第4話 きみとの出会いとカーネーション④


 暖簾をくぐった先、引き戸を開けるとふわっと香るお出汁の匂いが、丸一日何もたべていないすみれの食欲を否応なしに刺激する。


「やあ、竜胆くーん」

「よお」

「今日はもう仕事終わり? 随分早いじゃーん」

「いや、一旦食事休憩。食べたら戻って事務作業」

「竜胆くんは働き者だなぁ。って、そっちのお嬢ちゃんはどうしたんだ?」

「今日だけ雇った臨時バイトの織本さん」

「ってことは、まーたバイトに逃げられたんだ」


 うどん屋の店主は塩崎に気さくに話しかけ、眉尻を下げて困ったように笑っていた。その表情はさながら近所のお兄さんだ。三十代前半に見えるうどん屋の店主は太ましい腕で塩崎をバシバシ叩いている。塩崎はちょっとうっとおしそうに顔を顰めてから店の中にずんずん入って行った。

 お腹が空いて動けなくなったすみれを気遣った塩崎は、店を早めに閉店にして一緒にご飯に行こうと誘ってくれた。すみれは人と一緒に食事をすると緊張してしまいあまり味わえないため苦手なのだが、今日は空腹が限界すぎてそんなことを言っている余裕なんてなかった。

 塩崎は店を閉めると商店街をすみれの家とは逆方向に進んでいき、駅前に向かう途中で右に折れ、そしてすぐの場所にあった瓦屋根の古風な作りの店の前で止まった。看板に「いろり庵」と書かれているその店は、ウインドウに飾ってある食品サンプルを見る限りうどん屋らしい。とっくりを持ったたぬきの置物を横目に、慣れた様子で店の引き戸を開けた塩崎について店内に入ったのがつい先ほど。

 店内は表通りに面していないせいか、そこそこの広さがあった。

 語尾が独特に間伸びしている店主に出迎えられた店内で、靴を脱いで板張りの床に上がると、まず目につくのはおおきな囲炉裏だ。囲炉裏を囲うように座卓が設置されており、座布団が敷かれている。塩崎がそのうちの一つの座卓に座ったので、すみれも横に並んだ。店主が運んだ水を口にすると、本日初めての水分が体の中に染み渡る。からからにひからびた植物に水を与えた時のような、潤いが全身に満ちていくような、そんな気分になり、すみれは水を一気飲みした。


「随分喉乾いてたみたいだなぁ」


 お代わりの水をコップに注ぎながら店主が言う。


「竜胆くーん、ちゃんとバイトの子に休憩時間あげたの?」

「いや。忙しくてそんな暇なかった」

「ってことは昼ごはん抜きで、水分も取らせなかったのか!」

「言われてみればそうだった」


 塩崎は店主の呆れた声を聞き、バツの悪そうな顔ですみれを見た。


「ごめん」

「いえ、言い出さない私も悪かったんです」


 うどん家の店主はすみれに向き直ると、愛想のいい笑みを浮かべる。


「竜胆くん、花のこと以外なんも考えないような人だから気をつけて。今日は竜胆くんのおごりだし、店で一番高いうどん食べていくといいよ。天ぷらうどんの大盛り、どう? うちのは自慢の海老天にカボチャ天とナス天が載った大ボリュームだよ」


 天ぷらうどん、という言葉の響きにすみれのお腹が再びぎゅるると鳴きそうになる。ちらと塩崎を見れば、「好きなもん頼んでいいよ」と言われた。


「じゃあ、お言葉に甘えて……天ぷらうどんの温かいので」

「俺は力うどん大盛り」

「あいよーお!」


 元気のいい声と共に店主が店の奥に消えていく。中途半端な時間のせいか、客は他に誰もいなかった。しんとする店内で、塩崎の深々としたため息が響き、すみれは思わずビクッとした。


「ほんっと、ごめん……俺、そういうとこに気を回すのすげえ苦手で。だからバイトが定着しないんだよなぁ……」


 塩崎はあぐらをかいた膝の上に肘を乗せ、頭をグシャグシャとかきむしった。


「母の日一週間前にしてバイトに逃げられた時はさすがに参ったよ。けど、店を開けないわけにはいかないし。三日徹夜でなんとかやって来たけど、今日を一人で乗り切るのは無理だっただろうから、ほんとに織本さんには感謝してる」

「いえ、そんな。お役に立てたのなら、よかったです」

「お待たせ、力うどん大盛りと天ぷらうどんだよ」


 ちょうど店主がうどんを持って来た。目の前に置かれたうどんの丼からは、濃い醤油とかつおとこんぶの香りが立ち上り、それから揚げたての天ぷらの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

「いただきます」という声がハモる。割り箸をパキッと割ったすみれは、店自慢だという海老天からいただくことにする。

 まだ衣がつゆを吸っていないので、持っても崩れない。ぱくっと口にし、サクッとした衣に続いてプリップリの海老を噛みちぎる。

 この上なく美味しい海老天だった。

 海老天とはこんなにも美味しい食べ物だったのか。

 身はホクホク、衣はサクサク。つゆに浸された部分にほどよく味がついていて、その香り高いうどんつゆがまた美味しい。

 すみれはあっという間に海老天を平らげると、うどんに取り掛かった。

 太いうどんはどっしりとしていて、啜って噛み締めると弾力がある。小麦の味もさることながら、太めのうどんに濃いつゆが絡まって至高の味わいとなっていた。あっさりしているうどんもいいけれど、今はとにかく空腹だったので、すみれはこの食べ応えのあるうどんをありがたく食べ進めた。

 カボチャの天ぷらもナスの天ぷらも美味しい。

 しばし二人は何も喋らず、夢中でうどんを食べた。

 サクサク、ハフハフ、ずるるるーっという音だけが響き渡る。

 やがてすみれは、つゆを一滴たりとも残さずに飲み干すと、ようやく満足して丼を座卓へと戻した。


「よく食べるね。そんなに腹減ってた?」

「実は、朝ご飯を食べ損ねて……」

「……もしかして、朝っぱらから商店街歩いてたのって、朝飯買いに行くためだった?」


 すみれが頷くと、塩崎はまたしても顔を歪め、怒っているような表情になった。


「重ね重ね、悪いことした」

「大丈夫です。おかげさまでうどんが美味しかったので!」

「なんならもう一杯、食ってく?」

「それは、遠慮します」

「そう」


 うどんがからっぽになったので、すみれも塩崎も立ち上がった。

 会計を塩崎がしている最中、レジの横に小さな花瓶があることに気がついた。生けてあるのはおそらく、ガーベラだ。中心が黒っぽく、花びらは白いものだった。すみれが後ろに佇んでじっと花を見つめていると、塩崎があーっと声を上げる。


「ガーベラは水が汚れやすくなるから、もっと水少なくしてって言ったじゃん」

「そうだったっけ」

「そうだよ。花は繊細なんだから大事に扱わないとすぐに枯れるだろ」


 塩崎は花瓶を持ち上げると、指を当てる。


「水はここまで。今すぐ捨てて来て」

「はいはい」


 店主はトレーの上にお釣りを置いた後、花瓶を受け取り肩をすくめながら店の奥へと引っ込んでいった。


「これでいいかい、竜胆くーん」

「ん。毎日水は取り替えること」

「わかってますって」


 店主は花瓶を元の位置に戻してから、塩崎の肩越しにすみれを見た。


「こんなんだけど、根はいいやつだから。見捨てないでやってくれよ」


 すみれは「ごちそうさまでした」と言ってお辞儀をしてから塩崎の後について店を出た。


「じゃ、俺、店に戻るから」

「はい」


 そうは言ったものの、塩崎は道端で立ち尽くしてじっとすみれを見下ろしていた。無表情なので怒っているのかな、と不安な気持ちにさせられる。半ば睨むように見下ろされたまま「お先に失礼します」とも言い出せないすみれは、塩崎が何か言うまで待った。

 やがて塩崎は、非常に言いづらそうに口を開く。


「……あー、あのさ、織本さんがもしよければ、なんだけど。他にバイトとかしてなければさ、明日からも働いてくれないかな」


 思いもよらない提案に、すみれは「え」と言ってかたまった。それが嫌がられていると思われたのだろう、塩崎は早口になる。


「時給千円、一日四時間から。曜日は相談で、できれば土日は入ってもらいたい。もちろん、休憩もちゃんと取ってもらって構わないから。俺が休憩入れるの忘れてたら、どんどん言ってくれて構わないし。……それとももう、別のバイトとかしてる?」


 塩崎は最後に、眉尻を下げて自信なさそうに尋ねた。

 すみれは首を横に振る。

 すみれはこの春に大学入学のために上京して来たばかりで、バイトを探す余裕なんてとてもではないがなかった。今、講義がないときは暇だ。

 塩崎は本当に困っているのだろう。

 アルバイトが定着しないと言っていたし、今日もこれから戻って事務作業だと言っていた。

 正直すみれにとって、塩崎はあまり親しみやすいタイプとは言えない。

 穏やかそうな見た目とは裏腹にぶっきらぼうだし、今日のバイトだってかなり強引にやらされた。おまけに丸一日を通して働いたにも関わらず、休憩時間はゼロだった。

 ただ、と思う。

 今日一日、塩崎と一緒にいてみて、彼が悪い人ではないということはなんとなくわかった。花を扱う塩崎の手は丁寧だったし、花を大切に思っているのが伝わってきた。最後に来た親娘にも丁寧に対応していた。捨てるはずだったというカーネーションはすみれからすれば売り物同様状態が良く、綺麗にラッピングをすればほかのものと変わりはない。きっとあそこで他のどんな綺麗な花を勧めても女の子は納得しなかっただろうから、あの場での塩崎の行動は最適だったに違いない。

 うどん屋の店主も塩崎と親しそうに話していたし、ただ仕事に夢中になるあまりに他が疎かになってしまうだけに違いない。

 それに。

 花を買いに来る人たちの顔を見ていたら、すみれもなんだか嬉しい気持ちになった。

 すみれもラッピングを手伝った母の日用のカーネーションを大切そうに抱えて帰る人々の表情は、皆笑顔だった。帰って手渡された母親もきっと喜び笑うのだろう。

 一輪の花で人を笑顔にできるなら、こんなに素晴らしい仕事は他にないのではないだろうか。

 だからすみれは、塩崎を見上げ、言った。


「バイトはまだ、してません。だから、明日からも……よろしくお願いします」

「本当に? 助かる」


 本日何度目かわからない「助かる」という言葉を口にした塩崎の表情は若干和らいでいて、安堵したのがすみれにも伝わって来た。

 直後、塩崎の体がぐらりと傾ぐ。たたらを踏んだ塩崎は、電柱につかまってなんとか体を支えた。


「だ、大丈夫ですか!?」

「……大丈夫。三日寝てねーから、ちょっと足腰にきただけ」

「もう帰って寝た方がいいんじゃ……!」

「でもまだ、店の仕事残ってるし……レジ締めて、売り上げ集計しないと……」

「満身創痍っぽいですけど……」

「んあ。あれ? 織本さん、分身した? 三人に見えんだけど」

「幻覚です! 頭ぼーっとしてるじゃないですか!? とりあえず帰って寝て、明日の朝にやりましょうよ!」


 塩崎は電柱にもたれたまま力なく首を横に振った。


「月曜の朝は花の仕入れにいかないとならんから、んなことしてる暇はない。今日やらねえと」

「……! じ、じゃあ、私も手伝います。パソコンに入力する作業くらいなら、手伝えるので!」

「あ、ほんと? それは助かるわ」


 力なく言う塩崎。さっきまでのぶっきらぼうな様子とは違い、疲れ果て眉尻が下がった様子は年齢が五つほど幼く見える。とてもではないがすみれより年上の男の人とは思えない。

 ふらつく塩崎がものにぶつからないよう気をつけつつ、なんとか店に戻って事務作業の手伝いをした。

「目が霞む……」と言いながらも根性で仕事を終わらせた塩崎は、「じゃあ、ほんとにありがとう」とぼんやりしながら言い、店の戸締りだけはきちんとした後、おぼつかない足取りですみれの家とは違う方向に向けて消えていった。


「……大丈夫かなぁ、塩崎さん……」


 交通事故にでも遭うのではないかと心配しながら塩崎を見送ったすみれも家路に着く。

 奇妙な出会いから始まった、すみれのアルバイト生活がこうして幕を開けた。

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