第17話 かつての夢とリンドウの花①

 花が好きでこの仕事をしているのか、それとも生きていくため、店を潰さないため、金を稼ぐためにこの仕事をしているのか、最近、時々わからなくなることがある。


「竜胆くーん。また残業?」

「ああ」

「体壊すよ」

「うっせ」


 冷たいうどんを啜りながら、塩崎竜胆はうどん屋いろり庵の店長蓮村に適当な返事をした。

 蓮村の太ましい腕が作り出すうどんは、コシがあって噛みごたえがある。麺は極太で塩気が強いので好みが分かれるところだが、この噛み締めるたびに小麦と塩気がダイレクトに伝わるうどんが塩崎は好きだった。

 卓が囲んでいる囲炉裏に今は火が入っていない。当然だ。

 爽やかな風が吹き抜ける五月の陽気は去ってしまい、もう六月も半ば。湿気が多く気温が高い、嫌な季節になっていた。花の扱いにも注意が必要となってくる。

 午後九時。いろり庵には一杯やりながらうどんを啜る仕事帰りの人間の姿が目立つ。いろり庵は午後十時までやっているので、竜胆は翌朝に仕入れがない日はこうして一度店を抜けていろり庵でうどんを食べ、また店に戻って事務仕事をしていた。他の客のようにビールを頼むことはできない。竜胆は冷たいうどんをつゆにつけ、勢いよく啜ってひたすら噛み締める。


「竜胆くーん、いつにも増して顔が怖いよ。もっとすみれちゃんみたいに愛想よくしなよぉ。またバイトに逃げられるよ」

「うっせーよ、これが素の顔だ」


 蓮村は竜胆に馴れ馴れしい。いや、商店街のほぼ全員が竜胆の保護者ヅラをして構ってくる。

 やれもっと愛想よくしろだの、働くのもほどほどにして休めだの、色々と口うるさい。


「竜胆くん、せっかくかっこいいのにさぁ。そんな顔ばっかりしてると台無しだよ。にこにこしてればお客ももっとたくさん来るのにさぁ」

「本当に余計なお節介」

「だってしょうがないよ、竜胆くんはこの商店街で育ったんだからさぁ。みんな親みたいな気持ちになるんだよ」

「なんで俺と五歳しか違わない蓮村さんが俺の親みたいな気持ちになるわけ?」

「そりゃあ、竜胆くんの性格がはたから見てるとすごく危ういからに決まってるジャーン」


 喋り方がなかなか独特な蓮村は、客が少ないのをいいことにそんな雑談を竜胆にしてくる。開店時間中にこんなにも無駄口を叩くなど、竜胆からすれば到底信じられない。客が他にもいるんだから、もっときびきび動くべきである。しかしこの商店街の人たちは、きびきびという言葉とは無縁だった。塩崎生花店の向かいの山本時計店の山本は接客の合間に自分用にコーヒーを淹れて飲み始めるし、その隣のカメラのヤスムラの安村は味見と称してケーキを一切れ平らげる。おまけに店で軽食を取るたびに「サービス」と言ってしょっちゅう新作ケーキの差し入れをくれる。

 そんなにもサービスしていたら利益が出なくなるだろう。採算なんて度外視した発言に、さしもの竜胆は閉口気味だ。そんな風に考えていたら、竜胆の前に頼んでもいない稲荷寿司が載った皿が差し出された。


「激務の竜胆くんに、俺からのサービス」

「…………」


 ここにも採算度外視のサービス精神旺盛な人間がいた。

 しかし昼を抜いて働き続けた竜胆にとって、この稲荷寿司の差し入れはありがたい。「どうも」とそっけなく礼を言ってから、箸でつかんで口に放り込む。油揚げには適度な甘しょっぱい味が染み込んでいてそれが噛むたび口の中にじゅわっと溢れた。酢飯には白胡麻が混ぜ込まれていて、プチプチとした食感と胡麻の香ばしさがお揚げにマッチしている。ビール飲みてえな、と思いながら水を一気に飲み干した。


「お袋さん、まだ戻ってこられないの?」

「事務仕事ならぼちぼち出来るって。重労働は無理そうだな」

「もう年だから、無理させられないねぇ。親父さんがいなくなってから相当頑張ってたもんねえ」


 蓮村は仕事する気がもはやないのか、完全に雑談モードに入っている。

 蓮村の言う通り、竜胆の母はものすごく頑張っていた。無理がたたって今の有様だ。


「竜胆くんに言わないで、ギリギリまで一人でお店回してたからねえ」

「……ゴッソウさん」


 竜胆は蓮村の永遠に続く雑談には付き合わず、ざるうどん七百五十円ピッタリを卓の上に置くと立ち上がり靴を履いた。レジ横にはつい昨日蓮村が塩崎生花店で購入した、入荷したてのヒマワリが小さな花瓶の中で咲いていた。蓮村はいつも、花を一輪だけ購入する。花にたいして興味がないくせに、義理を果たすかのように買っていく。蓮村は親との折り合いが悪く、昔、竜胆の家によく転がり込んでいたので、その時の恩返しのつもりなのかもしれない。だから五歳年上の蓮村は竜胆と幼馴染のような軽口を叩ける気安い関係だった。

 外からは雨の音が聞こえる。まだ雨は止んでいない。これで三日連続の雨模様だ。

 暖簾をくぐってビニール傘をさして外に出れば、商店街は昼間とは一転した顔ぶれとなる。

 惣菜屋あさひや山本時計店などは店を閉め、代わりに飲み屋や焼き鳥屋が開店して賑わっている。この街は都心に通いやすいため、まだ二十代で一人暮らしのビジネスマンやOLが多く住んでいる。もちろん、織本のような大学生も。商店街を抜けた先には、昔から住む住人の一戸建て住宅も、一人暮らし用のアパートも、家族用のマンションも雑多に建っていた。

 いろり庵から塩崎生花店までは歩いてたったの二分。その距離をビニール傘をさして歩き、竜胆は店の鍵を開けて中へと入る。この一年で通い慣れた道だった。

 店の中はしんとしている。間口の狭い店内に入り、バックヤードの電気をつけ、竜胆の肩幅くらいしかない事務机に座ってノートパソコンを開いた。


「…………」

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