短編:心臓を捧げよ

のいげる

心臓を捧げよ

 この壮大なる帝都テノチティトランの大神殿の中に続く廊下にまったく人気が無いのは不思議な光景だった。

 ここはいつも煌びやかな衣装を着た人々で溢れていた。

 金の彩りの服を着た王族や貴族、紫の装いの神官たち、それらに付き従う黄色の服の召使たち。それらを見る度に俺は目を回したものだ。

 途中通って来たウラマの大競技場もそうだ。いつも上半身裸の選手が屯していたし、トレーナーもぶらついていた。頭に羽飾りをつけた競技場の管理者たちも忙しく立ち働いていた。それが日常だった。

 それも今は無人だ。

 コケの生えた大きな石の怪物の彫刻だけが入口を守っている。番兵も逃げ出したのか。


 帝都そのものに一人も人がいない。神の怒りを恐れて、皆逃げ出してしまったのだ。このアステカの聖地から。

 無理もない。俺は空を見上げてそこに居る存在を見つめた。これを見て逃げない奴はいない。世界の終わりが近づいている。


 そしてそれはすべて俺のせいだ。



 俺がウラマ競技の選手になったのは、別に太陽神トナティウに心臓を捧げたかったからではない。他の選手は違うのかもしれないが、少なくとも俺はそうではない。

 ウラマの選手になれば家族も含めて旨い飯ときちんとした住居、そして周囲からの尊敬が得られる。それが目的だ。

 最終競技に勝てば選手には太陽神に心臓を捧げてその若返りを助けるという栄誉が与えられる。家族にも十分な褒美が出る。

 俺はそこまではいらない。その前の旨い飯と立派な住居までで満足だった。


 決勝戦まで進んだのはその方が待遇が良くなるからだ。

 相手チームは最強の呼び名が高いウルシュマたちだ。間違っても俺たちのチームが勝てるわけがない。

 俺は安心していた。そのときの俺は大変に愚かだった。



 暗い廊下はどこまでも続く。

 明り取りの窓は廊下の上にところどころ空いているが、そこから差し込む光も薄暗いので目を凝らして歩かないといけない。今や俺の命は俺だけのものではない。大事にせねば。

 ここで俺が死ねばすべてが終わってしまう。


 この場所より先は本来は神官とその護衛しか入れない場所だ。突き当りは生贄の間であり、一年に一回だけ使われる場所だ。その部屋の中でウラマ競技の優勝者たちは胸を切り開かれて心臓を取り出され、そしてその蠢く血まみれの心臓で衰えた太陽神の力を補うのだ。


 やはりここにも誰もいない。

 世界の終わりを知り、みな密林に逃げ込んでいるのだ。その避難所たる密林はいまや半分枯れかけているのだが。



 ラウルが投げたボールが得点の壁を外れて跳ねた。重いゴムのボールを俺は掴み、相手の妨害をすり抜けた。これは決勝戦だ。勝つつもりは無いが、やる気の無い所を見せたら二度と選手として選んで貰えなくなる。

 ボールを壁にぶつければ得点となる。だがこれだけ大差がつけば今更それでは試合の流れは変わらない。勝利は向こうのチームのものだ。

 俺はボールを栄光の輪に向けて投げた。

 栄光の輪は石でできた輪で、ちょうどボールがぴったりと嵌る大きさの穴が開いている。これにボールが入ればそれまでの得点に関わりなく投げ込んだチームの勝ちとなる。

 もちろんそんな大番狂わせのルールがあるのは、まず栄光の輪にボールが入ることはないという理由がある。輪の大きさはボールが入るギリギリだし、高い位置にある輪にこの赤ん坊二人分ある重さのボールを投げ込むだけでも大仕事だからだ。

 ましてやそれの正面から投げたので、輪の縁にぶつかり穴に入ることはないと分かっていた。

 この投擲は劣勢の勝負での一か八かの賭け・・に見えるはずだった。


 悪魔がほほ笑む瞬間。


 ボールは輪を外れ、背後の壁に当たり、驚くべき角度で撥ね返った。

 歪な球形に固めたゴムのボールだ。競技場の壁もデコボコなのでときどき驚くべき撥ね方をすることがある。そのときがそうだった。撥ねたボールは栄光の輪の縁に当たり、しばらくそこで震えた後に、穴を潜り抜けた。

 絶望の余りに俺はその場に崩れ落ちた。歓喜のあまりに全身の力が抜けたのだと観客は思っただろう。

 俺は周囲で沸き上がる大歓声を聞きながらたったいま確定した死の予告に震えた。



 大神殿最奥の生贄の間が近づく。そこは開けた広間で太陽神に直接向き合えるように天井は存在していない。

 その場所は今は薄暗い明かりに照らされている。そしてそこには、この都市に入ってから初めてみる人影が中央に立っていた。

 生贄の祭祀を司る大神官長だ。



 さんざん飲み食いしたせいか俺たちのチームのメンバーはみんな祝勝会の広間に転がって眠っていた。娼婦館から呼ばれた女たちもそれぞれ選手に抱きついて寝ている。

 明日、俺たちは心臓をえぐり出され、太陽神トナティウにそれを捧げることになる。

 この素晴らしい生贄の栄誉を拒む者などいない。

 だから見張りまでも一緒に祭りの酒を飲んで酔いつぶれていた。


 俺は神殿を抜け出し、まだ興奮冷めやらぬ不夜城と化した帝都の人込みの中へと潜り込んだ。仮装して祭りに浮かれる民衆の中をひっそりと歩く俺は、派手な仮面の下に隠れて誰にも気づかれなかった。

 俺がいないことがバレて、帝都中に追手が掛かる前にからくも脱出できた。

 密林の中の隠された洞窟に潜み、コウモリを食べて生き延びた。

 密林は広大だ。俺が隠れている叢を奴らは覗こうともしなかった。

 人間の心臓を捧げないと老いた太陽はそのまま死ぬと神官たちは宣言していた。彼らが間違っていることを人々が知り、このバカげた風習が終わるまで後どのぐらいかかるだろう。

 そうなれば俺はまた町で暮らすことができるだろう。


 やがて一カ月が経った・・ように思う。雨季で分厚い雲が垂れこめ、月の巡りが見えなかったので、そのぐらいしか検討がつかなかったのだ。

 密林をかき分けて俺を探す人々も徐々に減り、やがて誰も来なくなった。

 それからようやく唐突に雨季が終わり、雲が消え、空が晴れて星空が見えた。

 俺は洞窟を出て小高い丘の上に登った。もう誰かに見つかっても大丈夫だ。今日を境に神官たちが広めた迷信は終わる。そして俺は自由になる。

 俺はそこで夜明けを待った。


 朝が来て太陽の最初の曙光が広がると、俺は絶望の悲鳴を上げた。



「戻って来たか。パドラリ」

 俺の姿を見ると大神官長は言った。この無人の広間でずっと俺が帰るのを一人で待っていたのだ。

「大神官様。俺が間違っていました。疑っていたのです」

 俺はその場に跪いた。

「まだ間に合うでしょうか?」

「当面は」

 そう言いながら大神官は上を見上げた。そこにはうす暗い青空を背景にして淡い赤色に染まった死にかけの大きな太陽が浮かんでいる。その輝きは冷たく、周囲の空気を温めるどころか逆に冷やしているように思える。

 弱った光の下で密林も半分が枯れかけている。生き残っている木々もやがては枯れ果てるだろう。その後はあらゆる生物が死に絶える。


「三人の心臓と熱い血のお陰で、太陽神は危うく死なずに済んでいる。だがそれだけだ。蘇りの儀式は完成していない。だが、最後の一人であるお前の心臓と血があれば太陽神は再び若さを取り戻すであろう」

 大神官は説明した。俺は承諾の意味を込めて頭を下げた。それから大神官の指さす通りに生贄台へと登り、渡された盃の中の聖なる水を飲み干した。

 胸を切り開かれ心臓が抜かれる間の痛みを消すためのものだ。そして同時に太陽神に俺の生命を受け入れてもらえるようにするためのものだ。

「お前の犠牲で太陽は若返るだろう。パドラリ」

 儀式に使う色々な刃物の準備をしながら大神官長は続けた。

「だが我が帝国は終わる。一度この儀式をしくじりかけたのだから、我らから儀式をする権利は奪われる。そして我が帝国に与えられていた太陽神トナティウの恩寵も消える。やがて我らの下に闇の王テトカポリトスが訪れ、すべての民を終焉へと導くだろう」

 大神官長は聖なるナイフを取り上げた。

「太陽神を蘇らせるこの儀式は他の民族が引き継ぐだろう。かって、遠い西の果ての国であるインの国で行われていたこの儀式が、世界を巡った後に我らの物となったのと同じように。次に選ばれた民族がこれを引き継ぎ、栄光を手にするのだ。

 表にあろうが裏にあろうが、太陽神を蘇らせる儀式はこれから先も人間が太陽を必要とする限り、いつまでも続いていくだろう」

「永遠に?」俺は訊ねた。

「永遠に」大神官長は答えた。それから俺の心臓をえぐりとり、太陽神へと捧げた。


 暖かな光が周囲に満ちる。

 新しい力を得た太陽が世界を照らすのを感じながら、俺の意識は遠のいて消えた。

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