第18話
当然のように自らも靴を履こうとした伊桜を、仰天して止める。
「いいですよ! すぐ向かいですから!」
正直、これ以上二人きりだともう心臓がもたない。必死な断りが伝わったのか、伊桜は引き下がってくれた。雪葉は安堵して礼を述べる。
「今日はあの……すごく、楽しかったです。――で、では」
ぺこりと頭を下げて出て行こうとして、手首を掴まれた。
「待った」
振り向くと、伊桜が真っ直ぐな目で雪葉を見つめていた。
「次、いつ会える?」
熱のこもった瞳から視線を逸らせない。心臓の音が、体中に大きく響いていた。
「……ら、来週の、日曜日なら……」
次に会う約束をして、伊桜と別れた。
「きっと、何か、目的が……マルチ商法の勧誘とか、借金の保証人とか、宗教の勧誘とか……」
仲良くなってから契約に持ち込むのは、マルチ商法の
宗教勧誘に関しては、雪葉は実際にされたことがある。働き始めて一年経とうかという頃のこと、現場で積極的に話しかけてくれる他社の若い女性エンジニアがいた。休日に彼女と何度か食事し、友人のような関係になれたと感じた矢先、クリスマスパーティーに誘われた。
行ったら宗教の会合だった。会場に入る際、受付で名前や住所を記載させられ、靴下型の菓子袋とともにお布施の袋を渡された。入信するつもりはないとはっきり断ったが、『運気が良くなる』『人生が変わる』としばらくしつこく粘られた。
きっと彼女は嘘をついていたわけではないのだろう。入信することで人生が好転し、教えが生きる支えとなる人もいる。ただ雪葉にとっては申し訳ないが必要なく、そのまま彼女と連絡を断ったトラウマの出来事だ。
もしかしたら伊桜も同じかもしれない。好意だと勘違いして浮かれ、傷つかないよう、雪葉は冷静になろうと努めた。それでも家に帰り買い出しに行き、夕食をとり、さらに風呂に入りベッドの中で目を閉じた後でも、今日一日の出来事が頭に浮かんでは離れなかった。
×××
翌週の約束の日曜日は、また昼頃から伊桜と会った。今度は二人で駅付近のイタリアンへ食事に行った。帰りは雑貨店に寄り、伊桜が欲しいという自宅用の飲み物グラスの買い物に付き合った。それからスーパーさがるまーたに寄り、買い出しの荷物持ちを手伝ってもらった。『俺の買い物に付き合ってくれたお礼』と言われたら強くは断れず、作戦が上手いと雪葉は思った。
どちらにせよ、よくわからない休日だった。何か罠に引っかけるために親密さを上げようとしているならば、伊桜の作戦は上出来だ。雪葉は心の底で警戒しつつも、やはり伊桜との時間を楽しいと感じてしまった。
翌週の日曜日も誘われた。今度は映画はどうかと言われた。友人も恋人もいない休日など、家事をして寝て本を読む程度の予定しかない。雪葉は誘いに頷いた。
日曜日に伊桜と予定があると思うと、平日の仕事がいつもより楽しかった。雪葉の新しい仕事場は中規模のシステム会社だ。手持ちの案件は、地元で三店舗ほど展開している服飾店のシステム製造で、雪葉は
SQLとはデータベースの処理で使用する言語のことで、例えばデータベースにある各テーブルに値を登録するために、行を追加したり更新したり、または削除したりするために使用する。
仕様書に沿い、行操作に必要な条件を追加していく。追加は顧客番号が新規追加の時だけ、更新する時は合わせて必ず最終更新日の項目をシステム日付で上書くなど、あとは最終更新日が五年以上の顧客は深夜に流すバッチで一斉削除する等々、顧客の要望に合わせた処理を加えていく。そして完成したら、正しく動作するかダミーデータで試してみる。
自分が求める通りプログラムが動いてくれた時は、嬉しい。雪葉はプログラミングの作業が一番好きだった。設計書作成やテストの工程は、成果物を顧客が確認するためとても重要なのだが、やはりプログラミングが、システムを作っているという実感が一番ある。
その週の金曜日には歓迎会があった。人並みの愛想をもって卒なくこなし、同時に一緒に働くメンバーの性格や情報を把握しつつ、自分の情報も壁を作っていない程度に明かす。
あまり仲良くなり過ぎないのも大切だ。一度、一緒に働いていた年上の男性エンジニアに、飲み会の時に連絡先を訊かれたことがある。知り合った仕事相手と連絡先を交換するくらい普通かなと、その時は安易に交換した。すると、返信する前に次から次へと長文メッセージが送られてくるようになり、困った。
本人としては、話し相手が欲しかっただけのようだったが、それ以来雪葉は、相手との距離感に特に配慮するようになった。働き始めて三年もする頃、ようやくあらゆる場で的確な身のこなしができるようになった気がする。人付き合いに憶病になったのは、正直、この長文メッセージ事件や宗教に誘われた件が尾を引いているところもある。
三時間ほどの飲み会を乗り越え、家路についた。スーパーさがるまーたで明日の朝に食べるパンと牛乳を買い、慣れた道を行く。前方に、伊桜のマンションが見えてきた。
(伊桜さん、もう、帰ってきてるかな……)
それとも、今日は金曜のため、伊桜も飲み会だろうか。今回の現場は、土日勤務がなさそうで安心していた。日曜の予定が潰れることはなさそうだ。
翌日の土曜日は、駅前のデパートへ行った。明日の映画へ着ていく服を買うためだ。映画は、電車で数駅の大型商業施設へ観に行く。
少し、外見に気を使おうと思った。午後中かけて、上下の服を新調した。スカートを穿く勇気はなかったが、上の服は、白地を基調としたレース付きの可愛いらしいものにしてみた。お出かけ用という出で立ちにはなったはずだ。ついでに靴も買った。髪型も、簡単なハーフアップにでもしようかと、髪留めを購入した。
帰る頃には日が暮れていた。揃えた一式は、やや気合いが入り過ぎている気もするが、それは雪葉基準であって、外見に気を使う女性ならば基礎防備に違いない。家に着いてからは、新しい靴の靴擦れ防止に、部屋で靴を履き歩行練習をした。
満を持して迎えた日曜日の昼下がり、仕度を終えた雪葉は、部屋で伊桜を待つのが落ち着かず、アパートの外に出ていた。ハナミズキの花は盛期を過ぎ、葉の緑が大部分を占めている。あまり待たずに、伊桜は現れた。
「おまたせ。部屋で待ってて良かったのに」
「いえ……」
二人で駅へと向かう道すがら、伊桜はさりげなく言った。
「今日、いつもとちょっと違うね」
「そ、そうでしょうかっ」
顔が熱い。赤くなっていると、鏡を見なくてもわかる。いつもの恰好で来れば良かったと、早速後悔した。そうすれば、少しは心が穏やかでいられたかもしれない。慣れないこと尽くしで、心労が甚だしい。
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