第三話


『あなたには一番嫌がられるかもしれないと思ったのですが、快諾いただけて安心しました。では、頼みましたよ』

 一番目の魔女カミーユの言葉を、アリーチェは寮の自室のベッドの中で泣く泣く思い出していた。あれはこのことだったのかと、やっと思い至る。

 確かにレイビスが関わっていると知っていれば、アリーチェはこの任務を引き受けるのを渋っただろう。快諾なんてするわけもない。

 だってアリーチェの正体は、誰にも秘密なのだから。

 アリーチェが読み解いた黒の魔導書は、確かに人々の臆測のとおり危険な魔術が多い。威力も比べものにならない。

 もちろん刻まれている全部の魔術式を解いたわけではないけれど、一部でさえそうなのだから人によっては利用したいと考える者もいるだろう。

 そして危険な魔術を利用したいと考える輩に、碌な人間がいないこともわかっている。一番目の魔女は、はっきりと「戦争の道具にされないか」ということを危惧しているとアリーチェに打ち明けた。

 なにせ、貴族の豪邸を簡単に半壊した力だ。

 だからこそ、アリーチェは己の正体を隠す必要がある。誰にも利用されないために。隠す以外で身を守る方法を、世間知らずのアリーチェでは思いつかない。

(なのに、なんでこんな、こんなことに……っ)

 掛布を頭から被って、ぶるぶる震える身体を極限まで縮こめて一人反省会をする。今日書いた日記は手が震えすぎて読めたものではない。

 夕方には無事に学園まで隣国の公子を送り届けたアリーチェだが、明日から約一週間、共に魔物が出没するトロロンの森へ出立することになっている。

 そこが毎年のインターンの会場となっており、学生の腕を試すにはちょうどいい初級の魔物がよく出没するらしい。

(殿下の目も、なんか怖かったし……)

 白いローブを着る自分のことを、いつもの睨みとも違う、ギラギラした目で見ていたように思う。

 まさか初めての夏季休暇がこんな波瀾万丈になるとは思ってもみなかったアリーチェは、すでに根を上げたい気分だった。

 失恋してヤケ酒をあおったという同僚には、カミーユからの手痛いお仕置きがいくことを心の中でめちゃくちゃ祈る。

 結局一睡もできずに、アリーチェは翌日を迎えた。


 トロロンの森は郊外にあるらしく、自国と他国の高貴な存在を乗せた馬車を先頭に、その他は乗合馬車風の大人数が乗れる馬車が列を成しながら目的地へと向かっている。

 馬に乗れないアリーチェは、騎士とその話をしていたときに聞き耳を立てていたらしいブルクハルトに馬車に誘われそうな空気を察知して、いち早く逃げた。

 逃げた先は、彼らの馬車の上だ。

 一応護衛として随行しているので、あまり彼からは離れられない。そこで苦肉の策として〝上〟に逃げたのだが、これが案外ベストポジションだった。ブルクハルトもまさか自分が乗っている馬車の上にアリーチェがいるとは思うまい。

 心地好い風と、護衛仲間である騎士たちからの微妙な視線を感じながら、アリーチェは無事にトロロンの森へと辿り着いた。

 森に着いてすぐ、生徒たちはあらかじめ決められたグループに分かれると、グループごとに天幕を張っていく。

 ここは森の入り口で、魔物もここまではやって来ない。というのも、トロロンの森は郊外にあるとはいえ、近くにはもちろん町がある。

 よって魔術師による結界を森の入り口に張っており、天幕はその外側に張っているからだ。

 結界を張っているなら討伐しなくても大丈夫のように思うけれど、そう簡単な話でもないらしい。討伐しなければ魔物は増える一方で、そうなると結界も数で押し切られる可能性が出てくるのだとか。

 ゆえに定期的に討伐する必要があり、それがインターンの一つになったというわけである。

(この結界、すごい。綻び一つない)

 なんて美しい式の編み上げ方だろう。アリーチェはうっとりと眺めた。

 生徒たちが天幕を張っている間、手持ち無沙汰だったアリーチェは結界の確認をしていたのだが、予想外の感動に惚けていた。

 すると。

「見惚れるほど美しいだろ? これは三番目の魔女が施してくれた結界だ。結界に関して彼の右に出る者はいないと言われていたが、さて、君はどうかな――十三番目の魔女殿?」

「……っ!?」

 突然ローブ越しの耳元で話しかけられて、反射的に振り返る。そこには天幕を張っているはずのレイビスがいた。

 思わず「なんで」と声を出しそうになって、慌てて口をつぐむ。声で正体がバレる可能性があるからだ。

 距離を取ろうとして後ずさったら、もつれてそのまま後ろに尻餅をついた。恥ずかしいやらなんやらでパニックになるが、もうこの際このまま逃げようと試みたところ、腕を取られて強引に立たせられる。

 ローブについた砂を払いながら、レイビスがくすくすと笑った。

「俺はこのインターン、十二番目の魔女が来ると聞いていたが、実際に来たのは彼より明らかに小柄な魔術師。俺は十二人の魔女なら全員面識がある。一応、五番目の魔女も小柄だが、彼女は別の任務で王都を離れているから――と、消去法であんたの正体を推測してみたが、その様子だと当たったらしいな?」

 そう言われてハッとする。どうやら鎌をかけられたらしい。彼はインターンの護衛に十三番目の魔女が来るとは知らなかったようだ。

「へぇ。小さいし細いな。噂では大男だと聞いていたが、当てにならないとはこのことか。こんな身体であんな魔術を使ったとは」

「!? !?」

 砂を払ったついでのように、ローブの上から身体検査のように身体を触られる。パニックどころの話ではない。

「それに、想像と違ってそそっかしかった」

 ガーン、とショックを受ける。

 いったい彼はどんな十三番目の魔女を想像していたのだろう。

(でも、そういえばわたし、なんか変な噂されてたんだっけ……)

 同僚の宮廷魔術師が一人、面白がってその噂を聞かせてくれたことがある。

 曰く、怪力で極悪非道な性格の悪いめちゃくちゃ強い大男、と。

 だから、白いローブ姿で王宮にいると、同じ背丈の五番目の魔女と間違えられることが確かに多かった。

「ったく、なんで隣国の奴が知ってて、俺に護衛交代の情報が来てないんだ」

 レイビスがぼそっと悪態をつく。まるで拗ねているような態度に、アリーチェは目を点にした。

 はあ、と彼がため息をつくので、アリーチェは無意識に肩を強張らせる。フードの先をぐいぐい引っ張って、とにかく顔を見られないようにした。

 身体検査に満足したのか、レイビスの手が離れる。

「そんなに顔を見られたくないのか?」

 こくこくこく。首を縦に振る。

「よっぽど恐ろしい顔をしているとか?」

 自分の顔の美醜なんてわからないが、もうそれでいいと続けて頷いた。

「へぇ。まあ顔なんかなんでもいい。俺はおまえの魔術に興味がある。なあ、俺に――」

「レイビス殿下、ここにおられたか」

 そのとき、チッと舌打ちが聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。

 だってまさか、王子様がそんな乱暴な仕草はしないと思う。イメージだけど。

「俺に何か? 天幕は張り終えたのか、ブルクハルト殿」

 ほらやっぱり。レイビスはにこやかな微笑みを浮かべていて、とてもあんな邪悪な舌打ちをしたとは思えない様子だった。

 まあ、その微笑みにカミーユのような黒いものが見えた気がしたが、見なかったふりをしておこう。

「ははっ、そう邪険にしないでくれ。私もその小さくも偉大な魔女殿と交流を深めたいだけさ。それに、彼――いや、彼女か? の護衛対象者は私だ。私たちは一緒にいるべきだろう?」

「それはどうかな。我が国の宮廷魔術師の最優先事項は王族の護衛だ。あなたの護衛より俺の護衛が優先される」

 またよくわからない闘いが始まり、アリーチェは困惑した。初の黒の魔導書の行使者として宮廷魔術師に選ばれたが、その影響を実のところ本人はあまり実感していなかった。

 けれど、こんなふうに目の前で興味を持たれてしまうと、その恐ろしさをさすがに実感する。

 アリーチェは別に目立ちたいわけじゃない。

 黒の魔導書だって、使いたくて使ったわけじゃない。

「もうこの際はっきりさせておこう、レイビス殿下。私は十三番目の魔女が欲しい。我が国は弱肉強食の世界。強い者は他国の人間だろうと手に入れる。あの天を貫く黒い光は我が国でも観測された。あれほど圧倒的な〝力〟は初めてだった」

「なるほど? それで今回の短期留学か。おかしいと思ってたんだよ。レヒナー公爵家の領地は常に魔物の存在に脅かされ、シーズンでさえ領地を出たがらない『引きこもり』一族で有名なのに、領地どころか国を出るなんて。最初はに首を突っ込んでくる気かと身構えたが、狙いは十三番目の魔女だったってわけか」

「ああ、そうだ。本当は適当な理由であなたに面会を希望する予定だった」

「へぇ? 第二王子おとうとではなく?」

「そちらなら確かに確実かもしれん。だが、見返りが面倒そうだから関わるつもりはない」

「それは賢明な判断だ。他国の事情に突っ込む首ほど折れやすいと思ったほうがいい。そして他国のものを奪うこともまた、同じだと思え」

「ははっ、恐ろしい男だ」

 ごくり、とアリーチェは息を呑む。

 二人のやりとりから、アリーチェは黒の魔導書の影響を再び実感した。

 自分はどこにでもいるような人間だ。

 コミュ障で、世間知らずで、妹一人守れなかったちっぽけな人間。

 そんな人間なのに、黒の魔導書を読み解いたというだけで、こんな期待をされる。それが怖く思えた。

 カミーユが言っていた「狙われる」というのは、〝命〟のことだけじゃない。アリーチェの力を、知識を、無理やりにでも欲する人間がいるということを今になって理解する。

 一歩、我知らず右足を引く。

 もう一歩、今度は自分の意思で左足を引いた。

「さあ、十三番目の魔女よ。君の仕事をしてくれ。私の天幕はあっちだ」

 大きな手がにゅっと伸びてきて、自分の立場も忘れてレイビスの後ろに逃げた。アリーチェにとってそこが安全なのだと本能が教えたように。

「「…………」」

 ブルクハルトは言わずもがな、レイビスまで目を瞠っている。護衛としてこの場にいるのに情けないことはわかっていた。

 でも、自分の力を強引にでも求めてくるその気迫が、思い出したくもない男の面影と重なって見えたから。

(……がう、違う。ここは、侯爵家じゃ、ない……けどっ……)

 身体が震えて止まらない。自分で自分の身体を抱きしめる。

 妹を人質にして、アリーチェの力を利用していたヴィッテ侯爵。

 自分の正体がバレるということは、ああいうことがまた起こる可能性があるのだ。

 また、大切な人を失う可能性が――。

「あ……は……っ……」

 過呼吸を起こしそうになったとき、レイビスが自分の胸元へ引き寄せるようにアリーチェの頭を片手で抱え込んだ。

「ブルクハルト殿、あなたの護衛は他にもたくさんいるはずだ。悪いが体調不良者を引き続き護衛につかせるわけにはいかない。失礼する」

 そのまま彼の天幕まで連れて行かれ、中には見知った生徒会役員兼騎士科のヴィルジールとロドリグがいた。レイビスはこの二人と同じグループらしい。

 このインターンは、実際の現場と同じように魔術師と騎士の連携を図ることも目的としているので、騎士科の二人と同じグループでもなんら不思議ではない。

「ヴィルジール、ロドリグ。悪いが外に出てくれるか」

「それはいいですけど……会長、その魔術師って――」

「出ろ」

 ヴィルジールの質問を遮って、レイビスが短く命令する。

 不思議そうな顔をする二人が出て行くと、天幕の中で二人きりになった。

 レイビスも十三番目の魔女には興味を示していた。この状況がまずいことはわかっている。

 それでも、背中を撫でてくれる温かい手に、アリーチェは心底安堵した。

「ゆっくり息を吸って吐け。無理に呼吸しようとするな」

 ――ああ、こんな。こんな優しさを向けられると、逃げたくなくなってしまう。

 離れなければいけないのに、離れたくなくなってしまう。

「そう、いい子だ。焦って息をする必要はない。ここには何も恐ろしいものなんてない。そうだろ?」

 こくん、とゆっくり頷く。

 あの穏やかな銀の瞳を見たいと思ったけれど、近すぎる距離とフードのせいで見えない。

 どれくらい背中を撫でてもらったのか。気づけば呼吸は正常に戻っていて、息がしやすくなっていた。

「……意外だな。黒の魔導書を使えるのに、おまえはあんな奴を怖がるのか」

 その声は責めるものではなく、まるで泣いた子どもを慰めるようにどこまでも優しかった。

 レイビスがフッと吐息をこぼす。

「その臆病さ、似てるな、最近見つけた面白い玩具に。弱いのか強いのかわからない女で、だからこそ目が離せないんだが……――悪いな」

「?」

 何が「悪い」のだろうと、小首を傾げる。

「似ていたから強引にでも助けた。けど、強引にされるの苦手だろ、おまえ」

 図星を突かれて心臓が跳ねる。意味もなく焦っていると、何か勘違いしたらしい彼が落ち着けと言わんばかりに強く頭を撫でてきた。

「俺もあの男と同じだ。おまえの魔術に興味がある。だが、あんなふうになるならもう求めない。いつか見せてくれればいい」

 アリーチェは考えに考え抜いて、青の魔導書を発動させた。水を指先から生み出して、それを使って空中に文字を描いていく。

『どうしてですか?』

 水で描かれる質問に、レイビスは一瞬きょとんとしたあと、無邪気な子どものように屈託なく笑った。

「へぇ、すごいな! 水を生み出す初歩的な魔術だが、こんな使い方は初めて見る。繊細な計算式で滑らかな曲線を描くなんて、さすがの芸当だ」

 彼との距離ができたことで、フードの下からでも銀色の瞳がやっと見られた。こんなにも目を輝かせる彼には会ったことがなくて、鼓動が加速するほど動揺する。

「そうだな、どうしてと訊かれると困るが、なんとなく重なって見えた臆病さに、ただ身体が勝手に動いただけだ」

 アリーチェは戸惑った。自分が訊きたかったのは、どうしてそこまで自分の魔術に拘るのか、ということだったのに、おそらく彼はどうして助けたのかと訊かれたと思っている。

 アリーチェの震える姿が、誰かに重なって見えたらしい。

 そしてだからこそ、助けてくれたのだと。

(それってつまり、その人が、殿下にとって助けたいほど大切な人ってこと……?)

 胸がズキッと痛む。この感情はなんだろう。最近こんな胸の痛みを覚えることが多くて、自分の心なのに解らない。

 レイビスは興味深げに水の文字を眺めたり触ったりしている。ぶつぶつと聞こえてくる呟きは、この魔術式に関する考察だ。よほど魔術が好きなのだろうとわかる。

(『好き』……?)

 頭の中に浮かんだその言葉が、なんとなく引っかかった。

 あとから思えばなぜこんなことを訊けたのか、自分で自分の正気を疑った。

『殿下は、その人が好きなんですか?』

「……好き?」

 彼が繰り返した声を聞いて、我に返る。

 焦ったせいで魔術の制御が崩れ、ぱしゃんっと水が地面に落ちて弾けた。

 咄嗟に謝ろうとする前に、彼が口を開く。

「さあ、それはどうかな。……こちらの思惑に気づかないで懐いてくる姿に、珍しく罪悪感が沸いた。求められるばかりの人間関係の中で、あっさりと友人関係を切られたんだ。誰もが俺に近づきたがるのに。自分じゃ相応しくないから、まずは相応しくなると言って。あんなにまっすぐな奴は初めて会ったんだ。だからかな、疑ったことを、少しだけ悪く感じた」

 そう話すレイビスは、まるで自分の心を整理するかのように淡々としていた。〝アリーチェ〟には見せない姿だと思った。

「結局、疑った時間が無駄に思えるくらい相手は真っ白だったよ。これまでも空振りはあったが、これほどその結果に複雑な思いを抱いたことはない。しかも相手に欲がなさすぎて困った。罪滅ぼしもさせてもらえないんだからな」

 その〝相手〟のことを思い出しているのか、レイビスが遠くを見つめる。

 そんな彼を見て腹の底から立ち上ってくるモヤモヤが何かわからないまま、それを押し込めるように心を落ち着かせると、アリーチェはもう一度同じ魔術を組み上げた。

『疑ったこと、後悔してるんですか?』

「いや、そうじゃない。俺は立場上、疑わなければいけない人間だ。簡単に死ぬわけにはいかないから」

 それはそうだろう。彼はこの国の王子。第一王子だ。

 それに、アリーチェ個人としても、彼には死んでほしくない。

 微妙な沈黙が落ちたが、それを破ったのはレイビスだ。

「……少し喋りすぎたか。どうやら柄にもなく浮かれてたらしい」

『浮かれてたんですか? どうして?』

 全くそんなふうには見えなかったが。

 ただ、確かにアリーチェの知る彼にしては、いつもより口数が多かったようには思う。

「俺が魔術に全力を注げるのは、学生の間だけなんだ。その間に十三番目の魔女殿とは会ってみたいと思っていた。他人の魔術であれほどの衝撃を受けたことはなかったからな。そんな相手に会えたんだから、俺だって浮かれてもいいだろ?」

『でも、失望しませんでした? こんなんで』

「まさか。魔術を見ればわかる。十三番目の魔女は想像以上の魔術師だったよ。この魔術だって、何かに役立てられそうだ」

 彼はフッとと口元を緩めて――でもすぐに真剣な表情をして振り返ってきた。

 だから、と続けて。

「どこにも行くなよ。おまえは十三番目の魔女。この国の宮廷魔術師で、王族おれを守る魔術師だ」

 ――それを忘れるな。

 その言葉が、ずっと耳から離れなくなってしまった。



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