30.州都


 トクサの慰労訪問をもって、今年度におけるメイサの公務は終了した。

 数日滞在した領事館を早朝に出発し、州都に着いたのが夕方過ぎ。町の入り口で馬車を降りようとしたメイサに、先に外に出ていたジェインが手を差し伸べた。

「雪で足場が悪くなっています。気をつけて」

「ありがとう」

 豊かなブロンドの髪からふわりと、花のような匂いがした。

 メイサの鞄を右手に提げて歩き出した彼女、ジェインは、ラザロが雇ったハッコウ傭兵団の一員だ。本来は情報収集を主な任務とする密偵なのだが、現在は団長命令でメイサの公務に随伴している。事実上の護衛である。

「ありがとう、ジェイン。おかげで助かりました」

「仕事ですから」

 淡々とした受け答えも今では気にならない。近づきがたい印象とは反対に面倒見のいい女性なのだ。トクサに滞在中はまるで秘書のように、日程確認や書類の準備、着替えの手伝いまでしてくれた。

 街角で何人か、家路につく足を止めて空を見上げていた。

 歩きながら、メイサも視線を上に向けた。空にうっすら広がる虹色の雲。これは彩雲と言うのだと、馬車の中でジェインが教えてくれた。吉兆とも、凶兆とも取れるという。どちらにせよ変化の前触れということだろう。心が洗われるような綺麗な空だった。

 ヤースン家の玄関前で、ジェインは鞄を下ろした。

「お疲れさまでした、メイサ。お父上には、私から団長を通じて報告しておきます。今夜はゆっくり休みなさい」

 では、と踵を返そうとするジェインを、メイサは急いで引き止めた。

「待って、ジェイン」澄み渡る空のような碧眼に見つめられて、緊張しながら胸の前で両手を握り合わせる。「その、もしよかったら……夕食なんていかがですか?」

 わずかに思案したあと、ジェインは頬を緩めてクスッと笑った。

「ええ、メイサ。ご馳走になろうかしら」

「はい! どうぞあがって。ずっとお礼をしたかったの」

 メイサは玄関を開いていそいそと客人を迎え入れた。

 扉が開く音を聞きつけて、家政婦たちがパタパタと出迎えにやって来た。彼女たちは安堵に顔を綻ばせながらメイサを取り囲んだ。

「まあまあ、お嬢様。お帰りなさいませ!」

「お疲れさまでした。お体の調子は大丈夫ですか?」

「こんなに手を冷やして。すぐ湯殿の準備をしましょうね」

 メイサは各々の顔を見回して微笑んだ。前回ほど心配をかけずにすんだようだ。コヌサから帰って来たときは、三人とも涙目だった。

「ただいま。みんな、留守中に変わりはなかった?」

 そう尋ねると、彼女たちは待っていましたと言わんばかりに笑顔を見せた。

「いいお報せですよ、お嬢様。ホノエ様が帰っていらしたんです」

「スイハ坊ちゃんと一緒に。それに、お客様もたくさん!」

「こんなに賑やかなのはいつぶりでしょうねえ」

 まさかの吉報にメイサは飛び上がった。

 出かけてから音沙汰のなかった弟に、行方の知れなかった次兄まで。

「どこ? どこにいるの?」

「二階のお部屋に」

 駆け出す寸前、メイサは辛うじて振り返り、ジェインに断りを入れた。

「ごめんなさい、ジェイン。客間で寛いでいて」

 階段を一段飛ばしで駆け上がる。もし継母が生きていたら目を吊り上げて「はしたない」と叱責を飛ばしたことだろう。今はどうか許して、とメイサは心の中で手を合わした。

 二階の東側。半地下から運び入れた本でいっぱいの二部屋、その扉が開いている。

 張り裂けんばかりに波打つ胸を押さえて、恐る恐る中を覗く。

「ここの解釈は逆だ。時代が前後するだろ」

「翻訳のせいだよ。兄さん、そっちに辞書置いてない?」

 スイハだ。分厚い本を開き、黒髪長髪のヨーム人と膝をつき合わせて議論している。奥で本を整理している後ろ姿はホノエだ。

 膝から力が抜けた。座り込んだメイサにいち早く気づいたのは、本を抱えて立ちあがったホノエだった。息を呑んだのも束の間、彼は後ろめたそうに顔を曇らせた。

「メイサ……」

 頁にのめり込んでいた弟が、その声に弾かれたように顔を上げた。

「姉さん!」本の山を跨ぎ、スイハは膝を突いてメイサの肩を支えた。「おかえりなさい、姉さん。それから、ただいま」

 照れくさそうに笑うスイハは、出かける前より一回りも二回りも大きくなったように見えた。声を詰まらせながら、メイサは弟を抱きしめた。



 即刻全員、湯殿で体を清めて清潔な服に着替えること。

 本の山に埋もれて埃まみれになった面々に向けて、メイサはそう言って譲らなかった。

「その格好でお城に上がるなんて許しません。ちゃんとなさい」

 泣きはらして赤くなった目にはまだ涙が残っていた。そんな目で睨まれたら言うことを聞かざるをえない。心配をかけた負い目もある。スイハ自身、今の自分たちが病人の部屋を訪ねるのに相応しくないという自覚はある。なにせ、ミアライから州都までほとんど休みなしの強行軍だった。体は毎日拭いていたが、風呂などもう何日も入っていない。湯殿が恋しいのは事実である。

 神代写本を読み解く作業を一時中断して、彼は久鳳組のいる隣の部屋に向かった。

 机に本を広げたサクの後ろから、セン=タイラが家庭教師のように説明を補足している。おおまかな世界史と地理を学んでいるのだ。

 ミアライを出発してからというもの、ずっとこの調子である。

 道中の教師役を務めたのはホノエだ。西州の歴史を知りたいというサクの要望に、次兄は十全に応えた。一緒に授業を受けたスイハは、わかりやすい要約に感銘を受けると同時に、より深い尊敬の念を覚えたものだ。手元に資料も教科書もないのに、ホノエはまるで語り部のように西州の歴史を諳んじて見せ、二人からの質問にも丁寧に答えた。図書寮の第二の書庫という呼び名は伊達ではない。次兄は過去に読んだ書物の内容をすべて正確に記憶し、理解しているのだ。

 対するサクの学習意欲と飲み込みの早さは凄まじく、途中から、スイハはついていくのがやっとだった。口頭のみの勉強会は、普段と頭の使う場所が違うらしい。あれは今までにない、新鮮で面白い感覚だった。

 スイハはコホンと咳払いした。

「すみません。いったん休憩して下さい」

 部屋の片隅で宮城の見取り図をジッと睨んでいたトウ=テンが顔を上げた。

 姉が帰ってきたことを伝えると、セン=タイラはサクに一言断りを入れてサッと部屋を出て行った。

 スイハは入れ替わりにサクに近づいた。

「今度はなにを調べてたの?」

「ヨーム王国のことを教わってたの。ユリウスの名前があったから」

 ユリウスといえば、ヨームを建国した初代国王の名前だ。机上に広げられた本の頁に目を落とす。ヨーム=サナン間の戦史のようだ。

「ホーリーの知り合い?」

「子どもたちのうちのひとり」指先で頁をめくる。「ヨーム王国を象徴するこの紋章は、大鷲の鉤爪なんだって。ユリウスは小さいときから鳥が好きだったの」

 ユリウスの名前を呼ぶサクの声は、嬉しそうに弾んでいる。

 なんと答えたものか迷っているうちに、扉がノックされた。隙間からメイサが遠慮がちに、様子を窺いながら顔を覗かせる。

「たった今、タイラ様から伺ったのだけど……」

 あの野郎、やりやがった。

 スイハは心の中で毒づいた。姉には、きちんと順序立てて説明しようと思っていたのに。

 サクの姿を見て、メイサが目を見開く。

 初対面で互いに困惑している気配を察して、スイハは咄嗟に間に入った。

「サク。この人は僕の姉さん。メイサ姉さんだよ」

 紹介されてもなおサクは不可解そうに姉弟の顔を見比べていたが、スイハが不思議に目を瞬くと、はたと我に返ったように椅子から立ちあがった。

「はじめまして。メイサ」

「姉さん。この子はサクナギ。その人は用心棒のトウ=テン。ミアライから来てくれたんだ。……姉さん?」

 わなわなと震えていたかと思うと、メイサは顔を真っ赤にして頭を下げた。

「ごめんなさい! まったくお構いもせずに……」額に汗を浮かべて、いっぱいいっぱいといった様子である。「すぐ湯殿にご案内いたします!」

 ペコペコと頭を下げる姉に腕を掴まれて、スイハは無理やり廊下に連れ出された。

 虚を突かれたというか、この反応は予想していなかった。いくら相手が西州公の遺児とはいえ、なにもここまで恐縮しなくてもいいだろうに。

「姉さん。そんなに慌てなくても……」

「スイハ。あ、あなたって子は……」

 スイハはギョッとした。震える両手を深刻に握り合わせる姉は、涙目だった。

「年頃の女の子を、こんな埃っぽくて寒い部屋で、何時間も過ごさせるなんて……」

 メイサは、もてなすべき客人に無作法を働いてしまったことを恥じているのだ。

 母から厳しい淑女教育を受けた姉である。自分の落ち度ではないのに、責任を感じてしまったようだ。羞恥心で真っ赤だった姉の顔はいまや蒼白だった。

 姉の後ろではセン=タイラが心配そうにソワソワしている。

 どう宥めたものかと思案していると、サクが部屋から出てきた。

「突然お邪魔してごめんなさい」

 メイサを落ち着かせるためだろう。穏やかな声で、ゆっくり喋ってくれている。

「改めて、サクナギです。ミアライで兄と一緒に薬師をしています。はじめに断っておくんだけど、西州公になるつもりはありません。帰ったら、たくさん仕事があるから」

 共に暮らす家族と、これまでの生活と、帰る家がある。西州公の遺児ではなく、ひとりの人間としてここにいるのだと。

 縮こまっていたメイサの肩から、緊張が抜けていく。

 それを見て、サクは安心したように微笑んだ。

「カルグをこっそり治して、こっそり帰るつもり。カルグ以外の腐傷患者たちを助ける方法も、ちゃんと考えてあります。それまで騒ぎにしたくないの」

「姉さん。父上にバレないようにカルグ兄さんと連絡を取りたいんだ。力を貸して」

 潜伏するだけなら義塾跡でもよかった。わざわざ実家に立ち寄ったのは、メイサの協力を得るためだ。

 そうするべき、と最初に提案したのはホノエだった。

 ラザロ=ヤースンの望みは次代の西州公。しかし、それは叶わぬ夢だ。その理由を説明し、納得してもらうために、サクは対話を望んでいる。

 そこでメイサの出番だ。

「父上はメイサに甘い。メイサが間に入ってくれたら、落ち着いて話を聞いてくれるだろう」

 万が一、交渉が決裂したとしても人質として機能する。

 この発想は、ホノエのものではない。次兄の提案を聞いたとき、スイハ自身の頭から自然と出てきたものだ。

 我ながら最低だ。自己嫌悪で吐き気がする。

 スイハはキリキリ痛む胃を押さえた。

 あらゆる可能性を念頭に置かなければならない。カルグには見張りがついている。父が雇い入れたハッコウ傭兵団の団員が。治療の邪魔をすることはないだろうが、監視役である以上、雇い主に状況を報告するはずだ。

 これは家族会議ではない。ラザロ=ヤースンより優位に立ち、対話の席に着かせる。この成否に西州の未来がかかっているのだ。

 感情を差し挟む余地はいらない。理解を得られず、軽蔑され、汚濁に塗れたとして、自分の何が損なわれるというのか。どうせ親からも忌み嫌われる鬼子ではないか。これ以上、誰に嫌われたところで。

 不意に頬を挟まれて、スイハはビクッと体を強ばらせた。

「……なんて顔してるの」

 そう言って、メイサは微笑んだ。子どもの頃から何度も見てきた笑みだ。スイハはもうそれだけで、姉が自分に味方してくれることを悟った。

「父上に内緒にしたいのね。わかりました。連絡なら方法があります。大丈夫、姉さんに任せなさい」

 頬を包む手の温かさに、鼻の奥がツンとなった。

「……うん。ありがとう、姉さん」

「お疲れさま。お風呂とご飯にしましょう」

 それから一時間後。

 町の公衆浴場から戻ってきた男性陣を迎えたのは、料理の皿がいっぱいに並べられた長テーブルだった。そこにはすでにメイサ、サク、あと見覚えのない金髪の女性が、三人並んで席についている。なにかしら話をしていたようだが、扉が開くなり、サクが席を離れてトウ=テンのところへやって来た。

 頭の先から爪先まで洗われてホカホカしている。

「テン。隣に座ろ」

 ガタン、と椅子が音を立てた。

 立ちあがった金髪の女性が、男性陣に驚愕の眼差しを向けながら呆然と呟く。

「四位……!」

 その言葉が該当する人物は一人しかいない。

 メイサを除く全員の視線がトウ=テンに集まる。

 怪訝そうに眉根を寄せて女性を凝視したあと、彼は薄く目を見開いた。

「おまえ……ジェンか?」

「今は……ジェイン。ハッコウ傭兵団のジェインよ」

 スイハは密かに息を呑んだ。ハッコウ傭兵団から、姉の護衛に団員が一人ついていることは出発前に把握していたが、こんな妙齢の女性だとは想像もしていなかった。見たところ姉の二つ、三つ年上だろうか。スラッとした立ち姿が凜々しい。

「生きていたの……」

 それきり黙ってしまった二人を、サクが交互に見やる。

「知り合い?」

「昔に少しな」

 後腐れのなさそうなトウ=テンとは反対に、ジェインは心中複雑そうだった。

 各々が席に着こうと動き出したとき、ナサニエルがスイハに耳打ちした。

「あの女、魔道士だ」

 彼は、わざわざジェインの真向かいに座った。

 テーブル越しに無言で睨み合う二人を、サクが物言いたそうに見つめている。ハラハラした表情から、水面下で、常人には感じ取れない何かが起きているのだとわかった。

 先に視線を切ったのはジェインのほうだった。目を伏せた一瞬、彼女は悔しそうに歯噛みした。どうやら目に見えない攻防はナサニエルの勝利で終わったらしい。

「なに? どゆこと?」

「後だ。飯が冷める」

 それもそうだ。ナサニエルに倣って、スイハも料理に手をつけた。

 お腹いっぱいになるまで食べて飲んで、なかなか楽しい晩餐だった。メイサと顔を合わせてから居心地が悪そうにしていたホノエも、家政婦たちに世話を焼かれるうちに、やっと帰ってきたという実感が湧いたようだ。しかし緊張が解けても、心を覆う雲が晴れたわけではない。ヒバリに置いてきたゼンとウノがもしこの場にいたのなら、と。次兄の浮かない顔を見ながら、スイハはそう考えずにはいられなかった。

 台所まで料理の皿を下げるのを手伝い、食堂に戻る途中、スイハは階段の陰に隠れた。

 玄関前で魔道士たちがまた、睨み合っている。

「そんなに急いで帰ることないだろ。もう少し付き合えよ」

 飄々としたナサニエルに対して、ジェインは臨戦態勢に入っているように見えた。

「……聞きしに勝る腕前ね。はじめてよ。〈風のたより〉を妨害されたのは」彼女は長い息を吐いたあと、キッとナサニエルを睨んだ。「なぜ邪魔をする?」

「ラザロ=ヤースンに情報を流されると困るんでな」

「それは団長が判断することよ。私は見たままを報告するだけ」

「その目で?」

「黙りなさい、〈忌み者〉のナサニエル。それ以上踏み込んだら後悔させてやる」

「やってみろ、ネズミめ」

 なにがなんだかわからないが、剣呑な空気だ。止めないとマズい。

 スイハが足を踏み出そうとしたそのとき、台所から竹で編まれた箱を手にしたメイサがパタパタと戻って来た。

「ごめんなさい。ネズミって聞こえたけど、そっちに行っちゃったかしら?」

 バチバチに火花を散らしていた魔道士たちは同時にスッと矛を収めた。

 ジェインが何事もなかったかのように応じる。

「いいえ、メイサ。台所でネズミが出たの?」

「あ、ううん。出たというか……」

 キョロキョロと辺りを見回したかと思うと、メイサは花瓶が載った棚に素早く近づいた。

 まさか、とスイハは背伸びして姉の手元を覗いた。竹籠の中に、紐のようなものがスルッと入っていくのが見えた。

 やはりそうだ。

「姉さん」

 スイハが確認の意味を込めて声をかけると、メイサは頷いた。

「兄上と連絡がついたわ。みんなを集めて」



 周囲の視線が注目する中、メイサが竹籠の蓋を取った。その中身は、応接間に集まった者たちに少なからず驚きを与えた。

 毛艶のいい二匹のネズミだ。それぞれ首にリボンをつけている。

「ユニのお友達なんです。とても賢い子たちで、この屋敷と宮を往復して手紙を運んでくれるの」

 ネズミたちは立ち上がり、功績を誇るようにムンと前足を掲げた。

「ドヤッてやがる……」

「ネズミが言葉を理解してるの?」

 まさかの協力者に魔道士たちは衝撃を受けている。久鳳組は早くも順応したのか、ネズミたちを興味深く観察する目つきになっていた。サクなど、チッ、チチッと鳴く声を聞いて、相づちを打つように頷いている。

「赤いリボンがバンブ三世、青がチリコ。バンブ一族は祖父の代からユニの友人。力になれて嬉しい」

 相づちどころではなかった。サクにとって、動物の声を聞き取ることは造作もないことなのだ。

 指でチリコ(青)を撫でていたメイサは、声を弾ませた。

「この子たちの言っていることがわかるのですか?」

「うん」

「ああ、ユニが聞いたら喜びますわ。同じ人がいるなんて」

 感激するメイサの横で、ホノエが小さく咳払いをした。

「それより、メイサ。兄上はなんと?」

「あっ、そうね。読み上げます」

 小さな紙片に書かれた伝言は単純明快。時刻と場所だ。

「奥の宮か」

 何者も立ち入ることを禁じられた最奥の庭。もう十年以上前のことになるが、スイハが初めてユウナギを目にした場所でもある。ここならば警備もいないし、侵入経路としてうってつけだ。

 しかし。

「……どうやって行く?」

 州都に鎮座する宮城は、水で満たされた堀に囲まれた、いわば陸の孤島だ。水上に架けられた大橋が唯一の通り道である。門衛の目を盗んで正面から入るのは不可能、とまでは言わないが、そこから人目につかずに城内を進むのはさすがに厳しい。

 指定された時刻までもう二時間もない。ネズミの鳴き声が沈黙の深さを思わせる。

 セン=タイラが右手を挙げた。

「状況を整理しましょう。まず指定された場所へ向かう者ですが、治療を行うサクナギ殿。そして用心棒のトウ殿。この二名は外せません。ナサニエル殿であれば、お二方を空から運べるのでは?」

 ナサニエルが露骨に顔を顰めた。

「簡単に言うな」

「以前、スイハ殿を背に乗せて飛んでいたではありませんか」

「体格差を見ろって。飛んだって重さは感じるんだ。ただでさえ移動で疲れてるのに、サクのあとにトウ=テンまで運ぶ自信はない」

 少しでも馬車の速度を上げるために、ナサニエルは道中のほとんどを飛行していたのだ。

「俺のことは気にするな」トウ=テンが口を開いた。「堀を渡る手段はある」

「本当ですか」

 驚愕の声を上げたのはセン=タイラだが、思いは全員同じだっただろう。

 空からは無理、正面突破は分が悪い。残る手段は堀を泳いで渡ることだが、真夜中の寒中水泳など正気の沙汰ではない。

 しかし、サクと顔を見合わせて頷くトウ=テンは笑みさえ浮かべていた。

 スイハは体が熱くなるのを感じた。

 この高揚と、安心感はなんだろう。この人が言うことなら間違いない。うまくいく。そう信じさせるものが彼の笑みにはあった。理屈を抜きにして、人の心を掴んで離さない引力のようなものが。

 セン=タイラは黙って敬礼の姿勢を取り、嬉しそうに目を細めた。

 その後の話し合いで、スイハとナサニエルはトウ=テン、サクに同行。同時刻、ホノエはラザロを訪問。メイサはカルグと連絡を取りながら、セン=タイラと共に屋敷で待機する運びとなった。

 この場で唯一の部外者といえるジェインは、段取りを聞き終えたところで大儀そうに肩にかかる髪を払った。

「余計なお世話だろうけど言わせてもらうわ。カルグにはハッコウ傭兵団から一人、見張りがついてる。警護の名目でね。ラザロ=ヤースンの命令よ」

「そういうあなたは?」

 メイサに護衛がついた経緯は知っている。ラザロとハッコウ傭兵団団長の密談を盗み聞きしたからだ。それを一切顔に出さず、スイハはしれっと聞いてみた。

「姉を見張ってたんですか」

「私の仕事はメイサの護衛です。彼女を守るのが私の役目」

 後ろ暗いことなど何もない、とジェインは胸を張る。

 ナサニエルが素早い目配せと共に小さく頷いた。嘘ではない。スイハはじゃあ、と改まって口を開いた。

「ジェイン。あなたは今夜、うちに泊まって下さい」

「従う理由がありません。屋敷は安全よ」

「セン=タイラと姉さんを二人きりにしたくないんです」

 彼女は不可解そうに眉を上げた。

「彼はメイサの婚約者でしょう?」

「そうです。婚約してるだけで、まだ結婚してない」

 メイサが言葉もなく額を押さえた。セン=タイラは顔色ひとつ変えずに聞き流している。

 ジェインはやれやれと肩を竦め、メイサの隣に腰掛けた。

「本気にしないで、ジェイン」

「いいのよ。心配性な弟を持つと大変ね」

 申し訳なさそうにするメイサの肩を叩き、彼女はスイハに向き直った。

「一度引き受けた仕事は完遂するのがハッコウ傭兵団の流儀です。でも誤解しないで、スイハくん。私は君の敵ではないけど、味方ってわけでもないの。これから〈風のたより〉で団長に状況を報告します。あなたが帰ってきたこと、カルグの治療のために城内に侵入すること。それから……四位のこともね」

「トウ=テンが、生きてるってことまで……?」

 スイハはチラリとトウ=テンの顔色を窺った。

 彼は表情を変えず、たった一言。

「価値のない情報だ」

 切って捨てる声には感傷の欠片もない。

 ジェインは一瞬呆然としたあと、たちまち耳まで赤くなった。

「なによ、価値がないって!」

 前のめりになって感情的に食ってかかる。縋るようにトウ=テンを見つめる碧眼の奥には、癇癪を起こす寸前の、苛烈な感情が渦巻いていた。

「みんな忘れてない! だって久鳳の四位は……」

「俺はもう四位じゃない」

 取りつく島もなく突き放されて、ジェインはギュッと下唇を噛みしめた。言葉にならない悲しみに寄り添うように、メイサがその肩を抱き寄せる。

 二人の過去に興味がないわけではないが、今は西州が真の意味で復興できるかどうかの瀬戸際である。

 ホノエが気まずそうに目をそらしながら、サクに話しかけた。

「腐傷の治療には時間がかかるでしょうか」

「〈CUBE〉が散布してくれたナノマシンを励起したから、カルグを含む腐傷患者たちの状態がこれ以上悪化することはないけど……。なにが心配?」

「兄は、腐傷において余命の限界と言われる半年を乗り越えました。そこから先は意志の力だけで持ち堪えてきたようなもの。果たして、治療に耐えられるだけの体力が残っているかどうか……」

 長兄の身を案じるホノエは悲観的だ。

 サクはその場しのぎの気休めは言わなかった。

「カルグが一年近く生きてこられたのには、理由があると思ってる。意志の力とかじゃなくて。だから、具体的にどうしていくかは……診療録を見てから。これまで治療に当たってきた典薬寮の医術師たちと相談して決めます」

 スイハは胸がザワザワした。大人びた口調で話すところをみるたびに、記憶の影響を考えずにはいられない。州都までの道中、空に薄く広がる雲が虹色に染まったときにも、同じ感覚を味わった。

 あのとき。

 ――ありがとう、〈CUBE〉。

 空を見上げながら、サクはそう呟いた。過去に思いを馳せる、胸が締めつけられるような遠い眼差しで。それはとても、同い年の女の子に出せる貫禄ではなかった。

 サクは、教導官ホーリーとは別人だ。自己犠牲によって国を支えてきた歴代の西州公とは違う。それでも記憶が戻る前と後では、どうしても同じではいられない。

 杞憂であれ、と願う。

 願うだけで叶うことなどこの世にはないと知りながら。

 指定された時刻まで、あと一時間。

 トウ=テンとサクを呼びに行ったスイハは、部屋の前まで来て扉に耳を当てた。

 中からこんな会話が聞こえた。

「疲れたろう」

「うん。でも平気。頑張るって決めたから」

「無理はするなよ。俺にできることがあれば何でも言え」

「じゃあ、一緒の布団で寝たいな」

「それは駄目だ」

「なんでもって言った!」

「もう小さな子どもじゃないんだ。慎みを持て」

 いつもの二人だ。

 血の繋がりはないが、共に過ごす時間で育んだ絆がある。守り、守られる関係でありながら、背中を預け合うこともある。不安や猜疑心で相手を試すようなことはない。彼らにはもはや、そんなことをする必要がないのだ。

 サクの家で感じた、心地よい静寂を思い出す。あそこは、互いがそこにいることを許し合った人たちの優しさで満ちていた。

 スイハはグッと顎を引いた。

 はるばる州都まで来てくれた彼らの覚悟に、必ず報いよう。

 扉をノックするために、彼は腕を上げた。

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