22.雪深い山を抜けて


 暗い意識の底でスイハは目を覚ました。

 体が冷たい。手足に力が入らない。あちこちがズキズキ疼いて、息をするのも怖かった。再び気が遠くなりかけたとき、手の甲に温かなものが触れた。うつぶせの体を仰向けに転がされる。瞼の裏側が白く焼けた。スイハは手で光を遮りながら目を開いた。

 近すぎて、はじめはそれが何かわからなかった。

 雪原のように真っ白な毛皮。しなやかな肢体。彼の目の前にいたのは、なんとも神秘的な気配をまとった牝鹿だった。

「……きれいだ」

 気がついたら手を伸ばしていた。

 肩も腕も痛かったが、動かせないほどではない。生き物のぬくもりに触れて、体の芯から怯えが抜けていった。スイハは体を起こして自分の状態を確かめた。手足は指まですべて揃っている。折れていないし、大きな傷もない。

 体についた雪を払いながら辺りを見渡した。人が立ち入った形跡がない一面の雪景色が広がっている。どうやらここは奥深い山の中らしい。

 ぼんやりした頭を働かせて記憶を辿ると、黒い獣の大口が生々しく脳裏に蘇った。ビクリと心臓が跳ねると同時に、一気に目が覚めた。

 スイハは急いで立ちあがり、辺りを見渡した。

「ナサニエル!」

 あわや黒い獣の牙に引き裂かれるところを、空高く放りあげられた。彼以外の誰に、あんなことが出来るだろう。

「ナサニエル! どこだ!」

 呼びかけは空しくこだまするばかり。

 あれからどれくらい時間が経ったのか。ここは山のどの辺りなのか。完全に自分の位置を見失った。現状を理解すると、遭難したという実感がジワジワと這い上がってきた。

 ――落ち着こう。まずは落ち着こう。

 うつむき、腰に手を当てて深呼吸を繰り返す。

「……ん?」

 後ろから腕を引かれた。振り返ると、牝鹿が袖を咥えていた。体を寄せるようにしながら鼻先でスイハの胸元をしつこくついてくる。

 怪訝に思いながら懐に手を入れると、指先にちりっと熱いものが触れた。取り出すとそれは、いつぞやナサニエルから貰った木彫りの根付けだった。

 仕組みはわからないが、なにか、目に見えない力が働いている。スイハは手のひらで熱を放つ根付けを見つめた。もしこれがナサニエルと繋がっているなら、彼のほうからこちらを見つけてくれるかもしれない。

 一抹の希望を抱いた、そのときだった。

 牝鹿が手のひらに鼻先を寄せて、そのままパクッと根付けを食べてしまった。

「ちょっと! それはだめ!」

 吐き出させようとするスイハの手をすり抜けて、牝鹿は白い毛並みを輝かせながら上機嫌に跳びはねている。

 唖然とするスイハの横っ面を、寒風がなぶった。

 首に風が入らないよう首を縮めて、深く溜息をつく。

 気持ちを切り替えよう。

 状況が悪化したわけではない。五体満足で動けるだけ上々だ。

 空を見上げた。太陽の位置からして時刻は昼過ぎ。どうやらそう長い時間、意識を失っていたわけではなさそうだ。

 ナサニエルのことだから今頃、空からこちらを捜しているだろう。見つけてもらうためには、もっと見晴らしの良い場所へ移動しなければ。

 とりあえず尾根へ出ようと歩き出した矢先、スイハの前に牝鹿が回り込んできた。足下から巻き上がった雪が視界を白く煙らせる。思わず腕で顔を庇う。すると再び袖をグイッと引っ張られた。

 こちらが振り払う素振りを見せると、四肢を踏ん張って抵抗する。遊びたいのか、それともまさか人里まで案内してくれるとでもいうのだろうか。

 スイハは試しに、引っ張られるまま少し歩いてみた。牝鹿は様子を窺う目つきをしながら咥えていた袖を離し、器用な後ろ歩きで彼を促した。

「……ついてこいって?」

 ゆっくり手を伸ばして首を撫でてみる。真っ白な毛に銀色の斑が走る。

「わかったよ。行こう」

 スイハはこの牝鹿に己の命運を委ねることにした。

 天候こそ安定していたが、木立の隙間を縫うように通っている獣道を辿るのは容易ではなかった。牝鹿のあとを追うスイハは、膝上まで積もった雪をかき分けるようにして進まなければならなかった。

 明日には全身が筋肉痛になっていそうだ。

 まず今日を生きのびることが出来るかもわからない状況なのに、暢気にそんなことを考えている自分が不思議だった。冷たい雪の中を汗水流して歩きながら、スイハは牝鹿を後ろから観察した。

 雪の上を滑るように歩いて行く後ろ姿からは、野生特有の緊張感のようなものは感じられない。捕食者とも被食者とも違う。超然とした風情がありながら、どこか人間くさいのだ。途中で何度もこちらを振り返って、ときおりもどかしそうに足踏みをする仕草など最たるものだろう。

 スイハが立ち止まると、牝鹿は足を止めて振り向いた。

 唇を舐め、息を整えてから呼んでみる。

「公子様」

 牝鹿は不思議そうに首を傾げた。

 ――だめか。

 そこからはまた牝鹿に急かされて、ひたすら前へ。

 頭の中で「いち、に」とかけ声を出しながら手足を交互に動かして、時間こそかかったもののスイハは這いつくばるように雪から抜けだした。

 手足が重い。旅のあいだに慣れたつもりでいたが、雪がこんなにも体力を消耗するものだとは思ってもみなかった。これまでナサニエルの助けがいかに大きなものであったかを思い知る。

 少し休まないと動けそうにない。ところが牝鹿はスイハのことなどお構いなしに、グイグイ頭を押しつけて立ちあがることを促してくる。

「休ませてよ」

 手のひらで牝鹿の顔を押し返す。それだけのことでも腕が重かった。足を滑らせて斜面を転げ落ちてはたまらない。息が整うまではてこでも動かないぞと、スイハは襟首を咥えられて引っ張られても頑として動かなかった。

 不意に、催促がやんだ。

 どうしたのだろうと振り向いたスイハの目の前で、雪が白い煙となって巻き上がった。

 これまでそばにくっついて離れなかった牝鹿は、突如――どんな気まぐれか――地面を蹴り、高く高く、木々を軽く跳び越えてどこかへ消えていった。

 呆然と立ちつくすスイハの耳に、人の声が届いた。

「おーい」

 声のするほうを見やる。木立の向こうに笠と蓑を被った人影が二つ見えた。スイハは夢中で大きく手を振った。

 笠の下にある顔は、どちらも若い。二十歳前後の青年だ。木を刈りに来たのだろう。使い込まれた斧を腰に提げている。

 スイハのなりを上から下まで眺めて、彼らは怪訝そうに顔を見合わせた。

「なにやってんだ。どこから来た?」

「ヒバリから来たんです。だけど、道に迷ってしまって……」

「そらそうだ。雪で道なんか見えねえんだから」

 鼻で笑われた。どうやら世間知らずの坊ちゃんだと思われたようだ。しかし空気が緩んだことで、警戒を解かれたのだとわかった。

 彼らは村から薪を採りに来たのだという。牝鹿のあとをついて必死に歩くうちに、人里の近くまで来ていたのだ。

「とりあえず来いよ」

「ありがとうございます」

 頭を下げて礼を言うと同時に、心の中で牝鹿に感謝した。

 人里が近い。それだけで疲れが吹き飛んだ。しかしひとつ安心すると、今度は別の心配が湧きあがった。

 スイハは前を歩く青年たちに訪ねた。

「あの、僕の他に誰か見かけませんでしたか。はぐれた連れがいるんです。黒い髪に緑色の目をした、変な格好の男なんですけど」

「知らね。村には来てねえな」

「そうですか……」

 なんでもそう都合良くはいかないらしい。スイハは肩を落とした。黒い獣の牙から自分を逃がしたあと、ナサニエルはどうなっただろう。無事でいてくれるといいのだが。

 連れの安否がわからないことで落ち込むスイハをさすがに気の毒に思ったのか、片側の青年が元気づけるように言った。

「まあ、きっと大丈夫さ。このへんは凶暴な獣もいねえし、今日は天気がいいだろ。なんなら先に村に着いてるかもしれねえぞ」

「はい」

 なんの保証にならなくとも、スイハはその気遣いが嬉しかった。

 ほどなくして人家が見えてきた。小さな集落だ。ザッと見渡したところ、戸数は百にも満たない。雪に埋もれた広い面積のほとんどは畑だという。ここの住人は狩猟と農耕による自給自足で日々の糧を得ているようだった。

 小さな子どもが三、四人で雪投げをして遊んでいるのが見える。中にはユニと同じ年頃の女の子もいた。のどかな村の景色を眺めながら、スイハは黒い獣に襲われたことを村の人々には伏せておこうと考えた。対抗策もないのに、むやみに不安を煽って混乱させてはいけない。

「他に誰か来てないか聞いてくるわ」

「おう」

 片方の青年が去っていって、スイハは残った青年についていくことになった。

 道中元気づけてくれたように、彼は気さくに話しかけてきた。

「どこに行くところだったんだ?」

「はい。薬師の、コスという人の家を訪ねるところだったんです」

 青年の足が止まった。

「あいつんとこの客?」

 やにわに声色が強ばる。何気ない会話のつもりだったのでスイハは驚いた。

「知ってるんですか?」

「いや、知ってるもなにも……」

「もしかしてここがサノワ村ですか?」

「おう、そうだよ」

「やった」

 ぐっと拳を握る。牝鹿もとい、ユウナギ公子様々だ。

 コスの名前を出してから青年は妙にそわそわしている。

「コスさんのお宅はどちらですか」

「村の外れだ」

「案内してもらえませんか」

「……あいつんとことは色々あってよ」彼はばつが悪そうに顔を背けた。「もう何年もまともに顔を合わせてねえんだ」

「近くまで案内してもらえれば、あとは自分で何とかします」

「けどよ……」

「お願いします」

 スイハは頭を下げて頼み込んだ。

 青年は気が進まない様子だったが、生来、人の良い男なのだろう。

「近くまでだぞ」

 自宅に斧と籠を置いたあと、青年はスイハを連れて村はずれに向かった。

 雪落をしている家の近くを抜けて森に入る。歩いているうちに、スイハは奇妙に思った。村外れと聞いていたが、これは完全に集落の外だ。

 村の外にある家。青年のばつが悪そうな態度。ここまで情報が出そろえば、それが何を意味するかさすがに察しがつく。

「着いたら行儀良くしとけよ。あいつのところは最近、用心棒を雇ったんだ。これがめっぽう強いやつでさ。村長の取り巻きを殺した黒い獣をひとりで追い払ったんだと」

 トウ=テンのことだ。

 いや、それよりも。

「黒い獣が出たんですか」

「ああ」

 スイハは前を歩く青年の後頭部を、信じられない思いで見つめた。

 なぜ彼は、こんなにも平然としていられるのだろう。村人たちもそうだ。犠牲者が出ているのにまるで危機感がない。子どもを外で遊ばせているくらいだ。この余裕は一体なんだというのか。

「この村はなにか、特別な備えがあるんですか?」

「いや別に。なんもなければ襲われねえもん」

「で、でも、人が死んでるんですよね?」

「そら村長が下手打ったんだ。欲を掻くから……」

「欲って?」

 部外者に話すべきことではないと理性が働いたのだろう。青年は言葉を濁した。

「さっきも言ったろ。色々あるんだ。……ほら、見えてきた」

 指差す先を見やると、木立を抜けた先に一軒の民家が建っていた。

 古い家屋だが薄汚れた印象はない。あとから部屋を増築したのだろうか、よく見ると色が違う部分がある。玄関周りは綺麗に雪かきされていたが、閉じきられた雨戸からはどこか人を拒む気配があった。

「じゃあ、ここでな」

「ありがとうございました」

「断られたらすぐ引き下がるんだぞ」

 青年は最後にそう念を押して、そそくさと来た道を引き返していった。

 スイハは下げていた頭を上げて、孤立した家を振り返った。

 色々なことが立て続けに起きたせいだろうか。まるで夢を見ている気分だ。西州公専属の医術師だったヨウ=キキが、こんな辺鄙な山中に居を構えていたなどと誰が信じるだろう。同時に、不思議な高揚が胸を満たす。これから何が起きたとしても、サクとあんなふうに別れてそれっきりという後悔だけはしなくてすむのだ。

 雪かきされた道を辿り、短い坂を登る。玄関まで目と鼻の先というところまで来たとき、家の裏から木鋤を持ったトウ=テンが姿を現した。

 人の気配を感じて見に来たが、それがスイハだとは思ってもみなかったのだろう。

「どうしてここがわかった」

 開口一番に詰問しながら距離を詰めるトウ=テンの、その剣幕たるや。なんとか逃げずに踏みとどまったが、あまりの恐ろしさにスイハは縮みあがった。

「あ、そのっ……ええと……」

 うまく舌が回らない。

 トウ=テンは素早く周囲を睥睨した。鬼の形相が再び自分を見据えた瞬間、スイハは木鋤で頭を叩き割られることを本気で覚悟した。

「ひとりか」

 全身が総毛立ったまま、スイハは必死でコクコク頷いた。

「ナサニエルはどうした」

 息を止めて、唾を飲む。

(――おまえは大したやつだ、自信を持て)

 ナサニエルに言われた言葉を頭の中で繰り返し唱えながら、スイハは引きつる喉から言葉を絞り出した。

「わからないんです。黒い獣に会って、でも、ナサニエルが空へ放りあげてくれて……それから気を失って、気づいたら鹿が……」

「白い鹿か」

 それは質問ではなく確認だった。

「近くまで、連れて来てくれました」

 トウ=テンは山のほうを一瞥して、雪の塊に木鋤を突き刺した。鋭い音にたじろぐスイハの前で玄関を開いて、彼は言った。

「入れ」

 おっかなびっくり、スイハは家の中に足を踏み入れた。

 暖気が冷えた頬を包む。閉め切った室内には明かりが灯してあった。ほのかに漂う独特な香りは薬種問屋を彷彿とさせた。壁ぎわに吊されている草の束は、薬草を乾燥させているのだろう。あれを他の薬種と組み合わせて煎じることで薬を作るのだ。

「誰か来たの?」

 台所で煮炊きをしている若い女性がこちらを振り向いた。スイハの姿を認めて、手を拭きながら好奇心に満ちた眼差しを向けてくる。

「見ない顔ね。あんた誰?」

「はじめまして。スイハと申します」

 勝ち気な顔に喜色溢れる笑みが広がった。

「ほら言ったでしょ、大丈夫だって!」トウ=テンに向けてそう言ったあと、彼女はスイハの肩をバシバシ叩いた。「よく来たわねえ。座って座って!」

 有無を言わさぬ勢いで囲炉裏の前に座らせられる。

「あ、あの……」

「あんたのことはサクから聞いてる。スイハ=ヤースンっていうんでしょ」

 歓迎されて困惑するスイハに、彼女は笑顔を向けた。

「私はチサ。ちょっと待ってて。サクを起こしてくるから」

 隣の部屋に向かうチサを見送り、スイハはこっそりトウ=テンを見上げた。やれやれと息をつくその顔は、先ほどとは打って変わって穏やかな風情である。

 記憶に焼きついて新しい憤怒の相との相違に、スイハは胃の腑が重くなった。

 トウ=テンが久鳳で『戦死』したのは、妻子を失った直後だった。スイハはロカが告白した罪の重さをひしひしと感じずにはいられなかった。

 背中の荷物を下ろす。結び目をきつくしておいたおかげで、空に放り上げられてもなくさずにすんだ。その細長い包みは、両手で持つとずしり重い。

 これなるは久鳳の国宝。皇帝が手ずから下賜した、勇者の証。

「トウ=テン。まずはこちらをお返しします」

 彼が中身を確かめるまで見届けてから、スイハは頭を下げた。

「すみませんでした」

 刀身を鞘に収め、トウ=テンは囲炉裏を挟んでスイハの向かい、隣室の戸の前に音もなく腰を下ろした。

「なにを謝る」

「あなたの過去を知った上で、ここへ来たことを」

「……ハン=ロカが喋ったのか」

「はい」

 眉間に皺を寄せて、彼は短く溜息をついた。

「あれから俺も多少は頭が冷えた。ハン=ロカの教え子というだけで、おまえをどうこうするつもりはない。……刀を届けてくれたこと、感謝する」

 そのとき隣の部屋からチサが出てきた。

「だめだわ」

 戸の隙間から布団の端が見えた。サクの姿を探してつい腰を浮かしかけたところをトウ=テンに睨まれて、スイハは足を揃えて座り直した。

「ごめんね。あの子、寝起きが悪くって」

「具合が悪いんですか?」

「ううん。冬はいつもこうなの。まあ、軽い冬眠みたいなもんよ。半分は獣だからね。お腹が空いたら起きてくるわ」

 元より気にしてはいなかったが、こうもあっけらかんと話されると本当に何でもないことのように思えてくる。ただし自分も含め、チサのような人間は少数派だろうということもスイハにはわかっていた。

「チサさんは、サクのことよくわかってるんですね」

「小さい頃から知ってるもの。あの子、あんたに獣の姿を見られたこと気にしててね。一昨日も昨日も、すごく落ち込んでたんだから」

「そうですか。一昨日……」

 スイハは引っかかりを覚えた。

「……二人が帰ってきたのって、いつですか?」

「一昨日の明け方だったよね、おじさん」

「ああ」

 一瞬遅れて、愕然とする。

 スイハの記憶だと、ヒバリでトウ=テンたちと別れたのが一昨日の夜だ。いつの間にか一日のずれが生じている。

 思い当たる原因はひとつしかない。気絶していた時間である。

 意識を失っていたのはほんの一、二時間のことだと思っていたが、実際には丸一日経っていたのだ。スイハは混乱した。そんな馬鹿なことがあるだろうか。自分は一晩中、雪山で野ざらしになっていたというのか。

 こうしてはいられない。スイハは慌てて立ちあがった。

「どうした」

「ナサニエルを捜しに行かないと」

 混乱も冷めやらぬまま状況をまくしたてる。

「山の中で黒い獣に襲われたとき、ナサニエルは真っ先に僕を逃がしてくれた。ついさっきのことだと思ってた。でもどういうわけか、僕は一晩中気を失ってたんだ!」

「落ち着け」

「ナサニエルは空を飛んでどこへでも行けるんです。なのに合流できないってことは、怪我をして動けなくなっているのかもしれない。早く助けに行かないと」

 トウ=テンは土間の隅に置かれた荷物から、ミアライ周辺の地図を取り出した。

「襲われた場所は?」

「このへんです!」

 最後に記憶していた場所を指し示す。

 トウ=テンはしばらく地図を眺めてから立ちあがった。

「おまえはここで待て。俺が捜しに行く」

「待ってるだけなんて」

「足手まといだ」

 スイハは反論を飲み込んだ。

 牝鹿に急かされながら雪山を歩き回った足はもう、芯を抜かれたように力が入らない。トウ=テンの言うとおりだった。無理やりついていったとしても足手まといになることは目に見ていた。

「おじさん」

「なにか食わせてやれ」

 トウ=テンに外套を手渡すチサの顔は、不安げに曇っていた。

「……おじさんがいないときにコスが帰って来たら、この子、殺されるわよ」

 ささやくような声だったが、彼女は確かにそう言った。

「それぐらいの覚悟はしているはずだ」

 固まるスイハを冷ややかに一瞥して、トウ=テンは勝手口から外へ出て行った。

 馬の足音が家の横を駆け抜けていった。遠ざかる気配にいっそう心細さを覚えたが、動揺を表に出したり、弱音を吐いたりするわけにはいかなかった。それこそ自分は覚悟のない人間だと白状するようなものだ。

 かといって黙って殺されるわけにもいかない

 台所で鍋をかき混ぜているチサに、スイハは尋ねた。

「僕は殺されるんですか?」

 チサは肩をすくめた。

「食べたら隠れなさい」

 スイハに食事を出して、彼女は外の気配を気にするように戸口のほうへ顔を向けた。

「薬の材料を採りに行ってるの。じきに帰ってくるわ」

「コスさんは、サクのお兄さんなんですよね」

「ええ。悪い人じゃないのよ。でも話せばわかるなんて思わないで。サクのことになるとすぐ頭に血が上るの」

 汁物で満たされた椀のぬくもりで指を温めながら、スイハは実は、と打ち明けた。

「ここに来る前、村の人に会ったんです。この家に用事があると言ったら、もう何年もまともに顔を合わせていないって。昔、なにかあったんですか?」

「そりゃあね」

 わかってるくせに、と言いたげにチサは苦笑した。

 スイハは恥じ入った。

「すみません」

「いいわ。あんたはサクの友だちだから。ほら、冷めないうちに食べなさいよ」

「いただきます」

 温かい汁物を胃に流し込むと、麻痺していた空腹感が目を覚ました。ぐうぐう腹を鳴らしながらスイハは一日ぶりの食事にありついた。

 チサは火の前で繕い物をしながら、時折チラチラと外を気にしていた。

「あの人ったら、あんたがサクのことを言いふらすんじゃないかって疑ってるの」

「獣の姿のことですか?」

「うん。サクもね、嫌われるってめそめそしちゃって」

「言いふらさないし、嫌いになんてならないです」

「でしょ? おじさんも何度もそう言ってた。でもサクにとって、それを信じるのは難しいことなの。サクは人に獣の姿を見せないよう気をつけてきたけど、見た目でどうしても噂になるし」

 小さな共同体に属する人たちにとって、人とは違う、普通ではないということは、スイハが想像する以上に大きな意味を持っているのだろう。

 しかしやはり、それだけのことで、と思ってしまう。自分たちとは違うという、たかがそれだけのことで人は人を嫌い、厭うものなのか。

 村人、少なくともスイハが出会った青年は、この家の人間に対して気が咎めているふうだったが。

「でも、村の中にも……あなたみたいに、気にしない人もいるんですよね」

「いるにはいるんだけどね。みんなコスが追い払っちゃうのよ」

「追い払う?」

「言ったでしょ。サクのことになるとすぐカッとなるって。子どもの頃からそうだった。いじめるやつだけじゃなくて誰も彼も遠ざけるの。色々あったから、そうなるのもわかるんだけど……」

 苦渋の表情を押し込めて、チサは努めて明るい顔をして見せた。

「殺されるってのはさすがに言い過ぎたかも。でも用心するに越したことはないわ。おじさんが帰って来るまで隠れなさい」

「いいえ」

 驚いて両目を見開くチサを見つめ返して、スイハは言った。

「コスさんに会います。ここで帰りを待たせて下さい」

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