名づくるにいわく

夜渦

第1話

   名づくるにいわく



 士卒のどよめきに、誰が来訪したかを知る。さぁっと自然に人並みが割れてその中央、凜然と歩むはよく知る顔であった。肌は抜けるように白く、髪は濡れたように黒い。深い色を宿す双眸は夜の海のように光る。腰には見事に装飾された螺鈿の太刀を履いていた。

白麒はくき将軍だ……」

「あれが異山いざんの宝剣……」

「ようやく獣を……」

 感嘆と畏怖をないまぜにしたささやきが密やかに、けれど確かに形を帯びて広がっていく。

 白麒、とあだ名されていた。その美しい立ち居振る舞いと皇帝への忠誠、規律に厳格に従うさまをもって誰かが呼び始めた。宰相をも輩出した名門羅家の嫡男にして皇帝直属の羽林軍の一翼を率いる、常ならば都を離れることなどない立場の青年だ。けれど時折、こうして辺境へ出されることがあった。

 十人ばかりの近侍を引き連れた秀麗な白皙が、男を視界にとらえて歪む。嫌悪をあらわにした表情に思わず笑いがこみ上げて、男は椅子から立ち上がりもせずに挑発するような声を上げた。

「遅かったじゃねえか」

 平城に立てこもる賊を相手に展開する幕営、立てられた旌旄はたは将軍のしるし。ならばこうして最奥に座するものは鯨波げいは将軍をおいてほかにはいない。肌も髪も日に焼けた、堂々たる偉丈夫だ。無頼上がりの鋭い眼光が臆することなく白麒に向けられる。都からの来客、それも本物の貴人を相手に敬意のかけらもない言葉を吐き散らす男に、兵たちは思わず息を呑んだ。

「粗野な野盗でも紛れ込んだかと思えば」

 感情の乗らぬ声が響いた。しんと静まりかえる幕屋に沓の音を響かせ、白麒は鯨波の前に立つ。ぬばたまの瞳が冷ややかに見下ろした。

「先触れはやったはずだが」

「立て込んでるときにそんなもん送ってよこすんじゃねえよ」

 手のひらでもって幕営の内を示せば、武装をほどいてもいない兵士ばかりだ。負傷者の幕屋は数を増しており、誰も彼も疲弊の色が濃い。白麒はちらと男の左足を見て、少し不機嫌そうに柳眉を寄せた。

「たかが野盗に手こずるとは情けない」

「そんな情けない男の尻拭いを勅命で、とは惨めだな。同情するぜ」

 じろりと漆黒の瞳が男をにらむが、男は人を食ったように笑うばかりだ。

「聖上より賜りし旌旄、返すなら今だぞ」

「無学でも考える頭はあるんでね。ご心配なく」

 あっけらかんと肩をすくめて見せ、男はようやく重い腰を上げた。

「さて、と」

 纏ったままの具足ががしゃりと音を立て、威圧感がせり上がる。立ち上がってみれば見上げるような偉丈夫だ。ああ疲れたとうそぶきながら肩を大仰に回してみせるのへ、青年が深く嘆息する。その上背は頭一つ分ほども差があった。

「座して客人を迎え、起てば客人を見下ろす。まこと非礼に衣冠を着せれば貴公になるのだな」

「おや、ご存じなかったとは。白麒将軍も存外に抜けておられる」

「……」

 ぴし、と空気に緊張が走る。次の瞬間、佩刀に手を伸ばそうとした白麒の手を鯨波がつかんだ。

「それは非礼じゃねえのかよ」

「貴様に払う礼などない」

「白麒が聞いて呆れるぜ」

「貴様がその名を口にするな。不愉快だ」

 鯨波の手を振り払って、白麒が一歩引く。問答はしまいだとばかりに身を翻して幕屋を出て行った。

「あの、大丈夫でしょうか……」

 事の一部始終を息を詰めて見守っていた若い兵士が思わずこぼした。相手は皇帝の勅命を受けてやってきた貴族だ。都の事情に詳しいわけではないが、白麒将軍の名前はもちろん知っている。なぜ彼が派遣されてきたのかも。

「なぁに、どんな悪態つこうが仕事はきっちりやってもらう。心配すんな」

 鯨波が屈託なく笑う。口元からこぼれた八重歯がその笑顔をなつっこく見せていた。

「お貴族様の相手しなきゃなんねえからお前たちは休んでろ。羽目はずさなきゃ酒も飲んでいい。ちょっとだけな」

 最後の方は少しばかり声をひそめて、副官に後を任せる。負傷者へも輜重から甘いものを見繕ってやれと言い置いて、幕屋を出た。手にはいつの間にか弓を持っている。

 幕営の外れに人影があった。傾きかけた日差しの中、まっすぐに立つその背中はなじみ深いそれだ。怜悧な眼差しが眼前の城郭を見つめている。それはかつて軍の拠点として使っていた城郭だが、立地と規模の中途半端さから廃城となっていた。そこに気づけば野盗が住み着いて周辺の都市への略奪行為を繰り返し、ついに討伐令が下された。そこまではよくある話だ。問題は、その先だった。

「何がいる」

 鯨波の方を振り返りもせずに白麒が尋ねた。

諸懐しょかい欽原きんげん

 口にされた獣の名に白麒は瞠目し、思わず幕営の内を見やる。負傷者が重なるわけだ。

「……城内の状況は」

「わからん。だが景気よく血を流してるのは確実だろうな。人間が表に出てこねえ。相当たちが悪いのがいる」

 古来から様々な呼び方があるが、流行の呼び方で言えば獣行士じゅうこうしだろうか。山涯のさらに奥、人の世が揺らぐはざまから獣を呼び出すものたちだ。方士や道士の間で廃れて久しい禁術。それを連綿と受け継ぐ一団は時折、人の世を乱しに現れる。前後関係の委細はわからないが、膨れ上がった野盗に獣行士がいたのだ。討伐軍の第一陣は獣の群れにあえなく撤退し、上に泣きついた。そうしてやってきた鯨波も早々に白麒の派遣を打診したのだ。これは人の手に余る、と。異山の獣に真正面から対峙できるのは白麒くらいだった。

「欽原がいるとなると部下は連れて行けぬな」

 連れていくつもりなど端からないくせに白皙がうそぶいた。

「それな。正直死なせないだけで精一杯、死人覚悟で押し切るには数が多い」

 むしろ一人で行った方が早いと鯨波が笑う。余計な傷をこさえてしまった。

「貴様の単騎行は最終手段にしろ。後始末が面倒だ。足、大丈夫なのか」

 気遣わしげな、というにはあまりにも感情が乗らないが、いつものことだ。鯨波は問題ないと言って左の太ももを軽く叩いた。立ったり座ったりを繰り返せば少々響くが、逆に立ちっぱなしなら問題ない。

「なら行くぞ」

「……その即断即決、多分嫌がるやつのが多いと思うぞ」

「知ったことか」

 言い捨てて、白麒は己の佩刀を抜き放った。羅家に代々伝わる宝剣だ。全身余すことなく美しく作り上げられたそれを、刀身の根元から刃先に向けてゆっくり指で撫で上げる。すると刃のおもてが白銀に輝き始め、文字が浮かんでは消えていく。そうして、玲瓏の声が響き渡った。

帯山たいざんに獣あり。そのかたち馬の如し。一角に錯あり。名づくるにいわく──驩䟽かんそ

 刃の表面に文字が踊る。名付けることは形作ること。刀身からあふれた光がやがて形を成して、そして獣となった。それは額に青銅の角を戴く白馬。人の世と異山のはざまを行く獣だった。白麒が手を伸べれば自ら頭を寄せて、その首に触れるを許す。

「そりゃ麒麟とか言われるよな」

 尋常ならざる馬を従え、男は触れ難い神々しさを放つ。麒麟は、獣の王だ。

「これは麒麟ではないが」

「知ってるっつの。俺のもよろしく」

 言いながら弓の弦を張り直し、具合を確認してえびらを提げる。弓の支度が整う頃には青毛の驩䟽が増えて二頭になっていた。馬銜はみあぶみに鞍までかけてあるのは呼び出すのが初めてではないからで、手慣れた様子で二人は馬上の人となった。

「日暮れ前に終わらせるぞ」

「おうよ」

 そうして軍馬を駆るのと同じように異山の獣を操り、二人は平原を疾駆する。白麒が先行した。鯨波の鋭い声が飛ぶ。

「──来るぞ!」

 城郭までの距離およそ一里に迫ったところで突如地面がまくれ上がり、壁のように立ちはだかった。諸懐しょかいだ。一見牛のようだが、その倍はある巨体に角は四本。剛毛に覆われた耳は小さく、眼球は人に似る。恐らく一定の範囲に侵入者があると呼び出されるのだろう。ぎょろりとその目が二人をとらえ、甲高い声をほとばしらせた。鳴き騒ぐ雁の声を何十倍にも大きくしたようなそれは、軍馬の多くを恐慌状態へと陥らせてきた。だが驩䟽は意に介さない。減速することなく巨獣へと向かっていく。

 白麒の双眸が見開かれ、ひたと眼前を見据えてそうして、剣光一閃。切っ先が狙い過たずその右の首を切り裂いた。諸懐の蹄が地面を割る。苦痛に叫ぶと同時に血が吹き出す。殺意にぎらついた目が白麒を探してせわしなく動く。その眉間に次々と矢が突き刺さる。巨牛が鯨波めがけて駆け出そうとするのと、白麒が巨躯の下に潜り込むのが同時。光が、牛の首を刎ね飛ばした。どう、っと土煙を上げて諸懐が倒れ込んでいくのを見ながら鯨波が声を上げる。

「大丈夫か」

「問題ない」

 巨躯の転倒から距離を置きながら白麒はあっさりと答えた。剣にこびりついた血糊を払い、額に飛んだ返り血を指で拭う。

「で、あと何頭いる」

「最低四頭。結構削ったんだぜ」

 想像以上の数字にすっと白麒は柳眉をひそめた。静まりかえったままの城郭を見やる。

「……野盗の規模は」

「報告の通りながら百人強ってとこだな」

「そうか。ならあそこにはもう死体しかないな」

「同感」

 諸懐は人を食らう。獣行士にとって人を食う獣は御しやすい。人肉さえ与えれば呼び出せるからだ。だがこの巨体を複数となれば当然、御するに必要な肉の量は多くなる。蔑む色もあらわに白麒が鼻を鳴らした。

「外道め」

 城郭に一人残っているであろう獣行士に向けて吐き捨てる。

「そろそろ欽原きんげんが出てくる。諸懐は任せた」

「わかった」

 白麒が馬首を巡らせる。異山の獣は普通の武器が通りにくいが、白麒の宝剣は別だ。刃こぼれすることなく獣を斬り伏せる。持ち主の技量さえ追いつけばまず後れを取ることはない。そうして白麒は、この剣を持つに値するだけの武人であった。

 駆け出す。左右に視線を走らせて次を警戒する頭上へ、硬質な羽音。白麒めがけて下りてくるそれを鯨波の矢が次々と射貫く。ばらばらと落ちてくるのは鴨ほどの大きさの蜂、欽原だ。見た目の通りに毒針を持ち、刺されれば大抵の生き物はその場で絶命する。頭上の欽原を処理しながら諸懐を打ち倒すのは確かに骨が折れたことだろう。それでもできることはやったと言うだけあって、かなり数は減っているようだった。

 眼前に飛んでくる欽原を斬り捨てながら新たに出現した諸懐へと肉薄する。甲高い咆哮が響き渡って、生臭い鼻息がすぐそば。白麒はためらわずに馬上から跳躍した。中空に身を躍らせ、上を取る。そのまま落下の速度に任せて巨牛の首に刃を突き立てた。光が炸裂する。

「次!」

 身を翻して驩䟽を呼べば、即座に応じて駆け込んでくる。

「あれで人間とか嘘だろ」

 前方を縦横無尽に駆け行く白麒を視界に捉えながら鯨波は苦笑する。身体能力がどうかしているとしか言いようがない。あの剣に選ばれる、というのはそういうことらしいと伝聞で聞いてはいるが、それにしても常軌を逸している。見目麗しき白麒将軍、などとちやほやしているさまがいっそ牧歌的に思えるほどだ。

「んで、あと何羽だ」

 箙の矢の数を指先で確認しながら視線を巡らせる。白麒に近づく欽原を片っ端から射落としてはいるが、こちらは普通の矢だ。的確に腹の弱いところを抜かない限り即死させられない。落とすだけでは駄目だ。むしろ落とせないより悪い。彼は今、背後を完全に鯨波に預けている。全神経を研ぎ澄まして一矢たりとも外せぬと己に課しながら、男は矢を射る。開きっぱなしの瞳孔と緊張に側頭部がぎちぎちと痛みを訴えていた。

「そろそろきっついぞ」

 ぼやきながら二羽をまとめて射貫く。白麒は最後の諸懐に突っ込んでいくところだ。その馬速より早く矢が奔って巨牛の眼球に突き刺さった。諸懐が暴れ回る。的確にその角が届かぬところを走りながら白麒が片手を挙げた。鯨波が弓を引き絞る。そうして白い手が振り下ろされるのと同時に矢を放った。狙い過たず反対側の目を潰すのと白麒が馬上に立ち上がるのが同時。刃を水平に構え、驩䟽は速度をゆるめることなく絶叫する巨牛に突進し──駆け抜ける。白刃が巨体を見事に真っ二つにしていた。それはまるで果実を割るように。声も上げずに地へ落ちる巨牛の上、最後の欽原を鯨波の矢が射落として、平原の音が消えた。

 こめかみを掌底で抑えながら、鯨波はようやく呼吸を整える。白麒の元へ驩䟽を進めれば、その身は容赦のない返り血でなかなかに壮絶なありさまだった。異山の獣の血は独特で、どこか硫黄のような匂いが混ざる。白麒が緩慢な仕草で鯨波を見た。息一つ乱れていないのはどういうことだと思いながら、鯨波は彼の名を口にする。

「お疲れさん。──子栩しく

 名付けることは形作ること。それは青年を人の世界に留めるための名。鯨波だけが呼ぶを許された名だった。

 まばたきひとつせずにぬばたまの瞳が男を見つめてそうして、かくりと一瞬首を落とした。けれど鯨波は動じない。すぐに戻ってくると知っている。果たして、白麒は眉間に深く深くしわを寄せてつぶやいた。

「……臭い」

 今更血の匂いに気がついたような、おもむろに不機嫌な声だ。鯨波はくちびるの端をわずか引き上げ、声にすることなくおかえりと言った。

「湯浴みの支度くらいはしてあるのだろうな」

「あるある。もう一踏ん張り、獣行士ふん捕まえて戻るぞ」

 城郭内にどれだけの獣を抱え込んでいるかが問題だが、表に配備していた以上のものがいるとも思えない。二人が城郭へ馬を向けようとしたとき、城壁の上に人影が見えた。

「この状況で姿を見せるってことは」

「逃げるつもりだろうな」

 獣骨を模した面をかぶった男は間違いなく獣行士だ。その痩せた両手に大きな桶を持っている。嫌な予感がした。馬速を上げる。男が声を張り上げた。

鹿呉ろくごの山に獣あり。そのかたち鷲のごとく、角あり。名づくるにいわく──蠱雕こちょう!」

 桶の中身をぶちまける。赤が降り注ぐ。それは血と臓物と人の体。獣の餌だ。光が炸裂して、とんでもない音量で赤ん坊の声が響き渡った。驩䟽が初めて二の足を踏む。現れたのは巨鳥だった。見た目は猛禽だが、胴体だけで大人が抱え込んで余るほどもあり、広げた翼は日を遮って影を落とす。額に角を戴き、双眸の奥に燠火が燃えるようだ。緊張が走る。人を食う獣の中でも厄介な部類だった。強靱な翼でもって滞空するその背に獣行士が城壁から身を躍らせて飛び乗り、飛び立とうとするのへ矢の嵐。

「逃がすかよ!」

 間髪入れずに白麒が距離を詰める。飛び立つ前に仕留めようと腰を浮かせた瞬間、獣骨面の下で薄いくちびるが笑みを引いた。鯨波が息を呑む。駆け出す。手を伸べて、その白い腕をふん捕まえるや否や力任せに後方に投げ飛ばした。そうして、衝撃。うわん、と耳障りな羽音が鼓膜に満ちる。

大瀛たいえい──ッ!」

 名を呼ぶ白麒の声が遠い。欽原が群がってくるのがわかる。かろうじて声を張り上げた。彼が名を呼ぶのなら、自分は戻ってこられる。

「後始末、頼んだ!」

 そうして男のかたちが、どろりと溶けた。

 地面に投げ出された白麒に驩䟽が駆け寄る。その首にすがりつきながら鞍上に上り、白麒は即座に馬首を巡らせて鯨波に背を向けた。全速力で離脱する。一瞬でも早く、一歩でも遠く。巻き込まれるわけにはいかなかった。獣行士が何か叫んでいるらしいのが聞こえるが意に介さない。侮辱されようが挑発されようが知ったことではない。もう、何もかもが決したのだ。

 平城の眼前、蠱雕と欽原の群れを従わせる獣行士の足下に黒い亀裂が入る。地形を無視していびつな楕円がせり上がってくる。異変に気づいた獣行士が足下をのぞき込むのと巨大な顎門が地を破って出現するのが同時。意味を成さぬ言葉が噴き上がる。それは大鯨の口。喉が膨らんで、全てを飲み込む。そうしてばくんと、あまりにあっけなく眼前の命を口中に収めて、巨鯨は身をのけぞらせた。その巨躯ゆえに緩慢に緩慢に地へと落ちていく。水面に身を投げ出す仕草でもって大地に身を踊らせ、潜っていった。土塊が、雨のように降り注いで地を穿った。




 入り組んだ路地の奥、人でごった返した酒舗だった。遊牧民風の串に刺して焼いた肉やら腸詰めやら胃袋の湯菜スープやらが存外に受けて繁盛している。その片隅に二人組がいた。狭い店内の小さな卓の上にこれでもかと料理を並べ、額を付き合わせるように言葉を交わしている。片方は見上げる偉丈夫でもう片方は目を見張るほどの美形。否応なく目立つ組み合わせに店内の視線がちらちらと集まるが本人たちに気にした様子はない。

 箸で互いに好き勝手に食べたいものをつつきながら、白麒が呆れた調子でつぶやいた。

「本当に丈夫だなお前は」

「まぁそれが取り柄なんで」

 酒をあおりながら鯨波が笑う。

「鳥獣が即死する毒、っつうからそれ以外ならまぁ何とかなるだろと思ったけど何とかなったな」

「獣行士は死んだわけだが」

「あはは、あの状況で獣行士だけ五体満足で吐き出すとかまぁ無理ですってば」

 髭板の隙間から無理矢理に押し出したところで悲惨なことになるだけだ。残念ながら報告書には野盗討伐、生存者なしと記さざるを得ない。獣行士がどこから入り込んだのか、あの平城に展開して何をもくろんだのかは闇の中だ。そういう意味で少々の後ろめたさを抱えながら、鯨波は尋ねる。

「後始末、大丈夫か?」

 いくら獣行士が絡んでいたとはいえ、名のわからぬ巨鯨の出現をどう誤魔化すかは白麒に丸投げしていた。

「おかげさまでさすが麒麟だと言われ始めたぞ」

 日のある時間だったのが災いして幕営から巨鯨を目にした兵士の数が多かった。そこへ驩䟽に乗った白麒が帰還したものだから、当然のように皆は獣を持って獣を制したのだと理解したらしい。

「いつ聖上に御前に呼んで見せよと言われるかと思うとひやひやする」

「あの剣、そこまではできないもんな」

 白麒は獣行士ではない。何でもかんでも呼び出せるわけでもなければ数を呼べるわけでもない。端から見えている以上に制約は多く、幅は狭い。

「誰かさんに名を与えるのがせいぜいだな」

「お世話になってまーす。──で、それ俺の腸詰めなんだけど」

 しれっと鯨波の皿から血の腸詰めをさらっていく。白麒の取り皿には焼いた肉だの腸詰めだのが山積みだ。野菜はない。大皿を見ればまだ手を付けてもいないのに空になっていた。

「後始末のカタだ」

 言って、秀麗な顔が胃袋の湯菜を飲み干す。

「……お前、精進潔斎した清い体だからあの剣に選ばれるんだとかいう噂あるけど」

浮言デマだな」

 血の腸詰めを頬張りながら斬り捨てる。

「どう見えているかは知らんが生憎人間だ」

「うん、そうだよな。知ってる」

 ふっと鯨波の表情がゆるむ。

 あの剣は異山の獣を斬るためのものだ。持ち主を選び、この世ならざる力を与える。それはそのまま、持ち主を異山の側へ引き寄せるものでもあった。白麒は相性が良すぎるのだろう。ちょいちょい引きずり込まれそうになっているのを鯨波は知っている。それでもその剣を手放すことなく立ち向かおうというのだから、大したものだと思う。ゆえに自分が傍にいるときくらいは名を呼んでやろうと決めていた。人としての名を。

 その表情をまじまじ見つめながら白麒がくちびるを開いた。名を呼ぶ。

大瀛たいえい

「ん、何」

「なんでばれないんだお前。鯨波将軍は、ない」

「本当それ」

 自ら名乗った名ではない。気づけばそう呼ばれていた。始めこそどこからばれたと肝を冷やしたが、本当に関係がないらしい。士気の高い兵士を率いるさまを賞賛してのものだと臆面もなく言われたときはうそだと思ったものだ。

「聡い奴がそろそろ気づいてもおかしくない頃合いだと思うんだけどな。今回のとか」

 人ごとのように首をかしげる眼前の男に白麒はため息をこぼす。

「ばれたらどうするつもりだ」

「どうもしねえよ。俺は人じゃねえもん」

「帰れもしないのにか」

 ひたと漆黒の瞳がこちらを見る。

「そりゃそうなんだけど、でもまぁ人の中じゃなきゃ生きられねえってこともないからな」

 鯨波は獣行士に呼び出された異山の獣だ。過去に例を見ない巨躯と人の言葉を解する知性を持ちながら、名がなかった。あるいはあったのかもしれない。だが能力をはるかに超えた獣を呼び出したがゆえに獣行士の体は爆発四散し、鯨波は来た道も帰る道も失ってしまった。そんな巨鯨に名をつけたのが、白麒だった。

 ──我が前に獣あり。そのかたち人のごとくして道を知る。名づくるにいわく、──大瀛。

 名付けることは形作ること。そうして、人の形を保っている。

「まぁ先の話だろ。どうせお前に呼び戻される」

 鯨波の言葉に白麒は黒い瞳をわずか見開いた。

「いて、くれるのか」

 人のしがらみなどいつでも振り払って泳ぎ出せるというのに。

「いてほしいんだろ?」

 ならそれなりにこの生活も面白いからとからりとした言葉。酒をあおる。腹が熱くなる感覚が心地よい。これは人の世界にしかないと知っている。ちらと白麒を見れば表情がほどけていた。

「……お前といると、楽だからな」

 息ができるとつぶやくのへ眉を持ち上げる。素直なのは珍しかった。

「そりゃどうも」

「だが、迂闊に本性はさらすな」

「今回のは不可抗力だろ?」

 白麒が刺されれば即死だったと肩をすくめる。

「私のいないところではごまかせんぞ」

「お前以外を本性さらしてまで助けねえよ」

「どうだか」

「いや本当に。そもそも後先考えずに獣に突っ込む馬鹿なんてお前以外いてたまるかよ」

「……」

 呆れた声を上げれば、白い手が無言で鯨波の皿に骨の残骸を流し込む。

「あ、こら。そうやって拗ねて八つ当たりすんのやめろっての」

「拗ねてなどいない」

 不機嫌丸出しの声が吐き捨てた。




 現実離れした形で収束した野盗の討伐だったが、あっけないほどあっさりと書類仕事が済んでしまった。あんなわけのわからないことがあったのに書類を作る方も受け取る方も特に驚くこともなく、突っ込みをいれることもない。不思議そうな顔をしながら青年は口を開いた。

「これでいいんですか」

「いいんだよ。いつものことさ」

「あの鯨……」

「いやぁ白麒将軍はすごいよなぁ」

 朗らかに声を上げるのは鯨波の副官で、そのどこか空々しい声音に気づくことなく青年はああそうだと首をかしげた。

「おふたり、大丈夫なんでしょうか……」

 事務処理でもああだこうだとやり合っていた。都と同じと思うなだとか、これだから田舎はとか。不安げな青年の言葉に副官は一度片眉を持ち上げ、やがてああと言って笑った。

「お前新入りだったな。大丈夫だよ。あのふたり、仲いいから」

「仲いいんですか?」

「ああ。今頃平服でメシでも食ってるさ」

 青年が目を丸くするのに苦笑する。気持ちはわからないでもない。衆目の前で大人げなく喧嘩をされれば、普通は戸惑う。

「一応家の格とか立場とか気にして人前で仲良くしちゃ駄目だって思ってるっぽくてな。わざと口論してるよ」

「……必要、あります?」

「ない」

 事務的に淡々と済ませればいいのではとつぶやく青年の言うことはまったくもって正しい。

「ついでに言うと白麒将軍結構よく来るから慣れておけよ。近侍の人たちも」

「え、羽林の方なのに?」

「なのに」

 異山の獣に対処できるものは多くない。通常の警備兵で対処できなければ鯨波軍が呼ばれ、それでなお手に余るようなら今回のように白麒が出てくるのがお決まりの展開だ。畢竟、現場でかち合う機会は増える。そうすると気づくことも色々あるのだが、それは口にしないのが暗黙の了解だった。本当は仲がいいくせにわざわざ不仲を演じてみせる上官を思って男は笑う。

「まぁ、気づかないふりしてやることが多いのさ。ここには」

 見上げた空に、鯨に似た雲が泳いでいた。

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