27.サクナギ


 空がこんなに高くて広いことを、はじめて知りました。

 澄み渡るスカイブルーと、真っ白な雲。眩しいほどの緑に覆われた山々。木々のあいだを駆け抜ける爽やかな風。ざわざわと葉が擦れる音に耳を澄ませると、懐かしいような切ないような、不思議な気持ちになります。

 ここは、いいところです。

 わたしが生まれて今日でちょうど、三年が経ちました。

 手のひらを空にかざして、ぐっと握ったり、ぱっと開いたりしてみます。それだけのことがとても、とても嬉しい。

 以前はできなかったことが、たくさんできるようになりました。

 自分で服を着られます。手を使ってご飯を食べます。機械を介さず自由におしゃべりができます。二本の足で交互に歩くのも楽しい。

 わたし、やっと、みんなと同じになれたのです。

 この新しい世界で、みんなと暮らせるのです。

 ただ、すべてがうまくいったわけではありません。

 ここの人たちは、わたしを見ると嫌な顔をします。なにか変なものが紛れ込んだ。そういう目でわたしを見ます。わたしの元の姿を見たのは家族を除けば助産師の老婆だけ。ほかには誰にも見られていません。それなのに、人の姿をしているのに、みんなわたしを「獣の子」と呼びます。

 自分で自分の姿を見られないので、なかなか気づきませんでした。

 わたしは、とても醜いのです。

 川に映った顔は、いつもぼやけて歪んでいます。髪の毛は真っ白で、おかあさんのきれいな黒髪とは正反対。肌なんて、コスの健康的な色とは比べものになりません。まるで血が通っていない死人のよう。

 どうしてこうなのかしら。

 わたしの、体は。


 ――なにが、あったんだっけ?


 なんて、ど忘れしても大丈夫。こういうときのための〈CUBE〉です。ホーリーはれっきとしたハルバルディ号の乗組員なのですから。記憶のバックアップは大事に保管されていますし、船の外からでもシステムにアクセスする権限があるのです。

 意識明晰値を保ったまま思考領域を拡張します。

 記録を見つけました。

 ――ああ。

 わたしの大事な子どもたちは、立派に務めを果たしたのです。

 誇らしさに胸が温かくなります。

 ハルバルディ号の頭脳体、〈CUBE〉。

 あなたはわたしの子どもたちをついぞ人類とは認めなかったけれど。わたしは胸を張って言えます。この世界は、あなたがみんなと目指した新天地に負けないくらい素晴らしいものだと。

 だからもう、人類を分けて考えるのはやめにしましょう。

 あなたと一緒に故郷から旅立った人々も、人工子宮で生まれた子どもたちも、そして、今この世界を生きる人たちも、人間であることに変わりはないのです。

 パパ――いいえ。マティアス=ベルツ艦長。それに乗組員のみんな。

 新天地を目指して旅したわたしたちの訓示は、共存共栄。

 どんなかたちであれ人類を守り助けること。

 それがあの墜落を生き延びた、わたしたちの使命。

 ――聞いて、〈CUBE〉。

 わたしの目を通して、この世界を見て下さい。わたしの手を通して、この世界に触れて下さい。

 そしてどうか、また一緒に――。


「サク。お待たせ」


 おかあさん。

 小川を飛び越えて、わたしはおかあさんに駆け寄ります。

 おかあさんはしゃがんで目線を合わせ、笑いかけてくれました。

「見て。たくさん採れた」

 腰に提げた籠の中は、甘い香りのする赤い実でいっぱい。

 誕生日のお祝いだ。

 胸が温かい。気持ちが溢れてくる。

 嬉しい、嬉しい。なんて幸せ。

 ああ、でも。でも。

 ――わたしはホーリー。ハルバルディ号の教導官。

 わたしは顔を上げました。

「おかあさん。船は今どこにあるの?」

「船?」

 本当は機密事項だけど、おかあさんは特別です。ハルバルディ号のこと、〈CUBE〉のこと、わたしのこと、みんなのことを話しました。

 話しているうちに、また少し思い出しました。

 医療カプセルの窓越しにこちらを覗く、成長した子どもたちの顔。

 極地環境にも耐えうるよう改造されていたとはいえ、延命処置を受けていたとはいえ、経年劣化でわたしの元の体はボロボロだったのです。

 もうなんの役にも立たないわたしに、一日の半分も起きていられなくなったわたしに、〈CUBE〉は言いました。

『なにも心配しなくていい。新しい体をすぐ用意する』

 そうしてわたしは今、ここにいるのです。

 突然、不安に襲われました。


 ――あれから、どれだけ時間が経ったの。さっき参照した記録は、いつ起きた出来事なの。どうして〈CUBE〉は呼びかけに応えてくれないの。


 何かが変です。

 船に帰らなければ、という思いが大きく膨れあがりました。

「帰らなきゃ……。わたし、船に帰ったらだめ?」

 おかあさんの顔から一気に血の気が引いていきました。

「だめよ! だめ、だめ!」

 そう叫ぶと、おかあさんはわたしを抱きしめました。離すまいとするかのように強く、強く抱きしめて、声を詰まらせて泣くのです。


 ――おかあさん。おかあさんを、泣かせた!


 そして、わたしは。

「おかあさん、泣かないで。ごめんね。サク、どこにも行かないよ」


 〈CUBE〉との接続を放棄して――ホーリーであることを、やめたのです。



 おかあさんと、家族と暮らす日々は、温かくて、少し退屈で、静かで、満たされていて――とても、とても幸せでした。

 でもそれは、いけないことだったのです。

 報いは残酷でした。


 獣たちが死なせてくれと泣いています。

 たくさん人が死にました。

 おかあさんも死んでしまった。


 なにが起きているのか知る術を、わたしはすでに持たない。

 手放した当時は明瞭だった記憶も、今となっては夢のように曖昧で。

 あの頃わたしが何を話していたか、確かめようにもおかあさんはもういないし、コスに聞いてもまだそんなこと言っているのかと怒って話になりません。

 ここにいながら何もできない。

 ただただ、後悔と、焦燥に身を焦がしました。

 こうしているあいだにも命が消えていく。人も、獣も、みんな死んでしまう。

 過去に拡張した思考領域に情報が残っていないかと、必死で手を伸ばしました。

 相変わらず何も思い出せなかったけれど、でも。

 深淵の向こう側に、明滅する、星、のようなものを見た気がしたのです。

 ほかに手がかりはありません。

 わたしは星のもとへ向かいました。

 家を出て、歩いて、歩いて。

 そうしてわたしは、もうひとりの自分と出会ったのです。


 自分と同じ何者かを見て、はじめて理解しました。

 わたしは××××じゃなかった。

 その記憶を持って生まれた、人でも獣でもない、得体の知れない何か。

 それが、わたし。

 わたしたち。


 黙って、見つめ合って。

 わたしたちはどれくらい、そうしていたでしょう。

 あいつは不意に、血の臭いを厭うかのように踵を返しました。一度だけ立ち止まって振り返りましたが、わたしが後に続く様子がないことを見て取ると、そのまま森の奥へ去っていきました。


 立ち尽くすわたしの全身は、冷や汗で凍えている。

 死に場所を求めて獣たちが駆けていく。

 断末魔の叫びがこだましている。


 わたしは××××じゃない。

 でも、でも、やらなければ。

 始末をつけなければ。


 ――獣たちをすべて、すべて殺さないと。


 そんな気の迷いを咎めるように。

 一筋の矢が、右肩を貫いた。

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