23.這い寄る過去、消えない傷


 こんな夢を見た。

 木戸がけたたましい音を立てている。

「キキさん。ここを開けなさい」

 なだめるようでいて、苛立った男の声。

 それをかき消すように老いた女の金切り声が響き渡る。

「けだものだよ! あたしは確かに見たんだ! あの女の腹から毛だらけの化け物が産まれるところを!」

 竈の中からヒッと嗚咽混じりの悲鳴が漏れた。

 中を覗くと、五歳ぐらいの子どもが殻にこもるように体を丸めていた。両目を大きく見開き、歯をカチカチ鳴らしながら、細い両腕で布の包みを抱え込んでいる。

 ドン、ドンと木戸が叩かれるたび、家のあちこちがミシミシと軋んだ。

「化け物! 獣の子!」

 ヨウ=キキが、激しく揺れる木戸を体で押さえている。乱れた髪がかかった顔は真っ青で、不調を告げる汗が額に滲んでいた。

「ああ気味が悪い! なんで昨日殺しておかなかったんだろう!」

 木戸の向こうで老いた女がわめく。

 ヨウ=キキは痛みに耐えるように唇を噛みしめた。

「出てこい! 出せ、出せ! 殺してやる! 今度こそ首をひねってやる!」

「おい、誰か婆さんを連れて行け!」

 外で、うんざりだと言わんばかりに男が怒鳴った。

 狂乱の金切り声が遠ざかる。しかし息をつく暇も与えず、低い声が淡々と告げた。

「キキさん。出て来ないとあんた、どんどん立場が悪くなるよ」

「ご迷惑はおかけしません」

 最後まで言い終えぬうちに木戸がまた激しく揺れた。まるで自分が叩かれたように、ヨウ=キキは背中を丸めた。

「そうじゃなくてね、通すべき筋ってもんがあるだろう。あんたには色々と世話になったけどさ、おれたちだって十分あんたに親切にしてやったつもりだよ。本当に何でもないなら赤ん坊の顔くらい見せなさい」

 竈から怯えきった顔が覗く。出てきてはいけない、と言うようにヨウ=キキは首を横に振った。

「子どもが怖がっています。どうか今日は帰って下さい。また後日……ご挨拶に窺いますから」

 その懇願は聞き入れられなかった。

 バリッと戸板が弾けた。食い込んだ斧の刃先が、悲鳴をあげるヨウ=キキの首筋を危うく掠めた。

 木戸を破って乗り込んできた男たちの顔は、いくつか見た覚えがある。年は違えど目鼻立ちの特徴は変わらない。村の人間だ。その中にはチサの父、ヨキもいた。

 男たちは抵抗するヨウ=キキを拘束して、家捜しを始めた。

「やめて下さい! 産まれたばかりなんです!」

 胸が潰れるような悲痛な叫びに、幾人かの動きが鈍る。髪を振り乱してもがくヨウ=キキに近づいたのはヨキだった。力を緩めるよう拘束役の男に注意してから、彼は躊躇いがちにヨウ=キキに声をかけた。

「普通の赤ん坊じゃなかったんだろう。可哀想だけど、まともに育ちはしないよ。あんたが苦労するだけだ」

 竈を探っていた男がギャッと声をあげた。

「このガキ! 噛みつきやがった!」

「さわるな!」

 足を掴まれて竈から引きずり出されたのは、幼いコスだった。コスは大人の手を蹴りで振り払い、両腕で抱えた布の包みを体の下に庇った。しかしこのときの彼は無力な幼い子どもに過ぎなかった。

「返せ! 返せぇ!」

 コスの手から引き離されて、とうとう、おくるみに手がかけられた。

 一番にその中身を見た男は、呆気にとられたあと、戸惑った顔で仲間たちを振り返った。異変を察して、ヨウ=キキを諭していたヨキが早足で近づいた。

 次の瞬間、緊張した肩から力が抜けた。

「白子だよ」

 気抜けした声で、彼は周囲の仲間にそう告げた。

 村人たちは続々と赤子を覗き込み、困惑した顔を見合わせた。ヨウ=キキは急いでおくるみに包まれた我が子を取り戻し、もう片方の腕でコスを抱き寄せた。子どもたちが二人とも無事だとわかるやいなや、彼女は堪えきれずにしゃくり上げ、堰が切れたように泣き出した。

「産婆が言ってたのはなんだったんだ」

「ボケてんじゃねえのか」

 ボソボソと言葉を交わす男たちは、ばつが悪そうにヨウ=キキから顔を背けた。そのため、彼らは気づかなかっただろう。自分たちの姿を見つめる幼子の眼差しに。

 コスの顔は青ざめていたが、それは恐怖のためではなかった。大きく見開かれたその瞳は、身も凍るような憎悪でギラギラと燃えていた。

 男たちが気まずそうに一人、また一人と家の外へ出て行った。

 始まりから終わりまで、騒動の発端であった赤ん坊は一度も泣き声をあげなかった。

 トウ=テンはヨウ=キキの後ろから赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 刹那、室内の景色が暗がりの中に遠のいた。

 夢から覚めるのだろうと思った。


 しかし。

 次に目を開いたとき、目の前に広がっていたのはいつぞや見た地獄の光景だった。


 数ヶ月前の、秋の終わり。

 黒い獣と刺し違えるつもりだった、〈狩り〉の夜。

 妻子を亡くしてから孤独に過ごした十年は、振り返ってもなんの感慨ももたらさなかった。虚ろな心を抱えて、トウ=テンは低きに流れる水のように終わりへ向かった。

 月明かりも差さない森の中、辺りには、無惨に引き裂かれた死体がいくつも転がっている。黒い獣による殺戮の痕跡だ。

 夢の感覚を引きずったまま、自分の記憶に潜り込んでしまったのだろうか。得難い体験ではあるが、それを楽しむ気持ちにはなれなかった。改めて眺めたい光景ではない。見ていると血の臭いが鼻の奥に蘇りそうだ。

 戦いの音が遠い。時間帯としてはちょうど、西州軍が群れから襲撃を受けた頃だ。

 このあと黒い獣たちは撤退する。この森のさらに奥、西の果てへ。

 何気なく振り返って、トウ=テンは息を呑んだ。

 ここは、むせ返るような死臭に満ちた地獄の釜だ。

 ありえない。そんなはずはない。

 こんなところに、サクがいるはずがない。

 血の気の失せた顔、凄惨な光景を凝視する張りつめた瞳。

 記憶にないものを見せられて気づく。

 あの日あの夜、自分は木の上から戦いの様子を見ていた。森の奥には決して入らなかった。すなわちこれは、自分の記憶ではない。

 一筋の疾風が空気を貫いた。

 とっさに庇おうと反応したトウ=テンの後ろで、サクが地面に倒れ伏した。

 はるか遠方で獣の咆哮が轟く。大挙する群れの質量が地面を震わせる。

 トウ=テンは茫然とサクの傍らに膝をついた。

 肩を貫通している一本の矢。

 サクは痛みに喘ぎながら顔を上げた。

 涙に潤んだ目で暗闇の先、矢が放たれた一点を見つめ、そして。

 ゆっくり息を吐きながら――安心したように微笑んだ。

 そこで目が覚めた。



 帰って来た家主は、拍子抜けするほど普通の男だった。

 雑踏ですれ違ったとしても、まず二度見することはないだろう。山暮らしの日に焼けた肌、黒い瞳。顔立ちや体型にも特筆するほどの特徴はない。

 しかし、それはあくまで外見だけの印象だった。

「客だと?」

 こちらの腹の内を探るような視線、警戒と疑心を露わにした態度。短い言葉の中にも棘がある。サクは表情や声、話し方といった所作以前に、身に纏う雰囲気自体が優しげで温かみがあったが、彼はとにかく対照的だ。

「留守中にお邪魔しています」

 手をついて頭を下げるスイハを無視して、コスは蓑を脱いだ。

「なんで家にあげた」

「この寒いのに外で待たせておけっていうの?」籠を受け取りながら、チサは物怖じせずに反論した。「危ない人だったらおじさんが追い返してるわよ」

「トウ=テンは?」

「この子の連れを捜しに行ってる。途中ではぐれたんだって」

 コスは鋭い目つきでスイハを牽制しながら対面に腰を下ろした。腰に提げた鉈を手放す気配がない。トウ=テンに凄まれたときとはまた違う種類の恐怖を覚える。

「どこの誰だ」

 これまで生きてきて、ただ名乗ることにこれほどの勇気を要したことはなかった。容赦なく浴びせられる威圧感にジリジリと炙られながら、スイハは呼吸を整えた。

「スイハ=ヤースンです」

 馬鹿正直に名乗ってから、向かい合う不機嫌な顔から不気味に表情が失せていくのを見て、スイハは激しく後悔した。

 家の中に冷ややかな沈黙が満ちる。チサが心配そうに様子を窺うなか、コスはおもむろに立ちあがり、土間の隅に置いていた棒を取りあげて隣室の戸口――サクが眠っている部屋だ――につっかえ棒を立てた。

 そして無言で鉈を抜いた。

 スイハは縮みあがった。囲炉裏の赤い火に照らされた抜き身の刃が一瞬血塗れに見えて、心臓がバクバクした。

「あんた、話くらい聞きなさいよ!」チサがすかさず諫める。「大変な思いをして、せっかくサクに会いに来てくれたんじゃない」

「さらいに来たに決まってるだろ」

 とんだ誤解だ。疑心暗鬼による妄想に近い。

 チサは腰に手を当ててコスを睨みつけた。

「ねえ、落ち着いて。そんなわけないでしょ。この子はサクの友だち。サクがそう言ってたじゃない。おじさんだって……」

「どいてろ」

 あいだに割って入ろうとするチサを押しのけて、コスは全身から憎悪をたぎらせながらスイハを睨みつけた。

「あいつをたぶらかしやがって」

 命の危険を感じた。距離を取ろうとスイハは中腰になった。

 コスが勢いよく雨戸を開け放った。

 室内に満ちていた温かな空気が外へ漏れ出していく。照り返す雪の眩しさに目を背けた瞬間、スイハは胸ぐらを掴まれて外へと放り出された。

 したたかに背中を打って息が止まる。不意打ちだ。痛みを堪えて何とか目を開くと、コスが冷たい目でこちらを見下ろしていた。

「腐傷で死にかけてる人間はいくらでもいるんだ。てめえの兄貴で試して、本当に治せるってわかったら二度とうちに帰さないつもりだろ」

 なぜ彼は、初対面でこうも敵意を向けてくるのだろう。

「そんなこと……思ってない」

「黙れ。おまえらは人殺しだ」

 いわれのない誹謗中傷だ。こちらの話に耳を貸さず一方的に決めつける物言いに、さすがに腹が立ってきた。いくらなんでも理不尽すぎる。血の繋がりがないにしても、この人は本当にサクの兄なのだろうか。

 スイハは起きあがってコスを睨み返した。

「州都に行くかどうかは、あなたに相談してから決めるってサクは言っていました。それなのに、あなたはサクの話を聞いてあげないんですか」

 逆鱗に触れたと気づいたときにはもう、頭を蹴りつけられていた。

「なにが相談だ! どうせあいつは、俺の言うことなんか聞きやしない! 人助けにかこつけて死にたがってるやつが!」

 ――死にたがっている?

「コス! やめてよ!」

 チサの悲鳴が遠く聞こえた。蹴られた衝撃で目の前が明滅している。頭のあちこちが疼くように痛んだ。

 コスは倒れたスイハに馬乗りになり、首を絞めにかかった。

 息苦しさから逃れようと、スイハは首にかけられた手を必死で掴んだ。声が出ない。喉を締めつける指が深く食い込んで剥がれない。言葉を封じられたら四肢をもがれたも同然だ。スイハは絶望的な気持ちでコスを見上げた。

「おまえは生かして帰さない」

 彼は左手でスイハの首を締めたまま、右手で鉈を大きく振り上げた。

 迫り来る死の予感は、時が止まったかのような妙な感覚をスイハに与えた。自分という殻から解き放たれた意識が透き通っていく。そこでは時間がゆっくり流れていて思考する暇さえあった。

 痛みは一瞬だろうか。走馬灯を見るのは頭を割られる瞬間だろうか。そんなことを考えながら、スイハは自分に向けて振り下ろされる鉈の波紋を見つめた。

 その時だった。

「やめてぇ!」

 透明な世界から一瞬で引き戻された。

 頭が脈打つようにズキズキする。息が出来るようになったのに喉が苦しい。視界が涙で滲む。あと少しで死ぬところだったという実感が今さら、恐怖を伴って生々しく這い上がってきた。

 ボロボロと零れる涙を雑に拭いながら、スイハは起きあがった。

 放心するコスに、サクが泣きながらしがみついていた。

「ばか、ばか!」

 寝起きで飛び出してきたのだろう。寝間着に素足という、見ているほうが寒くなるような格好だった。

「馬鹿はおまえだ」

 しがみつくサクを邪魔そうにしながら、コスは落とした鉈を拾おうとした。それを見たサクはやにわに気色ばんだ。

 バチン、と大きな音が鳴った。

「やめてって言った!」

 コスは殴られて赤くなった手を振り、怒鳴り返すのを堪えるように歯噛みした。

 兄妹のやりとりを間近で見ながら、スイハはゲホッと咳き込んで喉を整えた。

「サク」

 がらがら声で呼びかけると、サクは明らかに怯んだ様子で身を縮めた。

 その反応に苛立ちと悲しみを覚える。獣の姿を見ただけで嫌いになったと思われるのは心外だ。しかし今は、誤解を解くより優先すべきことがある。

 スイハは尋ねた。

「死にたいって本当?」

 サクはまじまじとスイハを見返した。なぜそんなことを聞かれたのか、戸惑っているようだった。

「もし本当なら」スイハは地面についた手の中で雪を握りしめた。「この話は全部なかったことにしよう。僕は帰って兄さんを看取るよ」

 うろたえた顔を見せられて、やり切れない感情が湧きあがる。

 否定して欲しい。

 そんなことはない、と。

「州都に行って、君はどうするつもりだった?」

「み……」サクは目線でコスの顔色を窺った。「みんなを……腐傷になった人たちを、助ける。そういう話だったでしょう」

「マーカーになるってどういうこと?」

「だからそれは、座標を……」

「その方法は本当に安全なの? 君に万が一のことが起きない保証は?」

「そんなこと……なにも心配しなくていいの」

 子どもの駄々を宥めるような口調だ。

 スイハは奥歯を噛みしめた。

 何もかも、きっとうまくいく。そんな、なんの根拠もない希望的観測に浮かれていた自分の愚かさに、嫌気が差す。

 過去に何があったかは知らない。今までどんな辛い思いをしてきたかもわからない。ただ、ひとつだけ明らかになったことがある。他人の未来を望む気持ちと、死にたいという思いは両立するのだ。

 兄夫婦に子どもができたらいっぱい遊んであげるのだと、あんなに嬉しそうに笑っていたのに。

「カルグが治って、みんなが助かったらスイハは嬉しいでしょ。それじゃだめなの?」

「嬉しくない。兄さんが助かったって、君に何かあったら全部……台無しだ」

「どうして」

 言葉よりも先に頭に浮かんだのは。

 子どもの頃。用水路に落ちて死んだ、あの子のこと。

 何年も胸に深く刺さったまま抜けない棘が、チクチク痛む。

「友だちだから」

 友だちが死ぬところなんて二度と見たくない。

 自分が生き延びてしまったことを、後悔したくない。

「なくしたくない。君は大事な友だちだ」

 それがスイハの偽らざる気持ちだった。

 白い睫の下で、灰色の瞳が丸くなった。サクは呆然と、気が抜けたように雪の上に膝を突き――そしてすぐに、ハッと顔を上げた。

 つられて視線を追ったスイハは、ヒッと息を呑んだ。

 コスが悪鬼が如く顔を歪ませてこちらを睨んでいた。

「コス、待って……」

 縋りつくサクを力任せに振りほどき、コスは鉈を掴んだ。

「そうやって、サクを騙すのか!」

 スイハに向けて再び鉈が振り下ろされようとした、そのとき。

 ゴン、と鈍い音がした。

 膝から前のめりに倒れるコスの後ろで、

「いい加減にして」

 涙目になったチサが、震える両手で棒をきつく握りしめていた。

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