第8話 あたしの気持ちは

「ねぇ、あんたのそのゴリエっての、何とかなんないの?」

千紗は、菊池に文句を言った。前からずっと思っていたけど、いくらあだ名だっていっても、ゴリエはひどすぎる。

「じゃあ、なんて呼んだらいいんだよ」

菊池にそう尋ねられ、千紗は改めて考えてみた。


「そうだなぁ・・・・」

と言ったきり、千紗は、なぜか急に言葉を失った。ずっと目をそむけてきた問題が、突然、目の前に姿を現した感じだった。千紗はひどく混乱したまま、口を開いた。


「あたしは、どう呼ばれたいんだろうね。あたしは、『何さん』になりたいんだろう。だって、父親は、あたしたち家族より、別の人を選んだんだよ。そんな人の苗字を名乗れる? そんな、お母さんを裏切るようなこと、できる?

 でも、急に佐藤になれって言われても、あたしできない。だってあたし、ずっとずっと権藤だったから。あたしの名前は権藤千紗だって、体が覚えちゃってるんだもの。だから、みんなに『佐藤さん』とか『さっちゃん』と呼ばれると、本当はすごく嫌だった。みんなで寄ってたかって、あたしを別の人間にしようとしてるみたいに思えて、あたし、すごく不愉快だった。わざわざ自分から佐藤って呼べって宣言したくせに。ばかだよね、あたし」

 千紗は、両の目から一粒ずつこぼれ落ちた涙を、すばやくぬぐった。そして、自分が泣いたことを、菊池が気付かなければいいと思った。多分、気付かなかったと思うけど。


 それにしても、どうして、今ここで、こんなことをしゃべりだしたのか、千紗は、自分でも不思議だった。他に人がいなかったから? そして、相手が菊池だったから? 

 その時、ずっと黙っていた菊池が、口を開いた。

「無理に決めなくてもいいんじゃねえの」

「へ?」

「別に今、無理して決めなければいいじゃん。迷ったままでいれば。そしたらそのうち見えてくんじゃないの、なんか答みたいなもんが」


 千紗は、夏休みを過ぎて、急に背が高くなった菊池を見た。ちょっと縮れた真っ黒な髪も、意志の強そうな目も、頑固そうなあごも。そのすべてが、いま、特別な光を持って、千紗の心の中で一杯になった。あたしは菊池が好きだ、と、千紗は、はっきり感じた。胸が苦しいくらい、どうしようもないくらい、あたしは菊池が好きなんだ。


「ま、俺はお前をゴリエって呼ぶことに、決めてっから」

千紗の思いなど知るよしもない菊池は、あっさりとそう宣言すると、千紗をひとり廊下に残して、さっさと教室に入ってしまった。


「ゴリエはゴリエで、問題なんだけどなぁ…」

ひとり廊下でつぶやきながら、しかし千紗は、少しも嫌な気持ではなかった。菊池が好きだとはっきりわかった今、目の前で新しい大きな扉がぱぁっと開け放たれたような、そんな感じだ。なんだか無性にわくわくする。でも、それと同じくらい怖かった。


 教室から、菊池の「今日は終わりにして、帰ろうぜ」と、呼びかける声が聞こえた。がやがやがたがたと、机を並べ直す音が聞こえる。千紗も教室に戻らなくては。


 暗い廊下から急に明るい部屋に入ったせいか、千紗の目には、教室の風景が、さっきとは違ってひどく眩しく見えた。それだけではない。帰り支度をしながらはしゃぐクラスメートも、天井にぶら下がるおんぼろな電灯も、壁も黒板も、そう、さやかまでが、なんだかひどく生き生きと、鮮やかに見えるのだ。その理由を、千紗は知っている。それはここに、菊池がいるからだ。菊池が、笑って立っているからだ。


 菊池を好きになって、前よりも苦しくなるかもしれない。辛いことも、増えるかもしれない。でも、何が来たって、受けて立つ。絶対に、へこたれない。それぐらい、大切な思いなんだ。

 千紗は、自分の高ぶる思いに駆られて、ガッツポーズをしようとこぶしを振り上げかけたが、教室の向こうでさやかと親しげに笑う菊池を見て、今さっき誓ったばかりの決意もどこへやら、

(でも、学園祭が終わった後はどうなるのかなぁ)

と、早くもへこたれ始めるのであった。


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あたしが千紗だ、文句あるか2 たてのつくし @tatenotukushi

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