25.カルグ=ヤースン


 全身を蝕む鈍い痛みが、ときおり、肉を抉るように牙を剥くことがある。

 カルグは重たい瞼を開いた。

 見慣れた天井が遠い。視界が仄暗い。

 全身の力を抜いて、呼吸を意識する。沼の底に沈んでいくような感覚をやり過ごす。

 死を待つしかない日々は、徐々に精神を蝕んでいく。典薬寮で治療を受けていた腐傷患者たちは、カルグを除いて全員死んだ。現実に耐えかねて自殺した者。痛みで発狂した者。盗んだ毒を呷って眠りについた者。

 誰一人として、そんな死に方をしていい人間ではなかった。

 黒い獣もそうだ。西州公の眷属たる彼らは、主人の目となり手足となり、長い間、人知れずこの国を守ってきた。それが正気を失い、あんな惨い姿になって、今や災いの象徴であるかのように言われている。

 すべての異変は六年前、西州公アサナギの死から始まった。

 しかし、本当の始まりはもっと昔、それこそ神代の頃だったのではないか。

 西州という国は異端だ。

 建国以来、数百年ものあいだ衰退することなく、かといって目立った発展もない。隔絶された孤島ならまだしも、三つの国に囲まれながら、ここまで長いあいだ文化水準に変化のない社会は異常だ。

 何者かの意志が介在しなければ、ありえない。

 はじめに設定した社会の原型を、大きく逸脱しないよう適宜、調整している。

 それこそが諸悪の根源。善き君主として知られた西州公の、裏の顔だ。

 民を愛しながら決して人の心に寄り添うことはなく、誰も不幸にしないが幸せにもしない。清廉で慈悲深い反面、ときに心ないことを平気でする。

 西州公の内側にもう一人、誰かがいる。

 ホノエが導き出した結論は、妙に腑に落ちた。図書寮の第二の書庫とまで呼ばれた頭脳の持ち主を疑うのは愚かというものだろう。なにより己の経験から、カルグはその存在に納得することができた。

 九年前、初めて西州公の素顔を見た。

 生気のない土気色の顔、痣だらけの皮膚。

 今にして思えば、あれはまさに腐傷の症状そのものだった。

 腐った体を引きずりながら、西州公は底冷えするような憎悪を込めてユウナギを詰った。その声音は、これまで御簾の奥から聞こえていたものとあまりにも違っていた。

 それから三年の年月を経て、西州公が死んだ。

 黒い獣が現れ、腐れの病が国中に流行りだした。

 病の秘密を知るために、カルグは典薬寮を訪ねた。

 ラカンはそれを求める者に情報を開示することを厭わなかった。

 典薬寮には、代々の西州公を蝕んできた病の、隠された記録があった。そこには病症と共に、西州公の病を治そうとした歴代の医術師たちの努力と挫折が綴られていた。

 血肉が腐り、衰弱していく不治の病。当世では腐傷と呼ばれるその病はもともと、西州公だけが罹患しているものだったのだ。

 西州公の一族は代々短命だ。しかし、幼少の頃から病に冒されているわけではない。ユウナギは健康体そのものだった。六年前に亡くなったアサナギにしても、公子時代は病の影すらなかったという。

 いつの時代の公子も、西州公の位を継いでほどなく、病魔におかされてきた。

 その原因こそ――。

 体に鋭い痛みが走った。

 思考を中断して、カルグはゆっくり深呼吸を繰り返した。

 どんなに苦しくとも、守るものがあれば恐ろしくはない。いつ尽きるともわからぬ命だが、生きる理由があれば耐えられる。

 まだ死ねない。死ぬわけにはいかない。

「でーきた!」

 喜色で弾んだ声が、霞んでいた意識を呼び起こす。

 カルグはわずかに顔を傾けた。ユニの横顔がすぐそこに見える。寝たきりになってから馴染みの光景だ。

 メイサがいないあいだ、ユニはこの部屋で机代わりの椅子に教本を広げて、よく勉強をして過ごす。

「なにが出来たんだ?」

 声をかけると、ユニはこちらを向いてパッと顔を輝かせた。

「姉さまに手紙を書いたの。見て!」

「どれ」

 カルグは目の前に広げられた手紙に目を通した。

 メイサと文通を始めてから、ユニの文章力は格段に上がった。仲の良い動物たちのこと、典薬寮の医術師と話したことなど、他愛のない日常が子どもの視点で綴られている。申し分ない出来だ。文法におかしな部分はないし、字も綺麗で読みやすい。

「どう?」

「……うん。よく書けてる」

「でしょ。だって姉さまに教わったんだもの!」

 そう胸を張るユニは誇らしげだった。

 ろくに喋ることも出来なかった頃と比べたら、目覚ましい成長ぶりだ。

 六年前のあの日から、メイサがユニのためにどれだけ時間を割き、心を配ってきたか。言葉と文字を教えただけではない。宮中で暮らす上で不自由がないよう環境を整え、そばに寄り添って安心を与えた。その惜しみない愛情は、ユニがこれまで奪われてきた尊厳を取り戻し、自由な心と自信を育んだ。

 いくら感謝しても足りない。

 そして自分も、今度こそ守らなければ。

「ユニ。そこの……一番下の引出しを外して、奥にある箱を取ってくれ」

「はい。ちょっと待ってね」ユニは窓側の棚の引出しを外した。奥に手を突っ込んで小さな白い箱を取り出す。「これ?」

「開けてごらん」

 箱を開けたユニは、少し間を置いて中身を手に取った。

「鍵だわ。なんの鍵?」

 紐の先で揺れる鈍色の鍵を、カルグは懐かしい気持ちで見つめた。

「庭を閉じている閂の鍵だ」

 ユニは目を大きく開いた。

「母さまのお庭?」

「覚えてるのか」

「忘れないわ。わたしの生まれた場所だもの。赤ちゃんだったとき、お庭の木の下でね、母さまがたくさんお話をしてくれたのよ」

 それはかつて、カルグがユウナギに読んで聞かせた物語だ。

 読み書きのできないユウナギに、カルグは何度も文字を教えようとした。だが彼が用意した筆と紙にユウナギは一度も手をつけなかった。

 読んで聞かせてくれる声が好きなのだと。

 結局押し負けて、せがまれるままに読んで聞かせた物語を、ユウナギはすべてそらで覚えた。読み書きなんて必要ないと言って、一字一句、正確に再現して見せた。

 そしてユニもまた、赤ん坊の頃に一度聞いただけの話を同じように記憶している。

 親子だな、と思う。

「その鍵は」カルグは小さく咳き込んでから続けた。「おまえが持っていなさい。いざというとき使えるように」

「いざというときって?」

「庭には、抜け道がある。典薬寮に繋がる道が」

 遺児はきっと、州都へやって来る。来てしまう。

「スイハがもし、遺児を連れて戻って来ることがあったら……。おまえが、ラカンのところへ案内するんだ」

 これで最悪の事態は避けられるはずだ。ラカンなら遺児を守れる。かつて身重のヨウ=キキを、密かに逃がしたように。

「その人が、病気を治してくれるのね」

「できるか?」

「任せて、父さま」

 溌剌とした笑みを見せながら、ユニは胸に手を当てて宣言した。

「わたしの小さなお友達は鳥たちだけじゃないのよ。見てて。絶対に助けてあげる!」

 愛おしい娘に笑みを返して、カルグは再び目を閉じた。

 遠い約束は守れそうにないが、何と引き替えにしてもユニだけは。

 たったひとつの思いを胸に、彼の意識は夢に沈んでいく。

 ユウナギと共に過ごした穏やかな日々。

 そして、それが唐突に引き裂かれたあの日へと。


 *


 一筆啓上 ヨウ=キキ様


 紅葉も色褪せて冬の気配が差し迫る今時分、いかがお過ごしでしょうか。

 突然このような便りをお送りする無礼をお許し下さい。

 私の体は腐傷に冒され、もう長くはありません。命尽きる前に、これだけはどうしてもお伝えしなければと筆を執った次第でございます。


 本題に入る前に、少しばかり昔話をいたしましょう。


 ヤースン家は、七代前の父祖が西州公の側役に登用されたことをきっかけに、その地位を代々世襲してまいりました。祖父や父がそうであったように、家督を継ぐ長男として生まれた私もまた、若くして宮中に出入りすることを許されていました。

 初めて西州公の姿を見たのは、十三の頃です。

 物心ついた頃から再三、将来は西州公の御為に力を尽くすのだと言い聞かされて育った私にとって、それは待ちに待った瞬間でもありました。拝顔の栄に浴し、公から直々にお言葉を賜ったことで、刷り込まれた使命に対する意気込みはより強く確かなものとなって私の心に根ざすようになったのです。

 自分はこれから、この方のために生きていくのだと。

 そう信じて疑わなかった当時の私は、何も知らない小僧でした。


 気づきのきっかけは、宮中に賊が入り込んだことでした。

 宮中には一カ所だけ警備の対象外とされた場所があります。

 外側に閂がかけられ、内側から出ることはかなわず。典薬寮の限られた医術師を除き、衛士すら近づくことを禁じられた、西州でただひとつの牢獄。

 あなたもご存知でしょう。

 ユウナギ公子が暮らしていた、奥の宮です。

 賊が入り込んだという報せを聞いたとき、私の頭に浮かんだのは公子のことでした。

 奥の宮に立ち入れば死罪です。しかし罪を恐れぬ賊には元より関係ないこと。次代の西州公に万が一のことがあってはならぬと、私は父の目を盗んで奥の宮へ向かいました。

 そして初めて公子を、ユウナギの姿を見たのです。


 あの頃の公子は、まるで人形のようでした。

 さもありなん。公子は生まれたときから最低限の世話しか与えられず、一日のほとんどを捨て置かれ、一度も奥の宮の外へ出たことがなかったのです。

 私はラカンに助力を請い、人目を忍んで奥の宮へ通うようになりました。もし見つかれば自分だけでなく、一族郎党諸共、罪に問われることは明白です。それを覚悟の上で、私は公子を選んだのです。

 後悔したことはありません。

 閉じた庭に何冊も本を持ち込んで、たくさんの物語を読んで聞かせました。公子は文字こそ読めませんでしたが、そのうち聞くだけでなく自分から言葉を発するようになり、少しずつ人間らしい顔を見せてくれるようになりました。


 幸せでした。

 出会ってから一年、三年、五年と時が経ち、私たちはいつしかお互いを深く愛し合うようになりました。

 娘が生まれた日のことを、今でも鮮明に思い出します。

 これまで生きてきた自分のすべてが、そこにありました。何ものにも代え難い宝を腕に抱いたとき、私の心は、これから訪れるであろうあらゆる困難に対峙する覚悟をしていました。

 その矢先のことでした。

 とうとう、何もかも西州公に知られてしまったのです。

 私たちの前に現れた西州公の怒りは尋常ではなく、奥の宮を彩るささやかな草木のことごとくが、茶色くしなびて枯れ落ちていきました。

 公は立ちつくす私に指を向け、名を呼びました。


 思い返すと、今でも頭がおかしくなりそうです。

 気がつけば、西州公に指を向けられたあの瞬間からなんと、三年の月日が過ぎていました。後になって弟に確かめたところ、奥の宮から戻った私はまったく人が変わっており、ユウナギの名を口にすることもなく、木偶のように西州公に仕えていたというのです。


 私は気も狂わんばかりに、すぐさま西州公のもとへ向かいました。

 そのときでした。

 西州公の居室がある北の棟から、ユウナギが飛び出してきたのです。

 彼女はすでに獣に転じており、ひどく興奮した様子で、止める間もなく屋根を飛び越えて姿を消してしまいました。

 あとを追うことも考えましたが、私は西州公の居室へ向かいました。娘を取り戻したい一心でした。同時に、ただならぬことが起きたという予感もありました。

 なぜ突然、私は正気を取り戻したのか。

 ここまでお読みになったあなたにはおそらく、察しがついていることでしょう。


 西州公の居室の扉は開け放たれていました。

 私がそこで目にしたのは、首からおびただしい血を流して倒れる一匹の白い獣と、床に膝をついて項垂れる父の姿でした。

 一体その部屋で何があったのか、今となっては想像でしか語ることはできません。父にしてもそれは同じことでしょう。もし父が現場に居合わせていたならば、命に代えてもあの惨状を阻止したでしょうから。


 思いがけず長くなりました。そろそろ本題に入りましょう。

 お伝えしたいことは三つです。


 一つ目。

 遺体を検めた当事者として、ここに断言いたします。

 六年前のあの日、西州公は、アサナギ様は、確かに亡くなられました。


 二つ目。

 あなたの最大の懸念であると思われます、悪意の発露について。

 まず、ユウナギにはついぞその兆候は見られませんでした。

 アサナギ様を含む、過去の西州公たちを苦しめてきた悪意の発露、それとほぼ時期を同じくして発症する腐傷。これらは必ずしも発症するものではありません。

 図書寮の長が残した記録には、このような記述もあったそうです。

 『記憶を戻してはならない』

 詳しい意味はわかりかねますが、なんらかのお役に立てれば幸いです。


 三つ目。

 スイハは無事にあなたのもとへ辿り着いたでしょうか。

 幸いなことに、この末弟は父の教えに染まらず、西州公のことを何も知らずに育ちました。無知ゆえに無礼なことをしでかすかもしれませんが、大目に見てやって下さい。

 しがらみを持たないからこそ見える景色があります。

 身内の贔屓目と笑って下さって構いません。

 スイハの知見は必ずや、あなた方の助けとなるでしょう。


 最後に。

 ヨウ=キキ様。

 自分が親になって初めて、あなたの心を理解しました。

 我が子の幸せを願わない親はいません。

 十六年前、よくぞ決断なさいました。

 あなたの覚悟に敬意と、そして心からの感謝を。


 では、これにて本当にお別れです。

 どうかあなたと、あなたの御子が、末永く平穏無事でありますよう。


                    カルグ=ヤースン

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