グッドマナー

鯖虎

グッドマナー

「マナー講師の……霊?」

「はいそうです。マナー講師の霊です。強い怨念を感じます。このままではあなたは死にます」

 伏し目がちに早口でぶつぶつ喋る黒衣の若い女の顔は、恐ろしい程生気がない。お祓いが必要なのはどっちだと言いたくて仕方がない。

 まったく、なんで私がこんな目に遭わないといけないのか。




 そもそも、このように胡散臭い人間に怪しげなことを言われたきっかけは、原因不明の体調不良にある。

 ここ一週間、寝付きも寝覚めも悪く、空腹感はあるのに食欲があまりなく、耳鳴りが続き、肩が凝り、鏡を見れば私の後ろにもやがかかったように見えるのが続いていた。

 おまけに、他人のちょっとした無作法や言葉の乱れが妙に癇に障るのだ。

 昨日なんてひどいもので、会社でを見聞きする度に苛立ちがつのり、定食屋でご注文は以上でと聞かれて腹痛を覚えた。

 そんな調子だから、今日はせっかく楽しみにしていた展示を見に上野の美術館に来たのに、どうにも気分が盛り上がらなかった。

 そして、つまらない気分で家に帰るのも悔しいから、夕暮れ時のアメ横に足を伸ばしたのだ。

 アメヤ横丁と書かれた派手な看板を越えると、上野公園の博物館や美術館が立ち並ぶ知的なエリアから急転直下、日本、中国、韓国、トルコ、その他諸々私の知らない地域の庶民文化、それも古いものと新しいものが混ざりあった、コスモポリタン的地下世界が青空の下に広がっている。

 通りを歩く人々も多種多様で、もはや外国人がいると思うこともなく、人間がたくさんいるなと感じるだけ。この東西新旧が渾然一体となった空間は、不思議と落ち着く場所なのだ。

 それなのに、一向に気分がすぐれない。

 熱もなく咳もなく、頭痛も体の痛みもない。

 せっかくの休日がこれでいいはずがない。

 私より横暴で粗野な人間が楽しそうに笑っているのに、私が退屈しないといけない道理はない。

 そんな鬱屈とした思いを抱えながら横道に入り、古い寺の下を歩いていた時のことだ。

 つかれていますね――そう聞こえた。

 枝に残った枯れ葉が風に揺れるように乾いて、ガサガサしていて、そのくせ耳の奥にこびりつく声だった。

 足を止めて声の主を探ると、寺に至る階段の下に、枯れ木に黒いワンピースと黒い帽子を突っ掛けたような女――実の所服装と体つきから女だと思っただけで、顔を見ても前髪が伸びていてよくわからないけれど、とにかく女が佇んでいた。

 その周辺だけなんだか時空が歪んだような、音も匂いも時間の流れも遮断されたような、なんとも不思議な人だった。

 つかれています。

 彼女は再び口にした。

「まぁ、はい。疲れてますよ」

 そう返すと、またボソボソとした声でこちらに、と言って、雑踏の中を幽鬼のようにするすると抜けて歩いていった。

 なんだか無性についていかないといけない気がして、私もそのあとに続いた。

 何か怪しい商売なのかとも思ったが、彼女が何をするつもりか、妙に気になってしまったのだ。

 無秩序に動き回る人間の間をすり抜けて、なんとかその怪しげな女に追いついた。無言で歩き続ける彼女が向かった先は、アメ横から外れた路地裏の、ツタの生えた薄暗い雑居ビルだった。

 骨董品じみたエレベーターで三階に上がると、これまた薄暗くホコリ臭い空間があり、分厚いガラスのはまった古い木の扉があった。

 扉の横には色褪せた樹脂の看板があり、桐生きりゅう霊能事務所と書いてあった。

「いや、霊能って」

 そう口に出したのが聞こえないかのように、彼女は私にこう告げた。

「どうぞ。ご相談は無料です」

 彼女の言葉にタダならいいか、何も買うと言わなければ問題ないやと思った私は、怪しげな事務所の中に入ってギシギシと軋む木の椅子に座り、体調不良や些細なことで感じるストレスのことを話したのだった。

 しばらくの間黙って話を聞いていた彼女は、おもむろに立ち上がって私の肩に手を置いて、なにやらぶつぶつと独り言を口にした。

 そして彼女の乾いてひび割れた唇から漏れた言葉が、マナー講師の霊である。




 「死ぬって。なんですか、いわゆるあの、取り憑いてるとかいう」

「憑かれてるって言いましたよね」

「え? あぁ、なるほど」

 呆気に取られる私をよそに、彼女はキャビネットから黒い木の箱を出して、机の上に置いた。

 蓋が外されてあらわになったのは、時計や宝石のコレクションケースのように格子に仕切られた中に収められた、色取り取りの小さな水晶玉。

「これは祓った霊を一時的に封印しておく物です。お祓い後二週間経ったらまたここに来て頂いて、眼の前で完全に成仏させます。お代はその時で結構です。その時もお体の調子が悪ければ、お代は要りません。連絡がつかない場合は、霊をあなたの所に戻します」

「あの、いくらぐらいなんですか」

「憑いているモノ次第です。今回は普通の人間の死霊ですが、念が強いので一万五千円です」

「二週間後も調子が悪かったら、本当に払わなくていいんですよね?」

「もちろんです。信用第一ですし、生きている人間に恨まれるのが一番恐ろしいですから」

 彼女が相変わらずボソボソとした声でそう答えて、私はそれならお願いしますと言っていた。

 軽率な気もしたが、病院だってお金も時間もかかるし、後払いなら別にいいかと考えたのだ。

「除霊って何するんですか」

「霊次第です。これから霊との対話を試みますがその前に、何かマナー講師に恨まれるような心当たりは」

「いや……特には」

「そうですか。どうやら中年の女の霊で、何か強い欲求、そう……あなたに正しいマナー通りの動きをさせたい欲求があるようです」

 まるで意味のわからない話だが、彼女の顔は大真面目だ。これでドッキリ企画だと言われても、落差が大き過ぎてまるで笑えない。

「その、具体的に何したらいいんですかね」

「マナー講師ですから、挨拶とかお辞儀とかですかね。失礼ですが会社勤めの方ですか」

「はい。人事の仕事を」

「そうですか。では入室して名刺交換でもしましょうか。ところで」

 彼女は怪訝そうな顔で私の方に鼻を近づけ、すんすんと匂いをかぎだした。

「これは、ラベンダーの香りですか?」

「はい? あぁ、これは柔軟剤ですね。気になりますか?」

「いえ、何と言うか……ラベンダーの芳香剤はトイレでよく使われますから、トイレを連想させて失礼、とマナー講師なら言うかもしれません」

「マナー講師を何だと思ってるんですか」

「よくは知りませんが、そういうものでは」

「まぁ、そうかもしれませんが。そうだ、ちょっと本屋に行って小笠原流のマナーの本でも」

「いけません。小笠原流だなんて」

「え、でも礼法といえば」

「立派過ぎます。格式が高い。マナー講師は己の流儀に他人を従わせないと死んでしまう生き物。小笠原流を持ち出すなんて、マナー講師へのマウンティングでしかありません。ここは、ネットで調べて一般的に出てくるものにしましょうか」

「でも、それじゃ幽霊の流儀とは違うんじゃないですか」

「私がなんとかして対話を試みます。非常に敵意が強くて難しいのですが、やってみます。名刺はお持ちですか」

「一応、財布に何枚か。名刺ケース百均で買ってきた方がいいですか? アルミのやつとか」

 そう聞くと、彼女はまた目を閉じて私の肩に手を置いた。その手は不思議と暖かく、嫌な気持ちはしなかった。

「微かに、微かにですが聞こえました。名刺、魂、失礼と。恐らく名刺にはその人の魂が宿るので、安くて寒々しいアルミのケースに入れては失礼だと言いたいのでは。私の物をお貸しします」

「あの、前職はマナー講師とかだったんですか」

「いえ私は除霊一筋です。しかし接客を軽視するわけにはいかないので、一通り調べています。どの本も似たようなことが書いてあります」

「なんか、大変そうですね」

「詐欺が多い業界であるのも事実ですから信頼感も必要ですし、それなりの立場のお客様もいらっしゃるのでやはり礼節は必要です。個人的にはくだらないと感じますが、それを正しいと感じる人間が一定数いる以上仕方ありません」

 彼女は例によって乾いた早口で話しながら、引き出しから名刺入れを取り出した。

 受け取ったそれをつぶさに観察すると、中々に良い物であることがわかる。表面も艷やかだし、シワの入り方が素材の柔らかさを物語っている。

 自分の名刺をその中に移す間に、彼女は透明な水晶玉を取り出して布で磨いていた。

「それに封じ込めるんですか?」

「そうです。では一旦部屋の外に出て、入室から始めてください。あ、シャツのラベンダーの香りが強いので上着は着ておいてください」

 おおよそ霊能者の口から出る言葉ではないなと思いながらも、とりあえずは素直に聞いてみる。

 部屋の外に出て、扉を閉め、呼吸を整える。

 トントンとノックをして扉を開けると、黒衣の彼女は静かに首を横に振った。

「ノックのリズムが速過ぎます。あと二回叩くのはトイレノックとされていますね。トイレに入っている相手を急かすようなノックでは二重に失礼です。三回でいきましょう」

「それ俗説というか、根拠ないやつですよね」

「事の真偽は二の次です。そのマナー講師が満足するよう、もう一度やりましょう」

 まったくもって納得いかないが、しかし彼女の言う通り、目的はマナー講師の霊の成仏。目的を見失ってはいけない。

 再び部屋の外に出て、トン、トン、トンとワルツのような四分の三拍子の典雅なリズムでノックをし、静かにゆっくりと扉を開ける。

 確かな足取りで彼女に向って歩き、と思った所で彼女がお待ち下さい、と静止する。

「何か気になる点があるようです。もしかすると、足音が高過ぎて高圧的で失礼、とかでしょうか。もう一度やりましょう」

 軽い苛立ちを覚えながらも外に出て、ノックからやり直す。今度は足音も抑えて歩いてみたが、それでも彼女は首を振った。

 その後も何度かやり直し、七回目の入室で、彼女はあっ、と声を上げた。

「入室時に失礼致しますとお辞儀がないですね」 

 言われてみれば、確かに基本的なことではあるかもしれない。彼女の推論は見事に当たり、八回目にしてやっと名刺入れを取り出せた。

 万全を期して相手に先に名乗らせることなく、私から先に名乗りを上げて名刺を渡した。

 だが、そこで彼女が残念そうに首を横に振る。

「今度はなんですか」

「高い、高い、と言っています」

「はい?」

 まったく意味がわからないが、しかし正解に辿り着かないことにはどうしようもない。

 ノックからの動作を何回か繰り返し、もしかすると名刺の高さか? と思い至る。

 確か、この間うちの会社の新入社員研修をしていたマナー講師が、そんな意味不明なことを言っていた気がする。

 試しに名刺を差し出す高さを彼女より低くしてみると、今度は名刺の交換までいけた。

 しかし、やっと終わったかと安堵のため息をついたところで、彼女が眉をひそめて私の肩のあたりを見つめていることに気がついた。

「またですか。何がダメかわかります?」

「これは……気に入らないということはわかるのですが、具体的な言葉がまったく浮かびません。もしかすると、単にやり直させて講師の立場を見せつけたいのかもしれません」

「そんな理不尽な」

「合理性とは縁遠い仕事でしょうから、これも仕方ないかと。具体性がないということは単に気分の問題だということですので、内容は今のでいいのだと思います」

 彼女の助言を信じ、入室からの一連の流れを繰り返すこと十回。名刺交換を終えた所で、肩のあたりがふわりと軽くなる瞬間が訪れた。

 黒衣の霊能者はすかさず私の肩に手を置き、ポケットから透明な水晶玉を取り出して、早口で耳慣れない言葉を唱える。

 水晶玉が赤黒く濁っていき、その色が濃くなるにつれて私の肩の重みが消え、不思議と気分が晴れていく。

「これで除霊は完了です。二週間後を目安にまた来てください。先程も申しましたが、連絡がつかなければこの例はお客様に戻しますので」

「わかりました。ご連絡します」

「ところで、本当にマナー講師に心当たりはないですか? 相当の怨念を感じましたが」

「あぁ……そういえばさっき名刺交換で思い出したんですけど、この間うちの会社の新入社員研修で来たマナー講師がひどくてですね、時代遅れのパワハラ研修で泣き出した子もいたので、そいつを派遣してきた会社にきつくクレーム入れて、取引を全部打ち切ったんですよ。あの講師のせいでうちのグループ全社出禁ですからね、まぁ、責められたでしょうねぇ」

「その講師の方はどんな方でしたか?」

「四十いくつの女性でね、まあ高圧的な人でしたよ。普通あーいうのって厳しくした後のフォローもちゃんとやるもんですよね」

「名前は覚えてますか」

「あー、はい、思い出しました」

 彼女にそのパワハラ講師の名前を伝えると、彼女はスマホを取り出してなにか文字を打ち込み始めた。

「検索したら、それらしい方の自殺の記事が出てきました。きっとクビになったか、上司にキツく当たられたかで命を絶ってしまったのですね。それで、あなたに強い恨みを抱いたようです。いかがでしょう、一つ手でも合わせてみては」

「手を合わせる? 私が? なんで?」

「それはまぁ一応、あなたが彼女の自殺のきっかけとなっているようですから」

「いやいや。私はコンプライアンス的に正しい対応をしていますから。逆恨みじゃないですか。確かに私は彼女の会社に抗議して、あんな人格破綻者をよこすなんて何を考えているんだ、来年以降も仕事が欲しければクビを切れとは言いましたけどね。でも問題があるのは彼女ですから。そんなのが死んでも彷徨っても地獄に落ちても興味ないですよ」

 私は正しいことを言っているはずなのに、あろうことか彼女は首を横に振って、小さくため息をつくではないか。

「多く死霊は何かの被害者。やはり生者の方が恐ろしいものですね」

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