第5話

 「小学校、まあそのころは国民学校といったんだが、そのころにね」

 惣吉郎そうきちろうさんは一升瓶から自分のグラスに梅酒を注ぐ。

 互いに手酌というのがいまのルールなので、僕も黙って見ている。

 「好きな子、というほどじゃないが、気になってる子がいた」

 つまり、女の子だろう。

 「歳上でね、女学校に通っていたのかな。そのころ、浜見はまみちょうのところに天主堂というのがあってね。いまは蒲沢かんざわの大通りのほうに移転して、カトリックなんとか教会とかいう、小さい教会になってるらしいが」

 浜見町と言われてもわからない。いまはたぶん存在しない地名だ。

 「そのころは、いまと違って、男の子が気やすく女の子に声をかけられる雰囲気じゃなかった」

 いまでも気やすくかけられるかどうかわからない。

 でも、そのころは、もっと根本のところから違ったのだろう。

 「朝、学校に通うときにときどき会った。いつも着ていたのが地味な服なんだけど、なんとなくかっこよくてねぇ。女学校の制服だったのかな。何時何分に家を出ればその子に会えるか、いろいろ計算して学校に行っていたんだが、会えるのも会えないのもそのとき次第だったな」

 「はあ」

 こういう青春の思い出話は黙って聞いておくしかない。

 「そのころには、もう戦争が始まっていたんだと思うが」

 惣吉郎さんは短くことばを切ってから、続けた。

 「それから二年ほど経つと本土空襲というのが始まって、蒲沢には総工そうこうがあるものだから、何度もやられた」

 そういえば、実葉みはが、いつかの一時帰国のときに言っていた。

 「蒲沢総工って凄いね。国際線で帰ってきて、成田とか羽田に下りる前にこの上を飛ぶことがあるんだけど、窓側の席に座ってたら、総工の細長い建物の屋根ってはっきり見分けられて、ああ、ここ蒲沢だな、ってわかるもん。ああ、帰って来たな、って」

 その細長い建物というのも、地上で見れば巨大な横長の工場棟だ。その建物そのものは建て替えられたかも知れないが、敷地は同じだ。戦前のほうが広かったかも知れない。

 いまの飛行機からそんなに見えるのだったら、戦争中の爆撃機からでもやっぱりよく見えた。

 爆撃するにはいいターゲットだっただろう。

 惣吉郎さんが言う。

 「でも、このあたりは、街の中心から離れてるからか、あんまり空襲の被害がなかった。何か標的をまちがったのか、蒲沢総工もそれほど大きくやられることはなくてね。空襲のあとの片づけとかにはときどき駆り出されたものだが、総工もずっと操業を続けてた。僕も大きくなって、その子が気になることもだんだん少なくなった。それで」

と惣吉郎さんはことばを切った。

 「あの夏の日が来た」

 僕は蒲沢の出身ではないが、高校の教師という仕事上、この話の次に何が来るかはわかる。

 蒲沢艦砲かんぽう射撃。

 夏になると、蒲沢の公立学校では必ずこの話をする。

 「空から爆弾を落としたんじゃ効果がないっていうんで、沖にフネを並べて、めるように大砲の弾を撃ち込んだ。なんせ動かない標的に大砲を撃つんだから百発百中、まあ標的に正確に当たったかどうかは知らんが、どこかしらには弾は確実に落ちる。こっちには、いまの、その檜谷ひやさんの動物園あたりに高射砲ってのがあったけど、撃つ音が、どん、どんとうるさいばっかりで、届きもしない。ここは山沿いだから撃たれもしなかったが、そのうち、この下の街は火の海になってな」

 「はい」

 だいたいその高校の平和学習できいた話だ。

 徹底的に砲弾を撃ち込まれ、南のほうの宮戸みやと港から北の氷野ひのざきまで、平野部は壊滅したという。

 「その射撃の激しいあいだは防空ぼうくうごうにこもってたから詳しいことはわからんが、出て来てみたら街は焼け野原になっとった。で、その艦隊が去ったというんで、例によって街の片づけに出たんだ」

 そのときの写真もその平和教育のプレゼンで何度も見た。

 そのころから蒲沢には鉄筋の建物がいくつもあったから、そういう建物は破壊されながらも残っているが、木造の家が建っていたらしいところはほとんどが燃えてしまい、ほんとうに瓦礫がれきの山になっていた。

 「街が灰になっとるからどこがどこかわからん。でも、あの天主堂は石造りの建物で、崩れはしていたが残ってたから、そこを目標に歩いた。それで、天主堂の前に着いてみると、女が一人、天主堂の前の階段に腰掛けて、ぼうぜんとしてるじゃないか。髪はざんばら髪、着物は左の肩をはだけて、白い胸のところまでむき出しで、いくらこんな時局で暑い時期でもそんな格好をするもんじゃないじゃないか。あんまりにも異様な姿だったもんだから、駆け寄って声をかけたら」

 惣吉郎さんは目を伏せた。

 「それが、あの歳上の子だった」

 そう言って、グラスから一気に梅酒をあおる。

 黙って、手酌で梅酒を注ぐ。

 もし、もっと強い酒があったなら、惣吉郎さんはそちらのほうを選んだだろうか。

 「左の耳のところから頬の下半分、すっかり焼け焦げて、むざんな様子だったが、色の白さ、目もとの涼やかなところ、二重まぶた、はっきりと通った鼻筋と、あの子以外の何ものでもなかった」

 惣吉郎さんは、また大きく息をついた。

 「とりあえず、そのはだけてしまっていた着物を着せようと背中に手を回して、びっくりしたよ。あれがナパームってやつなのかなあ。背中に粘っこい油がくっついて、着物が貼りついて、着物ごと背中が焼けただれてるんだ。その着物を脱ごうとして左肩だけ脱いだところで、力が尽きたんだろう」

 惣吉郎さんは、梅酒のグラスを口に持って行こうとしたが、思い直したのか、それをテーブルに置く。

 「立てるか、と言って、その火傷やけどのところを避けて手を回して。ふん」

 なぜか惣吉郎さんはそこで小さく笑った。

 あざけるように。

 「女の尻なんか触ったのは、それが最初で最後だ」

 「はい」

 そのときは気がつかなかったけど、あとから考えると、それは、妻だった政子まさこさんのお尻にもさわったことがない、ということだ。

 お行儀のいい夫婦だったのか。

 それとも……?

 「でも、あの子は、自分の力で立ち上がったよ。目は最初から開いてたが、ずっとうつろな感じだったのが、そのときははっきりと黒目で僕を見た。ぼくは手を放して、階段の少し下の段からあの子を見上げてた。僕が自分を見ているのを確かめてから、あの子は、少しだけ胸をはって、歌うように言ったんだけどな」

 それで、ふと、惣吉郎さんの目が僕に向く。

 しかも、その頬の筋肉の動きが、「思い出しモード」ではない。

 はっきりと僕を見ている。

 僕はとまどう。

 いまの話に対して、僕が何かしただろうか?

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