われ、山にむかいて、目を挙ぐ

吉野玄冬

本編

 これは、人類が辿ってきた長い長い歩みのほんの一部を描いた記録。

 ただ僕は歴史家でも何でもないし、自分が見て感じたことくらいしか書けないから。

 より詳しく知りたいなら別の資料に当たって欲しい。

 それでもきっと何かの参考にはなると思う。

 そう、信じている。




 初めて彼と出会うその日、僕はいつも通り玄関で妻に見送られていた。


「行ってらっしゃい」


 彼女は自分の膨らんだお腹を撫でながら言った。出産予定日はまだ先だ。

 地下の駐車場に行くと、自分の車に乗り込んで、自動運転で発進させる。

 ロサンゼルスから南西、サンディエゴの方角へと向かっていく。

 窓の外で流れゆく景色を眺めていると、行き交う人々は等しく明るい表情をしていた。

 彼らはもし困った様子の誰かを見れば、すぐに駆け寄って力になるだろう。何かに強いられているわけではなく、みな自らの意思で行う。他者は決して無関係な存在ではなく、確かな紐帯で結ばれた仲間なのだから。


 思いやりで満たされた社会。

 今の世界は人類史上もっとも平和だ。貧困も紛争も存在せず、病もほとんどが根絶された。御し切れない天災こそあれど、可能な限り不幸が生じないようになっている。


 西暦2123年、今や人類はそのほとんどが一丸となって未来や希望の為に力を合わせているのだ。だからこそ、過去の人間が理想郷として夢見たような社会が実現されている。

 その根幹にあるのは、FITSフィッツと呼ばれる科学技術テクノロジー

 僕はFITSの導入を拒んでいる人やコミュニティと接触し、説明によって彼らの不安や疑問を解消する公的な仕事をしている。

 その名を、共歩敷衍官きょうほふえんかんと言った。




 三時間ほど掛けて国境付近の豊かな自然が広がるエリアまでやってきた。

 この辺りには様々な部族の保留地が点在しているが、これから訪問するコミュニティはその中に含まれない。比較的新しく作られた村であり、単一の部族ではない集団のようだ。

 待ち合わせの地点には既に案内人が立っていた。短髪で精悍な顔立ちの男性。しなやかで逞しい肉体には着古した衣服を纏っている。その背後には文明人を拒絶するように鬱蒼とした木々が生え広がっていた。

 僕は車から降りると、すぐに頭を下げた。


「お待たせして申し訳ありません」

「問題ない。我々はあなた達のように時間に駆り立てられていないのだから」


 彼は流暢な英語で淡々と事実を述べるように言った。


「共歩敷衍官の西嶌玲ニシジマ・アキラです」

「私はノア・ノア。付いてこい。オヴィリのもとに連れていく」


 彼は木々の間にある小径に入っていったので、僕は慌てて追いかけた。

 視界の端にナノマシンを介した拡張現実Augmented Realityとして翻訳情報が表示されている。

 ノア・ノアとはタヒチ語で「芳しい香り」という意味らしい。オヴィリとは彼らのリーダーの名前のようだが、そちらもタヒチ語で意味は「野蛮人」。なぜタヒチ語なのだろう。


 彼が進む小径はお世辞にも整備されているとは言えず、一般人ではとても立ち入れない様子だった。

 そんな中を僕は感覚的に歩いていく。不安定な足元や飛び出た枝を自動的に把握して最適な動き方が為される。恐らくはどこかの先住民の経験が活かされているのだろう。


「それが機械の神の導きというわけか」


 ノア・ノアは振り返らずに言った。音だけで分かるのだろう。森の外にいた時とは身体の使い方が違う、と。

 FITS。正式名称は砂の上の足跡Footprint In The Sand。有名なキリスト教の詩を由来としている。要約すると、神は我々に常に寄り添ってくれていて、辛く苦しい時は背負って代わりに歩いてくれる、という詩だ。

 その機能は、ナノマシンの働きによって直感と呼ばれる領域を他者と共有すること。


 直感とは、人間の脳が有する過去の経験を用いて未来を予測するシステムだ。

 それは原始的な暮らしをしていた頃の人間にとっては優秀だった。自身が体感したことを経験とし、予測する内容も単純だったからだ。

 だが、文明が発展した人間の直感は誤った予測を頻繁に導くようになった。自らが体感していないことも経験として得るようになり、更に複雑な内容の予測を求めるようになったからだ。

 直感は偏りバイアスばらつきノイズといった形で理性の働きにも大きく影響を与える。理性の土台が直感なのだ。その働きによって恐ろしい事態を招いた時代があり、反省によって今の社会がある。


 FITSは導入者が体感した経験のみを保存し、サーバーを介して共有している。その情報群はAIによって個々人の身体に最適化され、場面や要望に応じた予測が提供される。

 それによって導入者の直感は驚くほどに正確になった。「何となく」選んだ物事が求めた結果に繋がり、理性も十全に発揮される。

 あたかも神が寄り添って導いてくれているように。


「ノア・ノアはFITSを導入しようとは思わないんですか?」

「オヴィリが受け入れるならば受け入れよう。彼が拒絶するならば拒絶しよう。我々はその判断に従う」


 その言葉には強い意志が感じられた。僕がどう説明しようとも考えを変える気はない様子。

 まずはオヴィリという人物と会って話すしかなさそうだ。




 しばらくノア・ノアに付いていくと、やがて一気に視界が開けた。

 そこには原始的な木造住居が立ち並んでおり、表では人が賑やかに過ごしている。

 情報によればこの村の人口は五十人ほどだ。文明の利器が一切ないのかと言えばそんなことはなく、住居の中には家電製品が見られたし、携帯端末を手にしている者もいた。

 ノア・ノアに連れて行かれたのは村の中でも奥まった場所にある住居。


「オヴィリ、共歩敷衍官を連れてきた」


 そこでは大柄な男がキャンバスの前に立っており、その手には絵筆とパレットがあった。

 蔦のように生え広がった長髪は真っ白で、枯れ木のように罅の入った肌からは年齢を感じさせる。けれどその背筋は伸びており、肉体も細身だが良く引き締まっていた。

 何より特徴的なのは、その瞳だ。一度沈むと二度と浮かび上がって来られない底なし沼のような静謐を湛えていた。

 僕がこれまでに見てきた人間の中で最も異質な雰囲気を発している。そう思えた。


「少し待て。オヴィリはこうなるとなかなか気づかない」


 真横にいるのに彼は僕達のことが少しも視界に入っていない様子だった。見ているこちらが思わず唾を呑んでしまう。それほどに凄まじい集中力だ。

 そんな彼が描いている絵とはどのようなものか。

 背景には豊かな自然が、前景には赤い肌の女性と獅子が描かれている。自然はこの辺りの風景を、女性は村人を思わせる。獅子だけは謎だ。近辺にいるとも思えない。まだ途中のようで空白部分も多かった。

 芸術に詳しいわけではないが、現代の物とは根本的に違っているように感じられる。拙いわけではないが、良いとは感じなかった。

 数十分してようやくオヴィリは大きく息を吐くと、こちらに気づいたようでジロリと睨んだ。


「オヴィリ、共歩敷衍官だ」

「そう言えばそんなことも言っていたか」


 ノア・ノアに説明され、オヴィリはポリポリと頭を掻いた。


「僕は共歩敷衍官のニシジマ・アキラと言います」

「俺はFITSを導入する気はない」


「何か不安があるのでしょうか? それでしたら……」

「俺は十分に知っている。その上で言ってるんだ」


 まるで聞く耳を持たないまま、オヴィリは再び絵筆を手にして没頭し始めてしまった。

 思わず前に出ようとした僕の肩に手が置かれる。


「今はやめておけ。オヴィリは邪魔されることを嫌う」

「分かり、ました……」


 ノア・ノアの忠告を受けて外に出た。

 だがここで諦めるわけにもいかない。FITSは決して強制されるものではないが、オヴィリが間違った理解で拒絶している可能性もある。その場合は解きほぐすのが僕の役目なのだから。

 少なくとも、僕自身はFITSがある方が幸いだと思っているし、それを彼らにも知って欲しい。


 その後は村の人々から話を聞いた。彼らはみな人懐こく、外の人間の僕にも優しかった。

 ただFITSに対する考えはノア・ノアと一緒だ。誰もがオヴィリを深く信頼しているのだと感じられた。

 オヴィリがなぜFITSを拒絶するのかを知らなければならない。彼を説得することさえ出来れば、ノア・ノア達も受け入れてくれるだろう。


「明日もまた来て良いですか?」

「客として、友としてならオヴィリも歓迎するだろう」




 翌日、僕は再び村を訪れた。オヴィリは昨日とは違い、住居の中で座り込んでいた。


「また来たのか」

「オヴィリやこの村のことをもっと知りたいんです」


 彼は僕をジッと見つめてきた。その眼には全てを見透かされるようだった。


「ふん、まあ良い。だがその煩わしい喋り方はやめろ。不愉快だ。お前の言葉で話せ」

「……分かったよ、オヴィリ。僕の言葉で話す」


「着飾った言葉はお前という存在を鈍らせるだけだ。アキラと言ったな。日本人か?」

「うん、そうだよ」


 オヴィリは昔日本に来たことがあるらしく、最近の様子について知りたがった。僕もこちらに住むようになってから長いが、今でも時折帰っているので話をすると、彼は驚いたり感心したりしていた。

 ノア・ノアが言ったように仕事の話でなければ、彼も気取らない様子で話をしてくれた。


「オヴィリという名前は本名なのかい? それにノア・ノアもそうだけど、どうしてタヒチ語?」

「ゴーギャンに詳しい人間ならその二つを聞けばピンと来るはずなんだがな。オヴィリもノア・ノアも彼の作品の名前に用いられている」


「ゴーギャンって芸術家の?」

「ああ、俺が一番好きな芸術家だ。文明から離れた自然に憧憬を抱いた気持ちは良く分かる。彼が滞在したタヒチや終の住処となったマルキーズ群島も訪れたぞ。まあ俺にとっての居場所はそこではなかったが。時代が違えば環境も変わる。何より俺はゴーギャンではないのだから、同じ土地に美を見出すとは限らない」


「本名は聞いても?」

「元の名前は捨てた、文明社会と一緒にな。今の俺は野蛮人オヴィリだ。それ以上でも以下でもない」


「……ノア・ノアだけオヴィリが名付けたのかい? タヒチ語なのは彼だけみたいだけど」

「あいつはとある部族のしきたりで捨てられた子供でな、それを見つけた俺が名付けたんだ」


 ノア・ノアはオヴィリの秘書あるいは世話人という様子だったが、どうやらそこには親子のような関係性があったようだ。

 また、オヴィリが絵を描いている時にはノア・ノアにも話を訊いてみた。


「オヴィリは一体何者なんだい? いつからこの村にいるんだ?」

「断絶戦争がまだ終わっていなかった頃、オヴィリが行き場のない人間を集めて作ったのがこの村だと聞いている」


 断絶戦争。2050年頃から世界各地で勃発した数多の紛争を表す言葉だ。

 僕にとっては生まれる前の話だが、悲惨な時代だったらしい。

 事の発端は、二十一世紀初頭から自分達の価値観を絶対視する集団が大小様々に蔓延るようになっていった為だ。

 世の中には激しい対立が次々と生まれていき、その有様はもはや分断Divisionに留まらず、交わりのない世界像に生きる断絶Abyssだと評された。

 その果てに、国や政府と呼ばれたものは瓦解していき、遂には全面戦争の火蓋が切って落とされた。そこでは核兵器や生物兵器が躊躇いなく用いられた。国の利益ではなく正義や信念の為の戦いなのだから、国際的なルールなど関係なかったのだ。


 断絶戦争が完全に収束したのは2086年だ。そこに大きく貢献したのが2076年に開発されたFITSだった。

 アメリカは最も断絶の激化が早かった国であり、それを危惧した研究者達によってFITSの基礎は作られた。初めは限られた州内で実施され、結果が出るにつれ拡大していった。それに比例して国内の断絶は収まっていき、その評判によって次々と輸出されていった。

 そうして開発されてからおよそ十年でFITSは全世界に広まり、断絶戦争は終結するに至ったのだった。


 オヴィリについて分かったことがある。彼は博識で文明にも通じている。村人達とは一線を画する理解度だ。それは彼が言った通り、元々文明社会にいたことが一つの理由なのだろう。

 ならばなぜ、彼は今のような暮らしを、野蛮人であることを選んだのだろう。断絶戦争を体験したならなおさら、FITSは受け入れるべきものではないのか。

 僕はいつしかオヴィリについてもっと知りたいと思うようになっていた。初めは仕事の為という意識だったが、今では彼の語る言葉や彼自身に惹かれていた。




 一週間が過ぎた頃、僕はオヴィリに完成した絵を見せられた。以前は描かれていなかった暗闇や蛇、蝸牛が新しく描かれている。


「アキラ、お前はこの絵をどう観る。正直に話せ。嘘を吐けば分かるからな」


 僕は何と言うか悩んだ。感覚としてはこの絵を良いとは全く思えない。世の中で見る物の方がずっと良さを感じる。だけど、それだけでは説明し切れない何かが胸中に渦巻いているようにも思う。それを何とか言語化していく。


「僕がオヴィリのことを知っているからかもしれないけれど、この絵には君の心のようなものを感じる。何か訴えかけてきている、そんな気がする」

「ふむ……」


 その答えを受けてオヴィリは考え込む。何かを試されているような気がした。

 やがて彼は口を開いた。


「お前を俺の弟子にしても良い。自然と共に生きていく術を教えてやる。それは俺の世界を知ることに繋がるだろう。どうだ?」

「ぜひとも頼むよ」


 即決した。迷いはなかった。彼のことを知れるなら。

 その日以来、僕は連日オヴィリのもとを訪れ、様々なことを指南してもらうようになった。


「お前はお前自身のことを知らなければならない」


 そう言うと、オヴィリは彼の住居の床一面を示した。


「ここからお前だけの場所を探すんだ。己の心を研ぎ澄ませ。お前だけのことにFITSは応えてはくれないぞ」


 さっぱり意味が分からなかった。僕はうろうろとして立ったり座ったり寝転がったりするが、彼は何も言わずその様子を眺めているだけだった。

 何日も無為な時間を過ごし続けた。僕はもう模索するのを諦めて、禅でも組むように脱力して身を委ねていた。そんなある瞬間、全身を貫くような不思議な感覚に襲われた。


「オヴィリ! 今何か分かった気がするんだ! こう、パズルのピースがパチンと嵌ったような、そんな感覚が!」

「そうだ、それがお前だけの場所だ。その感覚を忘れないようにしろ」


 他にもオヴィリには様々な無茶を押し付けられた。ただそれらは一貫して、僕が僕として生きていく為の指南だったように思う。

 そんな日々が一月も経過した頃、二人きりで向かい合って座っていると、彼はふと呟いた。


「俺にも師がいた。お前に教えているのは以前の俺が教わったことだ。彼の語る言葉や世界は魅力的で、ここでしか生み出せないものがあると感じた。世界を放浪していた俺がこの土地に根を下ろすようになったのはその為だ」


 それはオヴィリが野蛮人であることを望む一つの理由。だけど、決してそれだけではないだろう。だからこそ、僕は遂に真っ向から問いかける。


「オヴィリ。どうしてFITSを受け入れられないのか、教えてもらえないかな? これは仕事としてじゃない。僕が純粋に知りたいことなんだ」


 彼は少し考えた様子だったが、再び語り始めた。


「俺が生まれたのは断絶戦争を目前とした時代だ。既に火種が世界の各地に散らばっており、いつ爆発してもおかしくない、そんな危機感が空気中に漂っていた。家族、友人、学校、会社……どこを見ても衝突の連続だ。誰もが常に他者を敵と味方で切り分けて、敵を攻撃する。人と人の分かり合えなさを実感させられた。今の社会からは考えられないだろう?」

「そうだね……」


「俺はそんな中で芸術に出会った。彼らは作品を通じて必死に叫んでいると感じたんだ。ただの言葉じゃ伝わらない、色彩や音を通じてしか表現できない、そんな感情を誰かに届けようとしているように思えた。そこで気づいた。人と人の間に横たわる底の見えない断絶は今に生まれたものじゃない、それは元からあったものなんだ、と。俺にとって芸術とは、人と人の間に隔たる断絶を越えようとする営みだ。祈りと言い換えても良い」


 オヴィリが描いた絵のことを思い出す。確かに僕もそこから彼の魂の叫びのようなものを感じたのだ。それは五感を楽しませるだけの現代の芸術とは根本的に違っているように思う。


「その断絶はなくてはならないものだ。それがあってなお、目を背けずに分かり合おうとする意志こそが、尊く美しいものなんだ」


 それこそオヴィリの信念であり、芸術家としての矜持なのだと理解できた。


「FITSは確かに断絶を失くすものだろう。けれどそれは人の在り方を根本的に変えるものだ。今の個は個でなくなり、社会という集団が一つの大きな個となる。お前達は身体ごとの個性が残されるのだから何も変わらないと言うだろうが、俺からすればそんなものは傀儡に過ぎない。機械の神に己の心を委ね、社会の手足に成り下がるのはごめんだ。それが文明だって言うんなら、俺は野蛮人であることを望むさ、これからもな」


 僕は何も答えられなかった。共歩敷衍官として返せる言葉を持ち合わせていなかった。

 帰りしなにふと思う。誰もがオヴィリやあの村の人々のようで在れたなら、FITSはなくても上手くやっていけるのかもしれない、と。

 だけど、それは無理なのだ。世界は、人は、広がり過ぎた。増えれば増えるほど、どうしたって齟齬は生まれる。尊い教えも次第に歪んで伝わっていってしまう。

 以前の僕はこの社会を理想としていたが、今はこうならざるを得なかったように思えていた。




「ねぇ、あなた。本当に大丈夫なの?」


 夕食後、妻はぼんやり考え事をしていた僕を見て言った。


「最近は思い悩んでいることが多いわ。もう関わらない方が良いんじゃないの。だってその人達はFITSを拒絶しているんでしょう? もちろん当人の意思に委ねられるべきなんだけど……それって何だか怖い」


 彼女にとってはオヴィリ達は依然として断絶のある他者なのか。今やそんな存在は稀有だからこそ、怯えが生じてしまう。彼らと直接触れ合っている僕からすれば、恐れを抱くような相手ではないのだが。

 そして、今の僕もまた彼女の他者となりつつあるのかもしれない。

 妻のお腹は前よりも大きくなっていた。出産日はそう遠くない。

 もうここらが潮時だろう。僕は僕の日常に戻る必要がある。

 彼女を安心させようと口を開いた瞬間、異変が起きた。


「うっ……」


 突如、僕は眩暈を覚えた。半身を持っていかれたような喪失感。


「あ、あぁぁぁ……」


 呻き声に顔を上げると、妻が両手で頭を抱えて苦しんでいた。


「いない、いないの、神様が、どこにも……いやあぁあぁあぁぁぁっ!」


 錯乱した妻は台所に飛び込み、包丁を手にした。


「やめろっ!」


 僕は咄嗟に止めようとするが、簡単に振り払われた。恐ろしい力だった。正気の人間にはとても出せない力。

 妻は己の腹に包丁を突き刺す。何度も、何度も、何度も。

 血飛沫が周囲に激しく撒き散らされ、やがて血溜まりの上に倒れ伏して動かなくなった。


 どれだけ時間が経過しただろう。僕は呆然自失のまま家を出た。隣人を尋ねていく。誰もが死んでいた。首吊り、飛び降りなど方法は様々だったが等しく自死しており、幼い子供は親の手で殺されていた。

 そこで僕の視界に飛び込んできたのは、夜空を埋め尽くす紅いオーロラ。

 恐ろしくもあり、美しくもある、幻想的な光景。

 いつの間にか停電が起きていたので、それ以外の光源は存在しなかった。どうやら全ての電源が消失しているようだ。


 スーパーフレア。磁気嵐。コロナ質量放出。そんな言葉が脳裏をよぎった。

 何が起きたのか、ようやく理解する。磁気嵐による電波障害でFITSの接続が途切れたことが原因だろう。

 既にコロナ質量放出も起きており、起動している電子機器には誘導電流が発生して破壊されているはずなので、脳内のFITSも壊れているに違いない。

 当然エレベーターは動かず階段を下りてマンションを出ると、路上でもたくさんの人が死んでいた。

 地獄絵図だ。FITSに頼りきりになっていた人々は、突如接続を絶たれたことでその喪失感に耐えられなかった。僕がまだ少なからず正気でいられるのは、オヴィリの指導によってFITSの影響が薄くなっていたからだろう。


「これから、どうすれば……」


 僕は力なく壁にもたれかかり、ずるずると地面に座り込んだ。

 街は異様な静けさに包まれており、頭上には紅いオーロラが燦然と煌めいていた。




 翌朝、僕は車を手動運転して、オヴィリのもとまでやってきた。ノア・ノアの案内もなく村まで無事に辿り着けたのは運が良かったのだろう。


「オヴィリ!」


 村人達は話し合いをしていたようで、そこにオヴィリもいた。


「無事だったか、アキラ。外で何があった?」

「実は……」


 僕はこの目で見たものを必死に話した。何度も詰まったり同じことを繰り返したりしながら。それでもオヴィリは根気よく聞いてくれた。


「それで、車に乗せてるんだ……妻と、子供を……」

「運んでおこう。埋葬の準備もしておく。だからお前は今は休め。寝ていないのだろう」


 ノア・ノアに連れられ、強引に寝床へと入れられた。

 初めは眠れる気がしなかったが、気づけば意識を失っていた。

 目を覚ますと、夜になっていた。依然として空には紅いオーロラが満ちている。

 呆然と眺めていたところでオヴィリが姿を見せた。


「具合はどうだ?」

「……少しは落ち着いた、と思う」


「埋葬は自分で出来るか? もし難しいようなら俺達でやっても構わない」

「……大丈夫、自分でするよ」

「そうか。なら付いて来い」


 オヴィリに先導されて村の外れに行く。小高い丘となっている場所に墓地があった。その一角に穴が掘られており、傍には整えられた妻達の亡骸があった。色とりどりの花を手向けてくれている。それらを前にして、僕はようやく涙を流すことが出来た。

 無事に埋葬を終えて村に戻ると、オヴィリは言った。


「現状、このスーパーフレアの規模は不明だ。被害が局地的であれば、じきに助けも来るだろう。だがもし地球全土に及んでいるのだとすれば……もうどうすることも出来ない」


 その言葉に僕は改めて深い絶望感と孤独感を覚える。既に両親も友人も誰一人として残っていないのかもしれないのだ。

 それからは何をするでもなく日が過ぎていった。村人達はさほど困った様子は見せておらず、普通に暮らしていたのが唯一の救いだった。

 オヴィリはどうやらこういうことが起きた時の為に色々と用意していたらしく、ノア・ノアと一緒に何やら行っていた。

 一週間が過ぎ、紅いオーロラも消えた頃、オヴィリは僕に告げた。


「駄目だな。既に電波障害は収まっているにもかかわらず、反応がない。世界中の活動が停止しているとしか思えん。既に世界でFITSを導入していない人口は極僅かなことを考えれば、人類が再び栄えることはないだろう。これから緩やかに滅んでいくだけだ」

「そっか……」


「さて、ここからが本題だ。アキラ、お前はどうしたい?」

「……え?」

「俺やここにいる人間は高尚な理想など持ってはいない。野蛮人としてただあるがままに生きていくだけだ」


「だが」とオヴィリは僕の眼を見据えて言う。


「お前だけは違う。お前にはまだ文明人としての矜持や願いがあるはずだ。これまで頼っていた機械の神はもういない。だから自分で決めて、自分の力で歩んでいくしかない。このままここで俺達と同じように暮らしても良いし、外に生存者を探しに行き、文明復興を志すのも良い。全てはお前の自由だ」

「僕は……」


 考える。自分がどうしたいのか。今の状況に何を思っているのか。

 寂しい。悔しい。悲しい。色々な感情が胸の内に溢れている。

 その想いに応える、せめてもの行いとは何か。


「……僕は、僕達がいた証を残したい。例え人類が滅んでしまうのだとしても、僕達がここにいたことを、誰かに伝えたい、繋ぎたいんだ」

「『我々はどこから来D'ou venons-nous?たのか 我々は何者かQue sommes-nous? 我々はどこへ行くOu allons-nous?のか』」


 オヴィリは呟いた。それはゴーギャンの作品の名前だった。


「確かに、こんな形で滅んで全てが時間と共に消えていくのは締まらないな。俺も手を貸すぞ」

「本当かい!?」

「だがあまり期待はするなよ。俺もいつ死ぬかは分からんからな」


 そうは言いながらも、彼の身体からは活力が漲っているように見えた。

 僕とオヴィリは力強い握手を交わした。

 胸に抱いた細やかな希望。僕は再び歩き始める。

 FITSがなくても。救いがなくても。ただ、祈るように。




 かくして、僕はこの文書を残すに至った。

 今こうして読んでくれているあなたがどのような存在か僕には想像もつかない。

 こんな失敗をして滅んでいった、という記録だけでも残してもらえたなら幸いだ。

 それだけでもきっと、僕達は報われると思うから。

 この星に芽生えた人類という存在が未来に繋がることを、切に願う。

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