第5話 広がる世界と小さなスミレ①
月曜日。朝起きて身支度を整え、教科書やノートが入ったバッグを持って家を出る。外階段を降りたところで、庭の手入れをしていた大家の奥さんに出会った。
「あら、これから大学?」
「はい」
「いいわねえ、キャンパスライフ」
すみれは会釈をしてから歩き出す。
道を歩いて商店街を通り、駅に行く道すがら、塩崎生花店の前をちらりと見た。
すでに店内に塩崎の姿があり、何やら作業をしているようだった。
昨日はあの後無事に家に帰れたようで何よりだ。足取りのおぼつかなさから、もしかしてどこかで事故にでも遭っていないだろうかと不安がよぎっていたのだが、特に何事もなかったらしい。
今は午前九時なので、開店に向けて準備しているのだろう。
商店街を抜けるとロータリーがあり、バスやタクシーが停まっている。すみれが昨日行き損ねたコンビニもあり、奥に駅があった。
駅の階段を上ってから改札を通って目当てのホームに行き、電車を待つ。家から大学までは二駅。だからきっと、この街にも同じ大学に通う学生が住んでいるのだと思う。けれどすみれは知らない。
来た電車に乗り込んで、窓の外を流れる景色を見ながら、先ほど大家の奥さんに言われた言葉を思い出す。
(……そんなにいいキャンパスライフは送れてないと思うけど)
心の中でため息をついた。
すみれは都内の大学の英文科に通っている。
地元の長野を出て、一人暮らしをして大学に通い出してからまだ一ヶ月と少し。
キャンパス内は新歓だなんだと賑やかで、周囲も段々と仲の良いグループなどができているのだが、すみれはそのどれにも馴染めていない。
英文科はクラスがあり、基礎的な授業はクラス単位で受けることになっている。
本日講義が行われる講義室に行けば、このひと月の間に顔見知りとなったクラスメイトたちがいるのだが。
(…………)
すみれはグループで固まっている人々には近づかず、一人空いている講義室の長机の隅っこに座った。
英文科は基本的に女子が多い。それも、華やかでお洒落な子が多かった。
すみれは気後れしてしまい、そういう子たちの間にどうしても入っていけない。まごまごしている間に仲の良い集団が形成され、弾き出されてしまった。
友達が欲しい、誰か気軽におしゃべりできるような子がいたらいいのに、と思うのだが、一歩が踏み出せない。
自分のことを意気地なしだと思う。大学生になったら変わろうと思っていたのに、結局高校時代から何も変わっていないのだ。
一際賑やかな声がして、七人ぐらいのグループが入ってきた。彼女たちはこの英文科の中でも、派手すぎず自然でいて垢抜けた雰囲気の女子たちだった。いつも楽しそうにしゃべったりお菓子の交換をしていたりと、まさに大学生活を満喫している感じがして羨ましい。
きっと一緒に課題に取り組んだり、レポートを書いたりしているんだろうな、と思うとすみれも仲間に入りたい気持ちになるのだが、もうここまで形成されている集団に入って行く勇気は出なかった。
やがてチャイムが鳴って、教授が入って来る。
すみれは一人で座った長机の上に、教科書やノートを広げた。
大学のいいところは、一人でいてもそんなにおかしくないところだ。
クラスがあると言っても高校時代までのように丸一日クラス単位で授業をするなんてことはない。必須科目以外は皆好きな講義を受けに行くため、常に誰かとべったり、というのはあり得ない。
自分が取っている講義時間以外は空きがあるため、一人で学食でご飯を食べている人だって結構いる。
だからすみれも、いつも一人で学食の隅っこで昼ご飯を食べていた。
日替わり定食を食べながら、そういえばこっちに来てから誰かとご飯を食べたのは、塩崎さんが初めてだったなと思う。
すみれは長野にいた時も友達があまり多くなかったし、誰かと遊びに行って何かを食べるとなると、何を話そうか緊張してしまいあまり楽しめなかったり美味しく感じなかったりしたのだが、昨日は空腹の限界すぎてそうしたことはなかった。
あんなに人に気兼ねなく外食できたのは初めてかもしれない。
しかも、初対面の人と食事をするだなんて、いままでのすみれからしたらあり得ない快挙だった。
結局すみれは、塩崎生花店でアルバイトをすることにした。
今日も講義が終わった後、十五時過ぎから十九時まで働きに行く。
塩崎生花店の営業時間は午前十時から午後十九時までらしい。昨日は母の日用のカーネーションを売り切ってしまったので早めに店を閉めたのだという。
昨日塩崎に言われた、「助かる」という言葉はすみれにとってとてもありがたいものだった。存在意義すら曖昧な自分が、誰かの役に立てるのだとしたら嬉しい。それに花に囲まれて働くというのはなかなか楽しそうだ。一人暮らしをしている以上何かとお金は必要になるし、アルバイトも探さないといけないと思っていたのだ、手間が省けて何よりである。
本日の講義が全て終わった後、キャンパスを後にして自宅の最寄り駅まで行く。そのまま塩崎生花店へと行けば、店頭でちょうど客を見送っている塩崎の姿が見えた。
「お疲れ様です」
「あぁ、もうそんな時間か」
塩崎は店の時計を見てから、すみれを店の奥へと促す。
「事務所兼倉庫兼休憩所になってるバックヤードに荷物置いて。はいこれ、エプロン」
言われるがまま荷物を隅っこにあったカゴの中に置くと、手渡された生成りのエプロンを装着し、持参していたメモをポケットに入れてペンを胸元に差し込む。
「織本さんは基本、レジ打ちと俺の補佐ね。花の水を変えたり葉を落としたり、売れた商品の補充、それから床の掃き掃除。まずは店にある花の種類と値段を覚えて」
それから塩崎は、店頭に出てどんどんと説明をしていく。
「店の前に並んでるのは売れ筋商品。昨日までは全部カーネーションだったけど、今日からは通常営業に戻るから。今の時期だと見ての通り、切花だとバラ、ライラック、シャクヤク、マーガレット、ガーベラ。苗ものだとネモフィラ、ナデシコ、ゼラニウム、カンパニュラ、キンギョソウ、マリーゴールド。スミレもある」
塩崎はそう言って、紫色の小さな花を咲かせた苗を持ち上げた。
「名前からして織本さんは春生まれだろ」
「はい。五月二十九日です」
そう言ってからすみれは、ポットの中で花を咲かせるスミレを見た。
「……私、あんまりスミレの花好きじゃなくって」
「なんで?」
「ありふれている上に、ちっぽけで目立たないじゃないですか。花言葉も『謙虚』とかで」
名は体を表すと言うが、すみれの性格が臆病になってしまったのは名前のせいなんじゃないかと時々考える。もっとたくましい名前にしてくれればよかったのに。
すると塩崎は、卑屈な発言をしたすみれに意外な言葉をかけてきた。
「俺はスミレの花好きだけど」
「え……」
すみれがスミレから目を上げると、塩崎はごく真面目な表情で言う。
「日本古来の花だから土にも天候にも馴染んで育てやすいし、多年草だから何年も楽しめるし。昔は山菜として食べられていたらしいよ。今もエディブルフラワーとして、料理の飾りなんかに使われている。品種も多くて、パンジーやビオラもスミレの一種なんだ」
塩崎は手にしていたスミレの苗を一つ、すみれに差し出した。
「バイト記念にあげる。育ててみたら愛着も湧くんじゃない?」
「はぁ……」
「春は日当たりのいい場所で、夏になったら日陰に移動。熱が伝わるからコンクリの上に直接置かないようにして。水やりは表土が乾いたらあげて。鉢もあげるからついてきて」
塩崎は店の裏に行き、すみれに鉢を手渡した。
「スミレは根が伸びるから深めの鉢がいい。土は普通の土でいいから、なんならここで植えて帰ったほうがいいな」
塩崎は喋りながらどんどん作業を進めて行った。バックヤードにある土を鉢の中に入れると、そこにポットからそうっとはずしたスミレを置き、間を埋めるように土を被せていく。
それからまた表に出ると、水をたっぷり与えてから、「売約済」の札を立てかけた。
「これでよし」
塩崎は満足そうだった。
「すみません、お花のアレンジメント作ってもらいたいんですけど」
「はい、いらっしゃいませ」
店頭にいる塩崎が声をかけられた。塩崎はもう、すみれに何か教えることなく、客の相手に移ってしまった。すみれはさっきからずっとスミレの育成方法についてメモを取っていたメモ帳を一枚めくると、塩崎の接客が終わるまでの間ひたすら店頭に置いてある花の札の内容を書き写した。
本日のアルバイトは、メモを取って、塩崎に言われるがままレジ対応をしたり商品の補充をしていたら終わった。
「お疲れ様、今日はもう帰っていいよ。また次は……いつ来られる?」
「えっと、水曜日の十五時からでしたら」
「わかった」
塩崎はそれだけ言うと仕事に戻ってしまったので、すみれは貰ったスミレの鉢植えを抱えて家に帰った。
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