1-4 100階からの脱出1

「ってことがあったんだけどね」


 スーザンの目を盗んで100階に来たタオルに、香菜は先日の出来事をだらだらと話していた。


「ふーん。つまり、カナがおねしょをして、『アキュアス』って言ったら水が出たってこと?」


「違うってば。おねしょじゃないの。夢の中に女の人が出てきて、それはたぶん私なんだけど、その人が魔法を唱えたら私の体から水が出て濡れちゃったってわけ」


「ふーん」


「信じてないでしょ!」


 タオルはけらけら笑って、それから少し真面目そうな声色になった。


「たぶんそれは水生成の魔法だと思う。それが本当なら、カナに頼みたいことがあるんだけど」


「頼みたいこと?」


「うん。95階にいるおじさんのことなんだけどさ」


 タオルが言うには、95階の一室に瀕死の男性が住んでいるらしい。痩せこけて青白くなった男性は、うわごとのように「水がほしい、水がほしい」とつぶやいているとか。


「おいらが生成する水をあげると少しだけ会話ができるんだけど、それでもおいらの魔力じゃちょっとしか生成できないから、全然足りないみたいでさ。あのおじさんももう長くないだろうし、死ぬ前にたくさん水を飲ませてやりたいんだよ。カナの力があれば、なんとかできるんじゃないかなって思ってさ」


「うーん、普通に水やスープはあげられないの?」


 香菜が尋ねると、タオルは難しい声を出した。


「ダメだね。この高層階じゃ、水はものすごく貴重なんだ。だいたい『下の連中』にとられちゃうからさ。カナの飯にだって、水はあんまり入ってないだろ」


 確かにそうだ。

 香菜はなんだか、その男性が気の毒になってきた。


「わかったわ。なんとかしてみる」


「でも、カナはその部屋を出られないし、運よく出られたとしてもスーザンに見つかったら怒られちまう。やっぱりいいよ、あのおじさんはあそこで野垂れ死んどけばいいだけだしさ」


「そういうわけにはいかないわ。約束する、明日の深夜12時に、95階で会いましょう」


 タオルは「わかった」と短く答えて、忍び足で階段を下りて行った。


 香菜は部屋を見回した。

 なにも勝算なしに約束したわけではない。1週間ほどこの狭い部屋で過ごしてみて、分かったことがある。


 スーザンが100階に来るのは、朝昼晩の3回。香菜が食事を食べ終わった頃にやってくる。他にも、香菜がスカートの裾を踏んづけて転んですごい物音を立てたときに一度来ただけで、それ以外は来たことがない。


 つまり、スーザンがいない間に抜け出して、再びスーザンが来る前に戻ってくればいいということだ。

 スーザンがいない時間で、一番長いのは夜。深夜、スーザンが眠っている間に抜け出すのが一番いいだろう。


 この100階の部屋の扉は、鍵でかたく閉ざされている。鍵穴はあるが、タオルによればスーザンが鍵を持ち歩いているのは見た事がなく、どうやって開けているのかは不明らしい。


 スーザンの部屋は90階にあるという。タオルも92階より下には言ってはいけないといわれているので、90階がどうなっているのかはよく知らない。

 が、香菜が毎日聞き耳を立てている限りでは、あまりスーザンの足音は聞こえないので、普段は90階のあたりにいるのだろう。


 スーザンは、入り口の鍵に全幅の信頼を置いているようだ。ドアから出るのは現実的ではない。


 窓には木の格子がはめられていて、少し触ったくらいでは取れなさそうだ。何より、窓に近づけば外が見えるので、香菜が過呼吸を起こしてしまう。


 となると、残るは壁と床だ。

 石造りの壁はがっちり固められているが、うまく外すことができれば出られるかもしれない。


 香菜は壁の手の届く位置にある岩を一つ一つ触って確かめて行った。大きな岩どうしがしっかりと噛み合っていて、外れそうにない。


「うーん」


 最悪窓を外して、そこから壁伝いに……いや、さすがにそれは無理だ。


 壁をじっくり検分していると、香菜はとあることに気づいた。


「あれ? 何かある」


 岩と岩の隙間に、緑色に光るものがある。

 よく見れば、壁の岩の隙間に一定間隔で光っている。


 香菜は暖炉のそばにあった火かき棒を手にして、壁をつついてみた。

 

 火かき棒の太さでは、隙間に入りきらずに緑の光に触れることができない。


 だが、何かあることはわかった。次は床だ。

 這いつくばって床を観察すると、床の岩の隙間にも緑に光る何かがあった。テーブルの下、入り口の近く、中央と床を調べていって、ベッドの下を覗き込んだ時に、ふとした違和感を香菜は感じた。


「あれ、ここだけ何か変」


 ベッドの下の岩の周りだけ、赤茶色の何か……血のようなものがこびりついていた。


 ベッドを動かして、ほこりをはらうと、確かにその岩を削ったような形跡がある。


「もしかして、前にここにいた誰かが手で削ったのかな?」


 考えるだけで痛々しいが、ベッドの下にあることも考えれば、こっそり削ろうとしたと考えるのが自然だろう。

 よく見れば、その岩の周りを囲むようにして、緑色の何かが光っていた。


 香菜は火かき棒を岩の切れ目に押し当てて、心の中で強く念じた。


(お願い、動いて!)


「【アキュアス】」


 水が岩と岩の間に注ぎ込まれ、噴水のように噴き出した。


「【アキュアス】【アキュアス】【アキュアス】!」


 ガコッ。

 岩が、動いた。

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