職業欄のプライド

青樹空良

職業欄のプライド

「ええと、少し待って、あ、お待ちください」


 目の前のまだ若い店員が慌てた様子で、わかる人間に聞きに行ったようだ。

 言葉遣いがなっていない。少しカチンときたが、こんなところで怒鳴っても面白くないので黙っている。

 あまりに不慣れな様子なので、彼はこの春から入社したばかりの新入社員なのだろう。見ていて初々しい。


「お待たせしました。こちらの書類ですね。書くもの、書くもの。こちらをお使いください」


 さっと、出されたのはなんだかよくわからないマスコットの付いたボールペンだ。俺が若い頃なら、こんなものを使っていたら仕事なんだからもっとしっかりしたものを使えと上司に怒られていた。

 今はこういうところが緩くなってきているのだろうか。

 苦笑しながら、俺は書類に必要事項を書いていく。

 俺だったら、もっとしっかりと後輩を教育してやる。こう見えても、誰もが知る大企業で本部長まで上り詰めた男だ。

 そして、俺は手を止めた。

 これは、何を書くべきか。

 悩んでいると、


「お父さん。そこは『無職』でしょ」


 隣にいた妻が言った。


「む」


 思わず一瞬唸ってしまう。


「定年退職したんだから少しでも節約しようって、格安スマホに変えようって言ったのもお父さんでしょう?」

「う、うむ。そうだったな」


 だからといって、これまでバリバリやってきた俺が急に職業欄に無職と書かされるのは屈辱だ。


「……」


 手が無職と書くことを拒絶する。昨日までなら会社員と書けたのに。が、嘘を書くわけにもいかない。

 俺はしぶしぶ職業欄に無職と書き込んだ。


「ありがとうございます!」


 書類を渡すと、若い店員はキラキラと輝くような笑顔でぺこりと頭を下げた。眩しい。

 俺にもこんな頃があっただろうか。あったはずだ。

 契約を終えて、俺は妻と一緒に店を出た。


「もっといい書き方はないんだろうか? 無職じゃあんまりだろう。定年退職者。……それも変だな」


 さっきのことが気に掛かって頭をひねってしまう。


「気にしてたの?」

「当たり前だろう」


 俺はムスッとして言った。


「いいじゃない」


 俺の気持ちなんか全くわかっていないのか、妻が笑う。


「だって、これまで毎日お仕事大変だーって言ってたでしょう? 定年して毎日が日曜日の人が羨ましいって。やっと退職できたのに嬉しくないの?」


 そういえば、そんなことも言っていたかもしれない。実際に自分に降りかかると、なんだか不思議な感じだ。


「今まで一生懸命働いてきて手に入れた無職でしょう。別に無職って書いたからって、あなたがやってきたことが無くなるわけでもないでしょ。もっと誇ればいいじゃない」


 妻がにっこりと笑う。


「……そうだな」


 俺もつられて笑う。

 そして、決意した。次に無職と書くことがあったら、今度は堂々と書いてやろうと。

 まあ、もう少しいい言い方があれば、と考えてはしまうのだが。

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