第4話

 そのあと、二人とも二合瓶を二本ほど空にした。

 惣吉郎そうきちろうさんの心づくしの料理も半分ほどなくなったところで、惣吉郎さんがいたずらっぽく

「次は梅酒を飲んでみるかい? 檜谷ひやさんのところからいい梅酒をもらったんだ」

と言った。

 「もっとも、梅酒なんか女子供の飲む酒だ、と言うなら別だが?」

と惣吉郎さんがさらにいたずらっぽく続けるので、

「いや。女はともかく、子供は酒を飲んではいかんでしょう?」

と混ぜっ返すと、惣吉郎さんは「ははは」と笑って立ち上がって一升瓶を持ってきた。

 一升瓶には清酒のラベルが貼ってあった。清酒のラベルの瓶で梅酒を出荷することはないだろうから、その檜谷さんという人が自分で梅を漬けて作った梅酒なのだろう。それを清酒の一升瓶に入れて分けてくれたのだ。

 二人で、切り子細工の小さなグラスで飲み始める。

 「たしかに、これはいいですね」

と僕は言う。梅酒の味をどこで評すればいいのかはよくわからないけれど

「雑味がなくて、まろやかで、おいしい」

と言うと、惣吉郎さんはまた目を細くして笑って

「それはよかった。檜谷さんにも伝えておくよ」

と答えた。

 「檜谷さんってご近所の方で?」

と僕が訊くと、惣吉郎さんは

「この二つ下に住んどるよ」

と言う。

 この家はかなり急な坂道の上のほうに建っている。その坂道を下って二軒隣、ということだろう。

 「お嬢さんがいて、フルートを吹いとる。たしか、君の下の娘とおんなじ学校じゃなかったかな」

 だとすると、瑞城ずいじょう女子高校というところなのだが。

 僕が言う。

 「ももは、いや、下の娘ですが」

 その政子さんが亡くなったときにまだ外国にいた実葉と違って、桃はそのお葬式に来て、惣吉郎さんとも会っている。

 だから、惣吉郎さんも桃がどんな子はイメージできるはずだ。

 「下級生を引き連れて歌を歌ったり踊ったりはしてますけど、実葉みはとは違って、楽器はぜんぜんできないんで」

 たぶん、その檜谷さんのお嬢さんとは接点がない。

 惣吉郎さんはその話は続けず、

「そこの動物園の社長さんのご一家だ」

と、自分の背中の後ろのほうを指さして言う。

 方角的にそちらで正しいのかどうかはわからないけど、たぶん鹿山しかやま動物園という動物園だろう。

 「へえ」

 僕はすなおに感心してみせる。

 「ここは、何っていうか、ステータスの高い人たちが住む高級住宅街だったんですね」

 惣吉郎さんは笑った。

 「それは、皮肉か?」

 何が皮肉なのだろう?

 わからないので、とまどう。

 正直に言う。

 「いや、そんなつもりはまったくないですが。惣吉郎さんだって、蒲沢かんざわ総工そうこうで専務まで務められた方ですし」

 蒲沢総工というと、この蒲沢の街を企業城下町として発展させた大企業だ。ウィーンに行って両親との関係を改善した実葉が

「この街でもカンザワって言うとたいていの人が知ってるよ!」

とメッセージに書いて送ってきたぐらいに世界にも名を知られている。

 「いやあ」

 その惣吉郎さんは大きく息をついた。

 たぶん、ため息だろう。

 「つまり、ここはもともと蒲沢総工の社宅でね。もちろん幹部用の社宅だったけど、僕の父は造船所の木工部の部長でね。ま、総工傘下さんかの分社の部長。そのクラスで入居するような家だった」

 総工傘下の分社で部長というのもたいしたものだ。

 でも、言わなかった。

 惣吉郎さんのさっきのため息が気になったから。

 惣吉郎さんは、唇を結び、グラスを手に持ったまま、視線を下に下げている。

 「だから、もちろん補修はしてるが築八十年、軍縮条約が明けて軍需で儲かりそうだってときに総工が造った社宅で、そのころから住み続けてるのはもう僕一人だ。檜谷さんも戦後になってあの家を買ったひとだからね」

 「はい」

 そういう昔のことは、正直に言うと、僕にはよくわからない。

 惣吉郎さんは続ける。

 「こうやって海の見晴らしがいいから、っていうのが、ここに幹部用の社宅を作った理由だったんだが」

 「はい」

 ぼくはそのことばにつられて海のほうに目をやりそうになる。

 すぐにその動きを止めた。

 言った惣吉郎さんが海のほうに目をやろうとしなかったから。

 「しばらく、ここから海を見るのがうとましかった。いや、怖かったことがある」

 その押しつぶしたような重苦しい声のあと、惣吉郎さんは小さく息をついた。

 「今朝、ひさしぶりに夢に見たんだ」

 あきらめたような、明るい言いかただった。

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