山吹さんはカチンコチンに凍り付いてしまったように固まった。

 なんだどうした。これくらいの褒め言葉、さぞかし慣れていらっしゃるだろうに。

 

「いつも『頼りない』とか『甘え上手』って言われるのに……」

「ギャップ萌えのポイント高そうですね」

「…………」

 

 今度こそ真っ赤になって固まる彼に頭を下げ、私は今日はもう色々と何もかも諦めて、帰路に就くことにしたのだった。

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