04.メイサ=ヤースン


 屋敷の自室で、メイサは鏡と向き合っていた。

 身支度の最後の仕上げに、結い上げた髪に鼈甲のかんざしを挿す。

 婚約者と顔を合わせるのは見合いの席以来だ。鏡に映る自分の姿におかしなところがないか確かめる。黒に近い藍色の衣に、藤色の帯。どちらも私用の衣装から選んだ。衣装役が選んだものは棚の奥にしまってある。〈狩り〉を終えたばかりの時節に、華やかな色合いはそぐわない。

 窓の外を見やり、メイサは落ち着かない気分で指を組んだ。

 次に婚約者と会うのは、婚礼の日だろうと思っていた。

 形式に則った見合い。事務的なやり取り。その日、結婚する当事者たちが言葉を交わしたのは、はじまりと終わりの挨拶の二回だけ。

 たとえ愛がなくとも、言葉を交わせば情が芽生えるかもしれないという期待は早々に打ち砕かれた。現実は非情だ。とりとめのない夢想を差し挟む余地すら与えられない。こちらを振り返ることなく退出していく婚約者の横顔を見送りながら、家同士が決めた結婚など、こんなものかと落胆した。

 そうした経緯があったからこそ、婚約者から手紙が届いたときは我が目を疑った。

 その手紙には、几帳面な文字でこう書かれていた。


冠省 メイサ=ヤースン殿


近日中にお伺い致します。

何卒ご自愛専一に過ごされますよう、お願い申し上げます。

   早々

      セン=タイラ


 セン=タイラ自身は軍人だが、セン家は久鳳でも有数の商家である。

 〈狩り〉で負傷した久鳳人を送還するにあたって、メイサは船舶を所有するセン家に協力を要請した。航海にかかる費用や物資の補給を西州側が負担する条件で、問題自体はとんとん拍子に片付いた。

 ――もしかして、そのことで来るのかしら。

 手紙に用件が書かれていないことが不穏な想像を駆り立てた。

 借りを返せと、無茶な要求をされるかもしれない。果たして一人で対処できるだろうか。こんなとき継母が生きていれば知恵を借りられたのに。

 港に船が到着したのが今朝だから、今日中に一度、挨拶にやってくるだろう。

 心を落ち着けようと深呼吸していると、思いのほか早く、使用人がセン=タイラの訪問を告げに来た。いよいよだ。メイサは覚悟を決めて部屋を出た。

 階段を下っていくと、玄関口で弟が応対に出ているのが見えた。扉から体を半分外に出して何か話をしている。しかし一向に客人を招き入れる気配がない。

「スイハ!」

 呼びかけると、スイハはあたふたと振り返った。

「姉さん。だめだよ、降りて来ちゃ」

「お客さまをいつまで外に待たせておくの」

「いやその……」

 目を白黒させる弟をわきに追いやり、メイサは婚約者を家の中に招いた。

「お待たせしました」後ろに一歩、距離を開けて頭を下げる。「お久しぶりです。セン=タイラ様」

「ご無事で何よりです。メイサ殿」

 上背と体格に恵まれたセン=タイラの佇まいには、軍人らしい厳格さがあった。

 メイサは間に割り込もうとするスイハの肩に手を置いた。

「こちらは弟のスイハです。スイハ、ご挨拶はすませたの?」

「もちろんですよ。話に聞いていた通り、感じの良い方ですね」

 笑顔が引きつっている。

 降りてきて正解だった。メイサはため息を堪えて弟を後ろに下げた。

「ごめんなさい。迎えの者を出せればよかったのですけど、人手がなくて」

「お気遣いは無用です。それより……」

 彼は丁寧にゆっくりと頭を下げた。

「このたび亡くなられた方々におかれましては、謹んでお悔やみを申し上げます。また、傷を負った久鳳国民になみなみならぬ温情をかけていただき、感謝の言葉もありません」

「そんな……セン家のお力添えのおかげですわ。こんなところで立ち話もなんでしょう。どうぞこちらへ」

 西向きの客間にセン=タイラを案内したあと、メイサはお茶の用意をしに台所へ向かった。入り口までついてきた弟のむくれ顔を見て、思わず苦笑する。

「態度に出さないの」

「別に、そんなんじゃないけど」

 弟がこの縁談にいい感情を持っていないことは薄々察していた。

 結婚は義務だ。本邸に来たばかりのころ、継母からよく言い含められた。誰に嫁いだとしても、夫の留守を守り、子を産み、家を取り仕切ることが女主人の務めなのだと。

 メイサ自身は納得している。

 ただ、弟に心配をかけていることについては申し訳なく思う。

「ひとつ頼まれてくれる?」

 メイサは焼き菓子を包んでスイハに持たせた。

「ユニの様子を見てきて。このあいだ買ったお土産、まだ渡してないんでしょう?」

「気に入るかわからないけど」

「十二色入りのきれいなリボン。きっと喜ぶわよ。よろしくね、お兄ちゃん」

 スイハは不承不承といった顔で焼き菓子の包みを受け取り、二階へ向かった。

 鞄がすぐに見つかるといいけれど、と、メイサは微笑んだ。

 二階の東側は今、本でいっぱいだ。ロカが引っ越し先を見つけるまで、義塾跡の半地下に積んでいた蔵書を預かることになったのだという。なにせ二部屋を埋め尽くすほどの量だ。それなりの広さがある半地下も、さすがに手狭になってきたということだろう。

 沸かした湯でお茶を入れていると、鞄を肩にかけたスイハが再度顔を出した。

「姉さん」

「なあに?」

「変なことをされそうになったらすぐ誰か呼ぶんだよ」

 メイサは危うくお茶をこぼしそうになった。

「なんてこと言うの!」

 叱責から逃げるようにスイハは家を飛び出していった。

「まったくもう……」

 彼女は波打つ胸を押さえた。

 ――男の子って、すぐそういうことと結びつけるんだから。

 とにもかくにも、弟は外に逃がせた。これで心置きなくセン=タイラと対峙できる。

 お茶一式を載せた盆を手に、そろりそろりと客間へ向かう。

 その途中の廊下で、メイサは足を止めた。住み込みの家政婦が三人、道を塞ぐように集まっている。

「どうしたの、みんな」彼女らが各々、箒や鏝や鍋を握っているのを見て、メイサは目を丸くした。「お客さまの応対は私がするから、下がっていていいのよ」

「お嬢様……」

 家政婦たちは深刻な顔を見合わせたかと思うと、メイサに迫り寄った。

「いいですか、お嬢様。何かあったら大声を出すんですよ。すぐお助けに参ります。お嬢様には、わたしたちがついていますからね」

 箒の柄を握りしめる手が震えている。

 ――ありえないわ。だって、そんなこと。

 誰も彼もが似たような心配をするものだから、なんだか怖くなってきた。かといって、それを顔に出すわけにはいかない。

 メイサは家政婦たちを安心させるために微笑んだ。

「ありがとう。大丈夫よ、みんな。セン=タイラ様は久鳳の武人。物静かで礼節をわきまえた方です。どうかいつも通り過ごしてちょうだい」

 気遣わしげな視線に見守られながら、彼女は余裕のあるたおやかな仕草を意識して客間のドアをノックした。

「お待たせしております」

 セン=タイラは椅子から立ちあがって会釈した。外套を着込んだままの姿を見て、メイサはお茶を出しながら言った。

「上着をお預かりしますわ」

「いえ。すぐお暇しますので、このままで」

 彼の体からはほのかに潮の香りがした。

 西州に到着してすぐ、州都に来たのだろうか。

 メイサは机を挟んで向かいの椅子に座った。こうして向かい合うのは二度目だが、二人きりになるのは初めてだ。

「遠路はるばるお疲れさまでした、セン=タイラ様。船の旅は大変でしたでしょう。風と波が穏やかでも、久鳳から西州まで二日はかかると聞いています」

 表情をぴくりとも変えずにセン=タイラは答えた。

「海が荒れて三日かかりました。おかげで、まだ地面が揺れている気がします」

「まあ、それは……ご気分は大丈夫ですか?」

「問題ありません」

 しかし彼の顔色はあまりいいとは言えなかった。まだ船酔いが残っているようだ。

 ――意外と意地っ張りなのかしら。

 メイサは自分の湯飲みを手に取り、セン=タイラにも勧めた。

「冷めないうちにどうぞ」

 客間にしばしの沈黙が流れる。

 当たり障りのない会話がすむと、いやでも緊張が増してきた。一体どんな用件を切り出されるのだろう。

 セン=タイラが、空になった湯飲みを置いた。背筋を伸ばしたメイサが息を詰めて見守る前で、彼は腰をあげた。

「では」

 そう言って会釈する。今にも退出する風情だ。

 メイサはぽかんと口を開いた。

「……お帰りになられるの?」

「はい」

「急ぎの用事だったのでは」

「いえ」

 これでは取りつく島もない。彼女は単刀直入に言った。

「遠慮はいりません。はっきり仰って」

 セン=タイラの顔に、初めて表情らしいものが浮かんだ。

「……顔を」きまりが悪そうに目をそらす。「見に来ただけです。……お役目から戻られたと聞いたので」

 ――そんなことのために、わざわざ久鳳から?

 メイサが信じられない思いで見つめていると、彼は気まずそうに再び椅子に腰を下ろした。膝に手を置いて、逡巡を振り切るように口を開く。

「魔物の討伐隊に同行されたそうですね」

「はい」

「失礼ですが、あなたは軍籍をお持ちなのですか?」

 セン=タイラの真意を読み取れないまま、メイサは慎重に答えた。

「いいえ。ですが討伐隊を率いるにあたり、形式上の肩書きを与えられました。黒い獣の討伐……〈狩り〉は、ヤースン家が主導する復興事業のひとつですから」

「魔物の討伐は本来、軍人の仕事です」

 理解しかねるという顔だ。

 彼の困惑は理解できた。メイサは憂うつに頷いた。

「西州は他の国とは少し……いいえ。だいぶ事情が違うのです」

 彼女自身、他国の歴史や文化を学べば学ぶほど、ひしひしと感じずにはいられない。数百年ものあいだ、戦争も、飢饉も、災害も、魔物の脅威もなく、平和な世が続いてきた西州という国の異端さを。

 久鳳には万の軍勢を率いる七人の将軍がいる。ヨームには統制の取れた騎士団がいる。サナンには魔物狩りを得手とする勇猛な戦士たちがいる。

 しかし、西州は。

 ――西州に武人なし。

 それはこの国が抱える、一朝一夕には解決しがたい大きな問題だった。兵士ひとりひとりの強さは言うまでもなく、全体として見ても、西州軍の練度は周辺諸国とは比べものにならないほど低い。

「周知の事実ですが、西州はずっと平和な国でした。これまで戦争をしたことも、災害に見舞われたこともない。そしてそれは、一般市民に限った話ではありません。〈狩り〉へ赴く兵たちにのしかかる重圧は、計り知れないものがあります」

 それでも、彼らは逃げ出したりしなかった。隊列を組んでコヌサへ、死地へと続く道を歩いた。我が身を、家族を、西州公が遺したこの国を守ろうと。勇気を振り絞って。

 メイサは毅然として言った。

「私はラザロ=ヤースンの娘です。たとえお飾りでも、後方で待機しているだけだとしても、彼らと共に戦場にあらねばならない。そこで起きたすべての責任はヤースン家が負うものなのだということを、この身をもって示さなければならないのです」

 セン=タイラは眉を寄せた。

 軍人としては納得しがたいのだろう。メイサは反感は抱かなかった。たかが小娘が一丁前に軍を率いるなど、久鳳の価値観ではありえないことだとわかっていた。

「理屈はわかります。ですが……」その声には苦渋が滲んでいた。「その役目は、軍人ならぬ身には荷が勝ちすぎるのではありませんか」

 目が合った。違和感と気づきは同時に来た。

 これは、心配している顔だ。

 メイサは信じられない思いで婚約者を見つめた。そういえばさきほど玄関で、セン=タイラは開口一番にこう言った。

 ご無事で何よりです、と。

 なんの思惑も企みもなく、本当に、ただ顔を見るためだけにやって来たというのか。船に乗って海を越えて、はるばる西州まで。たった一度、見合いの席で顔を合わせただけの女の身を案じて。

 都合の良い勘違いだ。そう思おうとすればするほど、心が揺らいだ。

「へ、平気です。父の頼みですし……」

 向かいの席で、セン=タイラが薄く目を見開いた。穴が開くほど顔を見つめられて、目をそらすこともできずメイサはどぎまぎした。

「あ、あの、私、馬なら殿方並みに乗りこなす自信があります。女だてらに生意気だと思われるでしょうけど、武器の使い方とか、立ち振る舞いとか……訓練を受けました。も、もちろんちょっと訓練したくらいじゃ、本職の方には全然、かなわないんですけど……」

 ――なにを言っているの、私。

 顔が熱い。頭が真っ白だ。言うべきことが何も思い浮かばない。穴があったら入りたい気分だった。

「ご、ごめんなさい。変なこと言って。とにかく、大丈夫ですから……」仕切り直しとばかりに、メイサはそそくさ腰を浮かした。「お茶のおかわりを入れますわ」

「いえ、お構いなく。そろそろお暇します」

 耐えがたい羞恥心に襲われていたメイサは、内心ホッとした。

 しかし見送りに向かう道すがら、前を歩くセン=タイラの広い大きな背中を見ているうちに、今度はふつふつと後悔が湧きあがった。

 会わずにいるあいだ、少なからず気にかけてくれていた。それなのに始めから疑ってかかって、余計な気を回して、自分は本当に何をやっているのだろう。

 外へ出ると、灰色の空からちらほらと雪が降り始めていた。

「突然お邪魔して申し訳ありませんでした」

「いいえ。こちらこそ……」

 大したおもてなしもできなくて、と頭を下げようとして考え直し、メイサは頭ひとつ高い位置にある婚約者の顔を見上げた。

「……正直に打ち明けると、少し怖かったんです。あなたがおいでになるって聞いて私、なんか色々と、悪いほうに考えてしまって……。だから、今日はお会いできてよかった。お話できてよかったです」

 セン=タイラは呆然と立ちつくし、不意に、白昼夢から覚めたように眩しげに目を瞬いた。

「それは……手紙にしろ、口にしろ、どうも私は言葉が足りないようで……」

 歯切れ悪くいくつか言葉を並べてから、彼は目を伏せて静かに深呼吸した。

「……今日は、顔を見ることができて安心しました」

 小さな声だったが確かに聞こえた。

 次に目を合わせたとき、その顔は硬質な無表情に戻っていたが、メイサは以前よりもずっとセン=タイラのことを身近に感じた。

「あの……しばらくのあいだ、こちらにいらっしゃるの?」

「冬期休暇を取りました。何日かこちらでゆっくりするつもりです」

「よろしければまた、いらして下さい。いつでも」

「はい。では」

 門を出て一礼するセン=タイラに、メイサはお辞儀を返した。

 薄く降り積もった雪に残った足跡を、彼女はしばらく立ち尽くして見つめていた。



 冬の晴れ間、メイサは末の妹に会いに宮中を訪れた。

 ほの暗い廊下を抜けて庭園に出ると、冷たいそよ風が頬を撫でた。庭はすっかり白く染まっていた。降り積もった雪が陽の照り返しで眩しく煌めいている。

 ここはいつ来ても綺麗だ。

 肩掛けを手で押さえ、メイサは耳を澄ませた。

 小鳥の歌う声と、無邪気な笑い声が聞こえる。穏やかな心地で、彼女はゆったりと四阿に向かった。

 こちらから声をかける前に、ユニが振り返ってパッと顔を輝かせた。

「姉さま!」

 手に留まっていた小鳥が空に羽ばたくと同時に、ユニは椅子から飛び降りてメイサの胸に飛び込んだ。

「久しぶりね、ユニ。元気だった?」

「うん! もうずっと、ずーっと会いたかったんだから!」

 自然と笑みが零れる。

 淡い色の髪、雪のように白い肌、くすんだ鳶色の瞳。この年の離れた妹が、メイサは愛おしくてならない。

 彼女は妹の小さな体を肩掛けで包んであげた。

「寒いでしょう。ほら、ほっぺがこんなに赤いわ」

「全然へっちゃらよ! 今日はとってもいい日だわ。だって姉さまが会いに来てくれたんだもん」

 ユニは宮中の外に出ることを父から禁じられている。

 本当なら外へ出て、買い物やお茶に連れて行ってあげたい。宮中では見ることのできない、人がいる街並みを歩かせてあげたい。だが西州の治安は、もっとも警備の固い州都でも万全とは言いがたいのが現状だ。

「姉さま。おつとめのあいだ、危ない目に遭わなかった? 悪い人いた?」

「少しね。でも大丈夫。みんな捕まったから」

 本当は、全員は捕まえられなかった。

 コヌサで逮捕したならず者たちは、西州公の加護があるという謳い文句でなんの価値もないガラクタを売りさばいて金儲けをしていた。男たちは取り調べに対して一切悪びれなかった。むしろ自分たちは安心を売ることで客の不安を解消してやっているのだと居直った。罪に問われるべき連中は、もっと他にいると。

 信じたくないことだが、犯罪者のなかには人を商品にする者もいるというのだ。

 ――誘拐。

 メイサには、その二文字で触発される記憶がある。

 今から八年前、西州公が存命だった頃。七歳のスイハが、遊びに出かけた先で誘拐されたことがあった。

 今思い返しても不可解な事件だった。脅迫状も、身代金の要求もない。誘拐の目的が掴めない。それだけに、弟の無事な顔を見るまでメイサは生きた心地がしなかった。

 運が悪かったら、もし犯人に殺意があったら、二度と帰って来なかったかもしれないのだ。世の中に人を売り物にする犯罪者がいると知った今、またそんなことが起きたらと思うと、メイサは恐ろしくて堪らなかった。

「姉さま。姉さま、大丈夫? なにか怖いの?」

 ――いけない。この子は聡いから、すぐこちらの不安に勘づいてしまう。

 メイサは首を振った。

「ごめんね。大丈夫よ」

「お部屋に行きましょ。あったかーいお茶をいれてあげる」

「まあ、嬉しいわ」

 四阿から出て、ユニは手を高くかざした。さっきの小鳥がその指にとまる。

「遊んでくれてありがとう。春になったらまた、みんなでいらっしゃい」

 小鳥はチチッと鳴いて空に羽ばたいていった。

 ユニには普通の人にはない不思議な才能があった。どうやら動物の言葉がわかるらしいのだ。昔は小さい子特有の妄想だと思っていたが、言葉が達者になるにつれて言っていることの辻褄が合っているとわかって、メイサも信じるようになった。

 手を繋いで歩きながら、ユニは上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。

「カルグ兄上とは会ってるの?」

「うん。このあいだスイハ兄さまが来たときね、お茶をいれてあげたの。姉さまから教わったとおりにやったらね、美味しいって褒めてくれたのよ」

「よかったわね」

 長兄カルグは腐傷を負って以来、典薬寮で療養している。容態が急変したとしても、そこなら医術師がすぐ駆けつけることが出来るからだ。

「ねえ、姉さま。『ヤバい』ってどういう意味?」

 まさか妹の口からそんな言葉が出てくるとは思いもよらず、メイサはびっくりして聞き返した。

「誰から聞いたの?」

「スイハ兄さまが言ってたの。『父上がヤバい』って」

 その様子は容易に想像できた。

 子どもの頃から自由に遊び回っていたスイハは、外で覚えた市井の言葉、いわゆる俗語にもよく馴染んでいる。公私で使い分けが出来るならと、今まであまり強く叱ったことはなかったが、考え直す必要がありそうだ。

「大変だっていう意味よ。あまり行儀のいい言葉じゃないんだけれど……父上に何かあったの?」

「わかんない」

「そう……」

 父の身に何かあればすぐ屋敷のほうへ連絡が来ただろうから、急を要することではないのだろうが、二人のあいだで何かあったのかもしれない。あとで兄に聞いてみよう。

 久しぶりの休日だ。今日ぐらいは、日頃の不安を忘れてゆっくりしたかった。

 ユニがいれたお茶を飲み、焼き菓子をつまみながら他愛もない話をした。小鳥やネズミなどの小さな友だちのこと、庭園で育てている花のこと、ホノエのこと、それから、メイサの結婚相手のことを。

「姉さま。セン=タイラってどんな人?」

「背が高くて静かな方よ。けど、ちょっと意地っ張りかも」

 どうしてか、ユニはセン=タイラに興味津々だった。

「その人、優しい? 姉さまのこと愛してる?」

「ど、どうかしら……」

 先日のことを思い出すと、メイサは妙に気恥ずかしかった。

「まだわからないわ。会ったばかりだもの」彼女はそそくさと話を切り上げてユニの後ろに回った。「そんなことより髪を整えてあげる」

 柔らかな髪を櫛で梳く。

 こうしていると昔を思い出した。

 初めて会ったとき、ユニの髪は伸び放題でボサボサだった。

 たっぷりの湯に浸して、絡まっているところを丁寧にほぐしながら少しずつ櫛を入れた。汚れを洗い落として乾かし、ちょうどいい長さに切って、そうして時間をかけて手入れをすると、乳白色の髪は見違えるほど綺麗になった。

「ユニの髪は本当に綺麗ね。さらさらで、柔らかくて」

 ユニは嬉しそうに笑った。

「母さまの髪はね、わたしのより白くてきらきらしてて、とっても綺麗なの」

「お母様のこと覚えてるの?」

「忘れるはずないわ!」ユニは髪を翻して振り返った。「母さまがしてくれた話だって全部覚えてるもの。だからわたしね、知ってるのよ。父さまが子どもの頃の話とか、二人がどんなふうに出会ったかってことも……」

 くすんだ鳶色の瞳にみるみる涙が溢れる。

 ユニは口を真一文字に結んで堪えようとしたが、三秒も持たなかった。両目から大粒の涙がぽろぽろと零れた。

「ユニ」

「母さまに会いたい」

 典薬寮のラカンは親切にしてくれるし、カルグとも頻繁に会っているようだが、母親のいない寂しさは埋めようがない。ユニはまだ九歳だ。宮中でひとり、どれだけ心細い夜を過ごしてきただろう。

 メイサはユニを抱きしめた。そうすることしかできなかった。

「わかるわ、ユニ。私もときどき、亡くなったお母さんのことが恋しくなるもの」

「……大人でも?」

「家族と離ればなれになるのは、大人でも寂しいことよ。我慢してるユニは偉いわ」

 誰も、誰かの代わりにはなれない。ましてや母親など。

「姉さま……」

 ユニはスン、と鼻をすすった。

「姉さまは、結婚したら遠くへ行くんでしょう」

「……ええ」

「離れても、わたしを忘れないでいてくれる? わたしの姉さまでいてくれる?」

「もちろんよ。今だって会えないときは手紙を書いてるでしょう。届くまで時間がかかるようになるだろうけど、ユニのことはいつでも大事に思ってるわ。安心して」

 その言葉で、ユニは息を吹き返したように明るく頬を染めた。

 メイサはハンカチで涙のあとを拭いてあげた。

「さ、後ろを向いて。髪の続きをやってあげる。今日はいいものを持って来たの」

「いいもの? なに?」

「ふふ。すぐわかるわ」

 淡い色の柔らかな髪を優しく結って、メイサは仕上げに髪飾りをつけた。以前、町の小間物屋で見つけたものだ。トンボ玉の髪飾りはユニが好きな夕焼け色をしていた。

 出来上がりを見たユニは、感激して鏡の前で何度もくるくると回った。

「目を回しちゃうわよ」

「だって嬉しいんだもの! ありがとう、姉さま!」

 花が咲くような笑顔だった。

 メイサは膝の上で揃えた手にぎゅっと力を込めた。

 ――この子のために、西州に未来が欲しい。

 西州史上最悪の苦難の中にあって、誰もが、何かを守ろうと戦っている。コヌサへ赴いた兵たちが皆そうであったように、メイサもまた、強く思った。

 ――この先、何があっても。

 この笑顔を守るために戦おうと。

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