03.訳ありの薬師たち


 ミアライ地方に着いたのはコヌサを出発してから十八日目のことだった。

 街道の終点、ヒバリの町を素通りして山に入る。サクの指し示す道筋をなぞって馬を歩かせた。一歩足を踏み入れた時点で正規の道でないことは察しがついていたが、行けども行けども獣道だ。辺りに植わっている落葉樹からは秋の彩りが剥げ落ち、地面はすっかり落葉で覆われている。

 トウ=テンは馬から降りた。続けて降りようとするサクを手で制して、手綱を引いて先導する。黒鹿毛の馬は一歩ずつ足下を確かめながら、慎重に歩みを進めた。

 冬の夕空は早くも夜の色に変わろうとしている。トウ=テンは途中の平地で馬を待たせて、崖の上から辺りを見渡した。北西の空に民家の煙が立ちのぼっている。進行方向からやや外れた場所だ。

 戻ると、黒鹿毛が岩の割れ目から湧き出す水を飲んでいた。その首を撫でているサクに、トウ=テンは一応確認した。

「方角は合っているのか」

「うん。うちは村の外にあるから」

 そう答えてから、サクは小さく呟いた。

「……誰にも見られないように、こっそり帰りたい」

「わかった」

 トウ=テンは多くは尋ねず、木の枝に引っかけた手綱を手に取った。

 日が落ちると辺りはすっかり暗くなった。

 遠くに立ち並ぶ幹の隙間に、民家の明かりが見え隠れする。それを横目に見ながら、トウ=テンは慎重に馬を進めた。この暗さでは村人たちも野良仕事を切り上げて家に帰っているころだろうが、極力、物音と気配を抑えていく。

 緩やかな斜面を登りきると、不意に森が途切れ、眼下が開けた。

 空き地に民家が一軒、ぽつんと建っている。木枠の格子窓から、心を溶かすような明かりと夕餉の湯気が漏れていた。

 サクが鞍から身を乗り出した。

「着いた!」

 声を弾ませて馬から降りる。あとわずかの距離がもどかしいと言わんばかりに、小走りで駆けていく。

 トウ=テンは立ちつくしてその背中を見ていた。

 馬が顔をすり寄せて、どうしたのかと瞳で問いかけてくる。彼は無言で首を振って歩き出した。

 家の前でサクは薬籠を肩から下ろした。

「ただいまぁ」

 玄関戸が勢いよく開いた。

 出てきたのは二十歳前後の青年だった。よほど慌てていたのか素足で、上着も羽織っていない。彼は呆然とサクの肩を掴み、上から下まで眺めてここにいることを確かめると、わなわなと唇を震わせた。

「今までどこにいたんだ!」

 サクはばつが悪そうに縮こまった。

「母さんの薬箱まで持ちだして……」

 青年はトウ=テンがいることに気づくと、警戒する表情で声を低くした。

「誰だ」

「用心棒のトウテン。うちまで送ってもらった」

「送ってもらったって、おまえ……どこ行ってた?」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で凄まれて、サクはあっと小さく声をあげた。

 どうやら家人に何の断りもなく出かけていたようだ。そして今、送ってもらわなければ帰れないところに行っていたのだと、自分から白状したのである。サクは後ろめたそうに視線を泳がせた。

「それに、その服とか……」

「そんなこと今はいいでしょ! どいて!」

 青年を押しのけて家の中から若い女が出てきた。彼女はサクの姿を一目見るなり、涙ぐんでその体を抱きしめた。

「どこ行ってたのよ、あんたって子は!」

「チサ」

「……よかった。帰ってきて、よかった」

 よほど心配していたのだろう。声を詰まらせ、ぼろぼろ涙を零している。

 コヌサで聞いていたサクの家族とは、この二人のことだ。サクは女にぎゅっと抱きつき、肩口に額をぐりぐり擦りつけて甘えた。

 青年が大きく溜息をついた。彼は家の中に入るよう二人を促しながら、トウ=テンに向けて無愛想に言った。

「……裏に納屋がある。馬はそこに入れてくれ」

 小さな畑の横を通って家の裏手へ回る。

 納屋の様子は暗くてよく見えないが、埃臭い空気から古びていることが想像できる。中はよく整理されているようで十分な広さがあった。馬を中に繋ぎ、手探りで見つけた桶を持って外へ出た。周囲に目を走らせる。探していたものはすぐ見つかった。

 石造りの井戸には手押しポンプがついていた。どうやらこの家の生活用水はここから汲み上げられているらしい。ハンドルを押し下げると勢いよく水が噴き出した。桶いっぱいに水を満たし、馬がいつでも飲めるように納屋の隅に設置する。

 そこまでやってから手を洗っていると、勝手口がガラリと開いた。

 出てきたのは、チサと呼ばれていた若い女だった。

「寒いでしょ。お湯を用意したからどうぞ入って」

 笑顔で手招かれて、トウ=テンは勝手口から家の中に入った。土間に湯の張られたタライがあった。

「履き物は脱いでそこに揃えておいて……といっても、おじさんも久鳳の人なのよね。サクが言ってた。ね、あの子を送ってきてくれて本当にありがとう」

「礼はいらん。それが仕事だ」

 チサはキョトンと目を瞬いたあと、にこりと笑って頭を下げた。

 トウ=テンは上がりかまちに腰を下ろして脚絆を外し、タライの湯で足を洗った。

 西州の一般的な民家は、家に上がるときわざわざ履き物を脱いだりしない。素足になるのは風呂と寝るときくらいで、脱いだ靴は寝台のわきに揃えて置くのが一般的だ。しかし、この家は土足厳禁。すなわち久鳳の様式なのである。

 人間の生まれと育ちは暮らしの風景に現れる。

 足を洗い終えたトウ=テンは、家の中を見回した。壁際の大きな棚は、たくさんの引き出しが等間隔で並んでいて薬種問屋のそれを彷彿とさせる。目に見える範囲にある調度品はどれもよく手入れされていた。サクの母親は久鳳人、それも高い教養を備えた女だったのだろう。薬師を生業としていたというが、その仕事は子どもたちにしっかり受け継がれているようだった。

 隣の部屋から着替えたサクが顔を出した。が、言葉を発するより先に、青年がその頭を部屋の中に押し込んで戸を閉じた。

「座ってくれ」

 青年は囲炉裏のそばにトウ=テンを招いた。

「俺はコス。薬師をしている。さっきのは女房のチサだ」

「用心棒のトウ=テンだ」

「サクが世話になった。礼を言う」

 感謝を述べつつも、態度に警戒が滲んでいる。

 特別、珍しいことでもない。土地に根付いて暮らしている者が、外部からやって来た人間を警戒するのは当然だ。無用な疑いを避けるため、トウ=テンは仕事で訪れた土地に一晩滞在するときは、必ずそこの有力者の家へ挨拶へ行くようにしてきた。

 だが、この家は少々事情が込み入っているようだ。

「村八分か」

 コスは特に気分を害したふうでもなく、沸いたお茶を湯飲みに注いだ。

「見ての通りだ。チサはともかく、俺たちはもともとよそ者だからな」

 山奥の孤立した集落がよそ者を嫌うのはよくある話だが、この家が村八分になっている理由に、サクの容姿が関係しているであろうことは想像に難くなかった。他人と違うということはそれだけで、良くも悪くも人の心を波立たせずにはいられない。

 コスは女房とサクを部屋に隠して、一人でトウ=テンと向かい合っている。こういうときに頼れる隣人がいないのだ。

 受け取った茶の香りを嗅ぎながら、トウ=テンは言った。

「普段は町で仕事を?」

「ああ。……サクから聞いてるかもしれないが、亡くなった母が薬師でな。その頃の客と今も関係が続いてるんだ。おかげで食っていける」

 コスは茶を一口啜り、話を切り替えた。

「ところで、サクとはどこで会った?」

「コヌサだ」

 コスはぎょっとして、疑わしくトウ=テンを凝視した。まさか、それほど遠くへ行っているとは思ってもみなかったのだろう。

 サクは一体、なんのためにコヌサくんだりまで行ったのか。薬を売るだけなら、馴染みの客がいるヒバリの町で良かったはずだ。家に着けば何かわかるかと思ったが、この反応を見るに、家族にも理由はわからないようだ。

 トウ=テンは淡々と、サクと出会ったときのことを順を追って話した。青くなったり赤くなったりする顔を見ながら、彼は話の終わりに、かねてから気がかりだったことを尋ねた。

「このあたりに黒い獣は出るか」

「……とんと見かけないな」

「サクはどこか、体が悪かったりはしないか」

 コスは怪訝そうに顔を顰めた。

「いや……そんなことはないが。なんでだ?」

「近いうちに死ぬようなことを言っていたのでな」

 湯飲みに口をつけながら、トウ=テンは相手の反応を窺った。

 コスは囲炉裏の火を睨んで唇を噛みしめている。膝に食い込ませた指が抑えきれない激情で微かに震えていた。彼はゆっくり息を吐きながら火箸を手に取り、赤い血管の通った炭を荒々しく崩した。

「いちいち鵜呑みにするな。あいつは心が弱いんだよ」軽んじるような発言とは裏腹に、その表情は険しい。「……サクは、森に隠れていた。あんた以外の人間には会わなかった。そうだな?」

「俺の知る限りは」

 コスは顔を強ばらせたまま立ち上がった。

「ちょっと待っててくれ」

 そう言い置いて、隣の部屋に入っていく。

 戸が閉じる音を聞きながら、トウ=テンは崩れた炭をじっと見つめた。

 失うことを恐れるのは、過去に失ったことがある者だけだ。

 不幸は突然やって来る。気がついたときにはもう何もかも終わっていて、取り返しがつかない。

 十年前のあの日も、そうだった。

 遠くから明かりの落ちた家を見た瞬間、走っていた。たいした距離ではないのに息が切れた。玄関は半開きになっていて、入る前から血の臭いがした。

 血の跡を辿った先で見つけた妻と息子は、すでに事切れていた。その体にはまだ、ほのかにぬくもりが残っていた。二人の体から熱が消えて、強ばり、冷たくなるまで、床に広がる血を必死でかき集めた。そんなことをしたところで妻子が生き返るわけでもない。見つけたときにはもう、死んでいたのだ。頭では理解していた。魂が、心が、その事実を受け入れられなかった。

 こうして当時のことを振り返ることができるようになったのは、本当に、つい最近のことだ。怒りや悲しみ、身を焼くような痛みが抜けて、空っぽの抜け殻になってようやく、家族と過ごした日々を思い出にすることができた。

 こんな思いをする人間は少ないほうがいい。

「待たせた」

 隣の部屋からコスが戻って来た。元の場所に座って、手にしていた布の包みを開く。そこには鈍く輝く銀子が十枚並んでいた。

「用心棒の報酬だ」

 平然とそう言う顔を、トウ=テンはじっと見つめた。銀子十枚といったら一年、贅沢をしなければ二年は食うのに困らない額だ。

 そんな大金をポンと差し出すということは。

「サクがあんたを治療したこと、用心棒を頼んだこと……今回のことは全部、他言無用で頼む」

 破格の報酬は事実上の口止め料だ。親を亡くしてから、若さに見合わぬ苦労を多く経験してきたのだろう。この青年は警戒心が強く、そして現実的だ。

 腐傷は不治の病。黒い獣の血を浴びたが最後、その者は呪いに冒されて死ぬ。トウ=テンはしかし、例外的に生き延びた。心当たりは一つしかない。サクの手当を受けた。特効薬があったということだ。

 毎日傷に軟膏を塗り、包帯を洗って取り替えて。

 焼けつくような痛みは日々と共に過ぎ去り、今は跡形もない。

 トウ=テンが手を伸ばさずにいると、次第にコスの態度が緊張を帯びてきた。

「足りないか」

「そうじゃない」

「じゃあ、なんだ」

「仕事の途中で報酬を受け取るわけにはいかん」

「何を言い出すんだ。もう守ってもらわなくても、」

「用心棒を請け負ったとき、こんなことを言われた」隣の部屋に会話が聞こえないよう、トウ=テンは声を低くした。「死ぬまで用心棒をやってくれ、そんなに長くは待たせない、とな」

 コスの顔からみるみる血の気が引いていった。

「俺はこの仕事を始めて十年近く経つが、こんな依頼は初めてだ」

 病気で余命幾ばくもない、という事情ならば納得はできる。暮らしている環境に危険があるというのなら、それを排除すればいいだけの話だ。しかし現状、サクは弱視ではあるものの体のほうはすこぶる健康で、日々の生活がどのようなものであるかはまだわからないが、少なくとも家族からは大事にされている。

 なにが原因で死ぬというのだ。なぜ、死ぬまでなのだ。

 本人を問い詰めても要領を得ない。考えたところで答えは出ない。

「……最期を看取れなどと」

 業腹だ。

 トウ=テンは顔面蒼白でいるコスを睨んだ。

「なにを隠している?」

「っ……うるさい! うるさい、黙れ!」

 突然、火がついたようにコスは激昂した。片膝を立てて火箸を掴み、尖端をトウ=テンに向ける。

「あんたには関係ない! その金を持ってさっさと出ていけ!」

 彼がそう怒鳴った、次の瞬間。

「だめ!」

 隣の部屋から、サクが二人のあいだに飛び込んできた。

 コスは火箸を荒々しく灰に突き立てた。

「大人の話に口を挟むな。部屋に入ってろ」

 その言葉を無視して、サクはトウ=テンの腕にしがみついた。

「トウテン、出てったらだめ。コスの言うこと聞かないで。ここにいてよ」

 泣きそうな顔で必死に縋りついてくる様に、トウ=テンはやや面食らった。

 サクがこれほど感情を露わにしたのは、コヌサ以来だ。旅をしているあいだは従順で寡黙で、常に何かに怯えていて、羊のように大人しかった。それなのにコスが一方的に用心棒の契約を破棄しようとした途端にこれだ。

 ――何かがある。

 用心棒を必要とする切実な理由が、サクにはあるのだ。

「いいじゃない。いてもらえば」

 続けてチサも部屋から出てきた。コスのそばに腰を下ろした彼女は、よく通る声でハキハキ喋った。

「お金さえ払えばいいってもんじゃないでしょ。それこそ不義理じゃないの」

 コスは胡座をかいた足をイライラと揺すった。

「用心棒なんか必要ねえよ」

「せっかく帰ってきたのにケンカなんて、私いやよ。サクがいてほしいって言ってるんだから。聞いてあげなさいよ」

 コスは口を真一文字に結んで、トウ=テンの腕に強くしがみつくサクを睨んだ。膝の上で震える握りこぶしを、チサがわきから両手でそっと包む。そのとき、ほんの一瞬のことだったが、コスの顔から険が取れたのをトウ=テンは見逃さなかった。

 彼は深い溜息を吐きながら渋々折れた。

「わかったよ」

 サクはぐすっと鼻をすすった。

「俺が寝てるあいだに、追い出したりしない?」

「しない」

 腕に縋りつく手に力がこもる。トウ=テンは首だけ動かしてサクを見下ろした。潤んだ灰色の瞳に己の顔が映っていた。

「約束は守る。心配するな」

 そう言うと、サクは腕から力を抜いてホッと息を吐いた。直後、小さなあくびを零す。気が緩んだ途端に眠気がやって来たようだ。

 チサが近づいてきて、優しくサクの頭を撫でた。

「おじさん、いてくれるって。よかったねえ」

「うん」

「疲れたでしょ。もう布団に入りましょ」

 チサに手を引かれてサクは立ちあがった。

「トウテン。明日の朝、ちゃんといてね」

 寝室の戸が閉まるまで見届けて、コスは黙って囲炉裏の火のほうに顔を戻した。頑なだった表情が少しずつ緩んでいって、やがてその目に逡巡するような色が浮かんだ。

 彼は躊躇いがちに口を開いた。

「悪かったな。カッとなって」

 神妙に謝罪を口にする。その声音は落ち着いていた。

「……あんたには感謝してる。あいつも懐いてるし、悪い人間じゃないんだろう。だけど俺はまだ、うちの事情を全部話せるほどあんたを信用していない」

 それは一人前に家族を守ろうとする男の顔だった。

 トウ=テンは頭を下げた。

「こちらこそ不躾だった。すまない」

 顔を上げると、コスが驚いた様子でこちらを凝視していた。

「なんで頭を下げる。あんたを信用できないって言ったんだぞ」

「素性の知れない者と一線を引くのは家長として当然の判断だ。俺は請け負った仕事をまっとうする。依頼人に死なれては用心棒として立つ瀬がない」

 久鳳を出てから十年間、これで食ってきた。請け負った仕事はすべて完遂してきた。それが最後の最後でしくじったとなれば、あの世にいる妻子に合わせる顔がない。

 それで納得したかはわからないが、コスは銀子をトウ=テンにスッと差し出した。

「コヌサからここまで物入りだったろう。受け取ってくれ」

 彼は差し出された二枚のうち、一枚だけ受け取った。

「これで十分だ」

「あんたも頑固だな」

「用心棒は命を預かる仕事だ。成功報酬でないと意味がない」

 コスは眉間に寄せていた皺を解いて、ふっと息をついた。

「……風呂を沸かしてくる。適当に寛いでてくれ」

 軽い食事をすませたあと、トウ=テンは熱い湯船につかった。

 この鉄釜の風呂は昔、サクの母親が町から職人を呼んでわざわざ設置したものらしい。いくら村八分でも村の共同浴場くらいは使わせてもらえたはずだが、おそらく、子どもを奇異の目に晒したくなかったのだろう。大金をはたいて生活環境から不潔さを取り除いたあたりに故人の人柄を感じた。病は罹患する前に予防することが重要である。替えの着物も余分にあるようで、彼らは山奥とは思えないほど清潔な暮らしをしていた。

 女手一つの稼ぎで暮らしを整え、二人の子どもを育てた。なかなか出来ることではない。それほど能力のある女が、なぜ西州の山奥で暮らしていたのか。

 国を出た事情、隠れ住む理由。様々な想像が浮かんでは消えていった。

 旅の垢をすっかり落としたあと、火を挟んでコスと今後のことについて話し合った。

「俺は近いうちに町に降りる。留守のあいだ、あいつらを頼む」

「わかった。おまえがいるうちに、村のほうに顔を出しておくか?」

「必要ない。どうせ向こうから嗅ぎ回りにくる」

 コスの目に一瞬、暗い光がよぎった。

 そのうち夜も更けて、続きは明日にしようと話を切り上げた。

 囲炉裏のわきに用意された布団に入り、とろとろした火に背を向けてトウ=テンは眠りについた。


 その夜、こんな夢を見た。


 血まみれの女が倒れていた。どこかで見たような顔をした、見知らぬ女だった。

 惨たらしく開かれた胸には真っ暗な空洞が広がっていて、中身がない。一目で死んでいるとわかる。ざくざくと音がしたほうを振り返った。子どもが地面に座り込んで穴を掘っていた。平たい石を振りかぶる手は真っ赤に染まっていた。それが誰か、回り込んで顔を確かめるまでもなかった。その白い髪と肌、見間違えるはずもない。トウ=テンが知っているより少し幼い、サクだった。

 人が起き出す気配を感じて、トウ=テンは目を開いた。

 あたりはまだ暗い。夜明け前だ。チサが台所と寝室を行き来している。起きあがって隣の部屋を覗くと、サクが桶に顔を突っ込んで苦しそうに嘔吐いていた。

「どうした」

「疲れが出たんだ」

 コスは隠すように戸を閉めた。

 寝直すには夢見が悪すぎたし、家の中は深入りを拒む空気が濃厚だった。トウ=テンは外へ出た。裏に回って納屋にいる馬と顔を合わせ、睫が被さる黒い瞳を見つめた。そうしているとだんだん気持ちが落ち着いてきて、静けさを含んだ夜明けの冷気を、心地よいと感じられるようになった。

 冴えた頭で、夢に見た女の死に顔をあらためて脳裏に呼び起こす。

 見覚えがあるはずだった。倒れていた女の顔立ちは、サクによく似ていた。



 自家中毒の嘔吐と発熱で、サクはしばらく布団で横になったまま重湯しか口にしなかったが、三日も経つとけろりとした顔で起き出した。

 チサと並んで朝食を作ったり、掃除をしたり、家の雑事をあらかた片付けてサクが出かけようとしたそのとき、コスがその腕を掴んで引き止めた。

「家にいろ」

 有無を言わさない口調だった。

「ちょっと出るだけだよ」

「このあいだ、そう言って何日帰って来なかった」コスは険しい剣幕で怒鳴った。「いいか、俺が帰るまで家から出るな!」

 サクは浮かない顔をして部屋に戻っていった。

 コスは腰に手を当ててしばらくじっと床を睨んでいたが、やがて深い溜息をついた。目を離した隙にまたサクがいなくなることを危惧しているのだろう。町へ出かける支度をするあいだも始終、眉間に皺が寄りっぱなしだった。

 出かける前、彼はトウ=テンのところへ来て言った。

「サクを頼む。できるだけ目を離すな」

 妥協案といったところか。部屋に閉じ込めておくよりは健全だ。

 サクも無断で遠出したことを反省しているようで、外に出ても家から見えない場所に行くことはなかった。畑と馬の世話をして、チサを手伝い、何もない時間はほとんど眠って過ごした。

 編み物の途中で眠ってしまったサクを、トウ=テンは布団まで運んだ。

「ありがとう、おじさん」チサはサクの体を掻い巻きでくるんだ。「お腹が空いて起きてくるといいんだけど」

 以前から気がかりだった。

 サクはとにかく食が細い。旅のあいだの食事は基本的に朝夕の二食、その合間に軽食を挟むようにしていたのだが、サクは朝食以降ほとんど水しか口にしなかった。途中からはトウ=テンもさすがに見かねて、移動中に小まめに干し飯を食わせていた。それでも一日に摂るべき食事量としては最低限以下だ。

 家に着けば安心して食も進むだろうと、そう思っていたのだが。

「食べないのは元からか?」

 チサは困り顔でサクの頭を撫でた。

「元々たくさん食べる子じゃないの。でも、こんな急に寝ちゃうのは珍しいわ。まだ疲れてるのかしら……」

 事件がなくとも日常に心配事が尽きることはない。その日は結局、夕飯時を過ぎてもサクが起きてくることはなかった。

 腹が空かないのは体か、あるいは心が弱っているからだ。少しずつでも何か口に入れなければ体力は落ちていく。食べることは生きること。ならばこれも仕事の範疇だ。

 翌日。トウ=テンはチサに了解を取り、納屋にある壊れた道具を修理しにかかった。

 竹を編んでいる手元を、サクが不思議そうに覗き込んだ。

「それ、なにするの?」

「魚を獲る」

「……魚、食べたいの? 獲ってくるよ?」

「留守番してろ」

 トウ=テンは川へ出かけた。

 荃を仕掛けて待つ間、山を歩いて弓矢でウサギや鳥を獲った。これから長い冬が来る。サクは肉を好まないが、兄夫婦のことを考えれば備蓄が多いに越したことはない。

 肉と魚を持って帰ると、チサはたいそう喜んだ。

「サク、見てごらん。おじさんがたくさん獲ってきてくれたよ」

「うん」

「どうやって食べようか」

 サクは返答を促すようにトウ=テンを見た。食べ方について、自分の希望は特にないようだ。

 そういうことなら逆に都合が良い。彼は袖をめくった。

「台所を借りるぞ」

 魚の内臓を抜いて身を洗い、小骨を取ってから蒸し焼きにした。半身をほぐして葛餡をかける。それを二つの小鉢に取り分けて、トウ=テンは二人を呼んだ。

「味を見てくれ」

 チサは期待と不安が入り交じった目つきで小鉢を受け取り、えいやっと料理を口に運んだ。もぐ、と咀嚼して目を丸くする。

「あ、おいしい」

 料理をするのは久しぶりだったが、どうやらうまくできたようだ。

 ひとまず安堵してサクの反応はどうかと様子を窺うと、まだ食べていなかった。両手で包んだ小鉢をじっと見つめている。

「こういうの……よく作る?」

 いや、と首を横に振ろうとして、彼は思い止まった。

 用心棒稼業を始める前、十年以上前のことだ。体が弱くて伏せりがちな妻に、滋養のあるものを少しでも食べさせようと色々なものを作った。

「……昔はな」

 思い出を振り返ればきりがない。そう答えるにとどめた。

 サクは上目遣いでトウ=テンをじっと見つめたあと、魚の身を食べ始めた。

 この出来事が、サクの心境にどのような変化をもたらしたのかはわからない。ただ一つ確かなのは、これ以降、サクが食事を抜くことがなくなったということだ。食べる量自体は少なくとも、これは大きな変化だった。

 その日もまた山へ出かけようと朝食後、トウ=テンは囲炉裏の前から腰を上げた。準備をしているあいだ、背中にもの言いたげな視線を感じた。

 それはほんの気まぐれだった。

「一緒に行くか?」

 そう声をかけると、サクはパッと顔を輝かせていそいそと外套を着込んだ。

 チサは玄関まで見送りに来て、サクの首にぐるっと襟巻を巻いた。

「おじさんから離れないでね。遅くならないのよ」

「うん! いってくる!」

 返事もそこそこに駆け出したサクを見て、チサはやれやれと笑った。

「おじさん、今日はサクに付き合ってあげて」

 トウ=テンは頷き、サクのあとを追って山に入った。

 何度見ても豊かな山だ、と感嘆する。

 生い茂る木々はいずれも幹が太く、大きく万歳するように空に枝を伸ばしている。大きな根が岩をがっちり掴んでいるために足場も確かだ。

 サクは自分の庭を案内するようにあちこち指差して歩いた。

「そこはリスの巣。地面の下に木の実を貯めてる。あっちはクマの巣穴。寝てるから近くを通るときは静かにして。あと向こうの山は狼の群れが住んでる。たまにこっちに来るけど、すぐ帰るから大丈夫だよ」

 足取りは軽く、表情は明るい。久しぶりに出かけられて機嫌が良さそうだ。

 盛りあがった木の根のあいだに体を預けて、サクはご機嫌に足を揺らした。

「ここはね、あったかい日に昼寝をするところ」

「ちょうどいい。休憩するか」

 木の根を挟んだ隣にトウ=テンは腰を下ろした。

 二時間近く歩き通しで体は十分に温まっている。何が起きても即座に反応できるだろう。ただ今日はもう、狩りをする気分にはなれなかった。トウ=テンはぼんやりと狼がいるという山を眺めた。

 熊も狼も、人間にとっては危険な獣だ。しかし獣のことを話しているサクの声音からは、隣人を紹介するような親しみが感じられた。生い立ちを考えれば当然だ。母と兄は仕事で忙しく、村に友だちと呼べる者はいない。小さい頃の遊び相手といったら、山にいる動物しかいなかったのだから。


 ――小さい頃?


 脳裏にふと浮かんだ感慨に、疑問を覚えた。

 懐かしく振り返るような思い出など、自分たちのあいだには存在しない。このあいだ初めて会ったのだ。だのに、トウ=テンはサクの幼い姿を知っている。なにもかも不確かで、しかし妙に現実味のある夢の中で。

「……母親とコスが仕事に行っているあいだ、一人で留守番してたのか?」

 そう尋ねると、サクは戸惑いながらも頷いた。

「うん」

「食べるものはどうしてた」

「寝てればお腹すかないから……」トウ=テンが眉を顰めると、サクはハッとして弁解を始めた。「あ、えっと……ちゃんと食べてた。ご飯作った……。あと、チサが……チサのお母さんと、ご飯持ってきてくれたり……」

 先日見た夢の中に、思い当たる光景がある。果たしてこれは偶然だろうか。

 瞬きの多い上目遣いから困惑が伝わってくる。当たり前だ。突然こんなことを聞かれて、当人にしてみれば意味がわからないだろう。

 理由は説明できる。しかし、互いに混乱が深まるだけという予感があった。ここ数日、幼い頃のおまえを夢に見るなどと。細かく照らし合わせて、仮に夢の内容が過去と合致したとしても、それがなんになる。

 トウ=テンはひとまず夢は夢と割り切り、この奇妙な体験を自分の胸の内に秘めておくことにした。

「腹は減ってないか」

「大丈夫。朝ご飯いっぱい食べた」

「そうだな。今日は顔色が良い」

 サクは伏し目がちにはにかんだ。

「外……出かけられて嬉しい。もっと……」不意に言葉が途切れた。緩んだ口元がきゅっと引き締まる。「……ねえ。もし今、なにか獣が出てきたらどうする?」

 唐突で、奇妙な質問だった。

「なんだそれは。狼や熊のことか?」

「ちがう。ふつうの動物じゃなくて……」

「西州にいる魔物といえば黒い獣くらいだが」

 サクは目を瞬いて首を傾げた。

「マモノって?」

 聞き覚えがないのも無理はない。なにせ西州公が死ぬまで、西州に魔物と呼ばれるような脅威は存在しなかったのだから。

「人を喰う化け物だ。姿はものによって様々だが、近づくと独特の腐敗臭がある」

 そして大概は、桁違いの膂力、あるいは奇怪な能力を有している。

 サクは小刻みに肩を震わせながら青ざめた。

「人を、食べる……」

「大丈夫だ。発見次第、軍隊が対処している。どの国でもそうだ」

 西州以外の三国、ヨーム、久鳳、サナンが軍拡に熱心なのは、なにも戦争をするためではない。国内の魔物や危険種に備えてのことだ。魔物が出没する頻度はそう高くないが、対策が遅れると災害並みの被害が出るので、国家としても対策せざるをえないのである。

 久鳳の軍にいた頃、トウ=テンは様々な魔物を討伐してきたものだが、過去の経験と照らし合わせても西州の黒い獣は常軌を逸している。魔物の血液、受けた傷から腐敗が感染するというのは、これまでの常識ではありえないことだった。

 ギュッと縮こまって、サクは両手を握りしめた。

「……腐ってなくても、人を食べたら魔物と同じ?」

「それは危険種だな。魔物とはまた違う」

「どう違うの?」

 妙に食いつきがいい。トウ=テンは答えた。

「体が腐っていて、喰うために人間や家畜を襲うのが魔物。攻撃性のあるなしに関わらず、生態自体が脅威となりえるものが危険種だ。たとえば、人間が知らず知らず虫を踏み潰しているように。大きな危険種なら移動だけで村や町が潰される可能性がある」

「そういうのが出たら退治するの?」

「一概には言えん。ある危険種が他の危険種の抑止力になっている場合もあるからな。倒すべきか、やり過ごすべきか。重要なのはよく観察することだ」

 それで、と話を戻す。

「さっき言っていた獣というのは? どういう見た目だ?」

 サクはぎゅっと眉根を寄せて、膝を抱え込んだ。

「……かたちは、わからない。けど……すごくみにくいと思う」

 弱々しい口調はいかにも自信がなさそうだ。サクは視力が弱く、鼻先の距離でなければ文字も読めない。獣の存在をほのめかしながらその特徴を説明できないのは、姿を判別できるほど近づいたことがないからだろう。

「畑が荒らされたり、襲われて怪我をした者がいるのか?」

「ない。でも……嫌われてる」サクは憂鬱そうにゆっくり瞬きして、トウ=テンを上目遣いで見やった。「……良くないものだったら、トウテンならわかるよね」

「なんとも言えん」

「チサとコスを危ない目に遭わせたくない」

 その切実な眼差しは、用心棒を引き受けてくれと言ったときと同じか、それ以上に強い緊張感を孕んでいた。実害があったわけではない。はっきりした姿もわからない。そんな獣らしきものに、サクは本気で危機感を抱いているのだ。

 トウ=テンは刀の柄に手を置いた。

「約束は覚えている。心配するな」

 彼がそう言うと、サクは安心したように目尻を下げた。



 正午過ぎ。二度目の休憩中に眠ってしまったサクを背負って、トウ=テンは家路についた。どこか懐かしく、胸が痛む重みだった。

 しくしくと胸の奥で疼いていた感傷は、家が見えてきたあたりで一気に霧散した。

 見慣れない男が家のそばをうろうろしていた。男はトウ=テンと目が合うと、ぎょっと立ちすくみ、慌てて村のほうへ逃げていった。

 奇妙なことが始まったのは、その翌日からだった。

 家の戸口のわきに、まるで供え物のように食べ物が置かれるようになった。その多くは干した芋、根菜など、冬の蓄えとして農村でよく作られる保存食だった。

 朝早くに気配を感じてトウ=テンが外に出ると、戸口の前にまた食べ物が置かれていた。辺りを見渡すと、村に続く木立の境界で、中年女がこちらを振り返って二度、三度と深く頭を下げていた。

「なんだ、あれは」

「村のほうで怪我人か、病人が出たの。近いうちにまた来るわ」

 中年女が置いていった笊を見下ろして、チサは表情を曇らせた。

「サノワ村には薬師がいないの。コスが町に出かけちゃうから、みんな今はサクを頼りにしてるんだけど……」

「なぜ直接頼みに来ない」

「本当にね。……おかしいよね。こんなやり方」チサは唇を噛みしめて、絞り出すように呟いた。「こんなだからコスだって、いつまでも昔のことを許せないんだわ」

 俯いた横顔に悔しさや情けなさが滲んでいる。彼女は村の出身なのだ。

 村人が訪ねて来るのは朝早くか、夜遅い時間だった。遠慮がちに戸を叩くのはたいてい子連れの女だ。どうやら幼い子どもを中心に風邪が流行っているらしい。

 この日訪ねてきたのは、幼い娘を抱いた若い女だった。何日か前から咳が出始めて、一昨日から熱が下がらないのだという。母親がそう説明するあいだも、娘はヒューヒューと苦しげに息をしていた。

 サクは娘を布団に寝かせ、胸に耳を当てて音を聞いた。下まぶたを引っ張って色を確かめ、首回りを触診する。緊張の解けた顔で娘の額を撫でた。

「胸の音は大丈夫。喉が少し腫れてるけど、薬を飲んで寝てればすぐ良くなるよ」

 サクは棚から取り出した薬を手早く包んで、女に手渡した。

「これを朝と寝る前に飲ませてあげて。温かくして、汗をかいたら小まめに着替えを」

「ありがとう、本当にありがとう」

 女は涙目になりながら何度も礼を言った。

 サクは葛湯を匙ですくって一口ずつ娘に食べさせた。

「サクちゃん。なでなでして」

 安心したら甘える元気が出てきたようだ。サクが額を撫でてやると、娘は嬉しそうに目をキラキラさせた。

「モモね、どんぐりたくさん集めたの。ぴかぴかのやつ」

「ぴかぴか?」

「うん。一番きれいなのサクちゃんにあげる。持ってきていい?」

「元気になって、お父さんとお母さんがいいよって言ったらね」

 子どもにそう言い聞かせるサクの顔は、不思議と大人びて見えた。

 村からやってくる訪問客を何人か観察するうちに、トウ=テンはいくつか気がついたことがあった。村人によってサクに対する態度が随分違うのだ。幼い子どもはみんなサクによく懐いているようだが、大人たちの対応は様々で、先日の女のように素直に助けを求める者もいれば、へりくだって情けを請う者、薬を出せと高圧的に迫る者もいる。特に年配になるほど態度が極端で、あまりに横柄な者はトウ=テンが睨みを利かせて早々に追い返した。

 頼みごとのなかにはときに厄除けといったまじないめいたものも含まれていた。ただでさえ不安な時世だ。我が身や家族に降りかかる不幸を少しでも小さくしたいという気持ちはわかる。だが、身勝手な話だ。普段は村八分にしておいて、自分たちが困ったときだけ助けて欲しいなどと。まともな人間関係ではない。

「いつもこうなのか」

 そそくさと帰っていく村人を戸口で見送りながら、サクは小さく答えた。

「コスがいないときだけ」

 このあいだ家の近くをうろついていた男は、コスの不在を確かめていたのだ。

 トウ=テンは眉を顰めた。

「助けてやる義理はないだろう」

 サクは微かに、だがしっかりと首を振った。

「だって、困ってるから……」

 困っている者を助けるのに理由はいらないと言うのか。

 その時、頭の奥が微かに疼いた。

 ――どんなときも、困っている人を、助けられる人間でいよう。

 トウ=テンは顔を顰めた。

 ああ、ままならない。

「勝手にしろ」

 彼は馬の世話をしに外へ出た。

 村八分にされても、どれだけ邪険にされても、サクが村人を助けたいというのならそうすればいい。自分はその露払い、尻拭いをするだけだ。守ると約束したからには、サクのしたいことを助けてやるのも仕事のうちなのだから。



 村人の訪問こそあったものの、それ以外は概ね平穏な日々が続いた。

 しかし、まるで事件がなかったというわけではない。

 この家に来てから二週間ほど経ったころ。

 そろそろだろうと思っていた矢先に、それは来た。

 鍬の柄を新しくしようとトウ=テンが縁側で木を削っていると、村の方から大の男を二人引き連れた老人がやって来た。

 家の近くまで来た老人は、いかにも人の良さそうな顔でトウ=テンに声をかけてきた。

「あなたが最近こちらの家に来られたという客人ですか」

「客ではない。用心棒として雇われた」

 彼は小刀を動かす手を止めずに答えた。

 用心棒と聞いて、老人の後ろにいる男たちの無関心を装った顔が不自然に歪んだ。沈黙から読み取れたのは不穏な感情の機微である。

 老人はいちはやく話が通じる人間の顔を取り繕った。

「そうでしたか。わたしはサノワ村の村長のイスルと申します」

「トウ=テンだ」

「ところで家の者は……?」

 チサは裏で洗濯をしており、サクは家の中だ。囲炉裏の前で不器用に藁を綯っていたから、トウ=テンの後ろ、障子一枚を隔てた向こうでこの会話を聞いているだろう。しかし一向に出てくる気配がない。

 トウ=テンはしれっと言った。

「用件があるなら代わりに聞こう」

「いやなに、見慣れない人間がいると村の者から聞いたものですから。少し様子を見に来たのですよ。最近はこのあたりも物騒になりました」

 イスルはサッと家の中を窺う目つきをしたあと、小声で囁いた。

「私もあれのことは気にかけているんです。もしよろしければ、定期的に様子を報せてもらえますか」

 本気で言っているのだとしたら、見るに堪えない醜悪さだ。

 トウ=テンは小刀を鞘に収めて立ちあがった。

「断る。そんなことをする義理はない」

 上背に圧倒された老人が後ずさると、背後に控えていた男二人が前に出た。年はトウ=テンと同じ四十前後。村の中でも特に体格のいい者を連れてきたのだろうが、どちらも姿勢が悪く、体幹も不安定だ。

「話は終わりだ。帰れ」

 気色ばんで掴みかかってきた男の腕を避け、木の棒で押し上げるようにみぞおちを突く。死角から急所に打撃を食らった男は、声もなく体をくの字に曲げて倒れた。

 もう一人の男が虚勢と共に毒づく。

「こんなやつを雇いやがって」

「馬脚を露わしたな」

 あわよくば懐柔し、それが無理なら力尽くで追い出すつもりだったのだろう。彼らがトウ=テンに向けるよそ者を厭う眼差しは、コスから聞いた話の印象通り、暗く陰湿なものだった。

 異変を察したのか、障子を細く開いてサクが不安げに顔を覗かせた。

「トウテン……」

「大丈夫だ。中にいろ」

 倒れた男がサクを睨みながら忌々しげに吐き捨てる。

「獣の子め……」

「よさんか!」

 それを打ち消すようにイスルが低い声で咎めた。

 ――獣の子。

 背後から視線を感じた。サクが今どんな顔をしているか、振り返って見てみなくても怯えた気配から容易に想像できる。

 トウ=テンは木の棒で地面を突いた。

「見逃してやる。行け」

 屈辱から顔を赤くする男たちを下がらせて、イスルがとうとうと弁解する。

「何やら誤解しておられるようですが、わたしたちはただ純粋に、この家の者を心配しているだけです。村の暮らしは助け合いが大事ですから」

「なにが助け合いだ。村八分にしているのだろう」

「まさか。サクがそう言ったのですか?」

 会ったばかりの相手だが、「そんなはずがあるまい」と言わんばかりの浅ましい態度を見て、トウ=テンは決定的にこの老人のことが嫌いになった。

「聞いているだろう、サク」イスルは家のほうに向かって呼びかけた。「用心棒殿に下がるよう言っておくれ。コスがいない今なら話し合いができるはずだ。おまえならわかってくれるだろう。元は些細な誤解から生まれた行き違いなのだと……」

 ――黙らせてやる。

 全員の腹に一、二発ぶち込んでやろうという衝動に襲われた、そのときだった。

 不意に、足の裏から微かな地響きを感じた。

 地震ほどはっきりした揺れではない。地崩れとも違う。

 圧迫感を伴う何かが、ものすごい勢いで近づいて来る。

 イスルと男たちも気づいたようだ。

 バリバリと枝を折る音を立てながらそれは山を駆け下り、彼らの前に姿を現した。

 巨大な黒い巨躯。血走った目。数多の命を切り裂き、食らい尽くしたであろう鋭い爪と剥き出しの黒い牙に、トウ=テンは見覚えがあった。

 それは紛れもなく、コヌサにいた黒い獣だった。

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