アガペー:agape

@YukiShohei

第1話

プロローグ


アイザック

『――今この瞬間、私たちは眠りながら夢を見ているのか、それとも起きて話をしているのか、誰が証明できるというのだろう。   プラトン』



ノアN

遠い遠い昔から、ここまで時間がたった未来であっても、貧富の差はとても激しい。しかし見事と言わざるを得ない都市計画はその地区の中心から広がって。同じくして貧困の度合いもまたその中心部から広がる。一番端の地区では麻薬を売るか、身体を売る事でしか生活手段はない。そんなスラム地帯である。


ソフィーN

私は彼の事を愛していた。彼のためなら、命をすり減らしてもかまわないと誓った。私の左手の薬指には、誓いのリングは細く。ただただ真っ暗な光化学スモッグの下。汚いネオンの明かりだけを反射していた。


ノアN

生活の範囲も行き来できる場所も。ほとんど生まれた時に決まってしまう。そんな世界であった。それでも僕は。こんな世界でも彼女を愛し、幸せであって欲しかった。そうしなければ自分の価値は消失すると考えていた。


ソフィーN

私は彼の事を愛しているわ。だって彼は彼のすべてを私にくれたのだもの。私の人生を差し出すにあたって。彼は自分の人生をすべてくれる事。それだけで私はノアのためにならなんだってできるのです。私には彼のような人間が必要で、彼もまた私が必要に違いない。お互い言わずともわかっていた。


ノアN

彼女と僕がお互いを大切に思っている事について、口にする必要などないという事を感じていた。その責務を果たすのに必要な仕事にありつくことはできた。しかしその重労働は何百年も前から変わっていない。重たい荷物をただただ進化しただけの重機で運び、腰を悪くし肺を悪くする。ここでの生活が嫌なわけじゃない。僕が彼女のためにしてやれるのは日銭を稼ぐこの仕事と、一緒に過ごす事だけだった。



ソフィーN

ああ、ノアよ。どうか。幸せに。ノアの幸せは私の幸せで。どんな不自由にも私は耐える事ができて。それでも私の身体は、スラムの近くにあるこの地域では規制なんて成立しない。規制なんてものはここまで届かないと言わんばかりの光化学スモッグや、環境汚染で日々と身体の違和感は増すばかり。私は今の生活を守るために、ばれないようにばれないように。心配をかけまいと努めて明るく日々を過ごしていた。



転換1



ノア「ただいま。」


ソフィー「おかえりなさい。ノア。今日もご苦労様。」


ノア「今日はね、ちょっとしたサプライズだよ!仕事の時にこんなのを見つけたんだ。ほら!」


ソフィー「あら、オルゴール!でもその前に今日はシチューだからあったかくて風味が飛ばないうちに食べない?」


ノア「うん。それもそうだね。さっき少し鳴らしてみたけど、壊れてはいないみたいだよ。音楽なんて久しぶりだね。ああ、楽しみだ!」


ソフィー「まぁノアったら。子供みたいにはしゃいじゃって。準備はできてるのよ?早く食卓へ。どうぞ。」


ノア「ああ、ごめん、ごめん。今荷物を下ろすから待っていてね。シチューかぁ、確かにいい香りだ。気づかなかった。」


ソフィー「もう、ノアはシチューよりもオルゴール?」


ノア「いいや。まさか。僕が大事なのはソフィーだけだよ。今日も一日家を守ってくれてありがとう。今日も食器は僕が洗うよ。」


ソフィー「ふふ。私の仕事まで奪うつもり?ノアはノアの仕事を、ね?」


ノア「うん。そうだね。ありがとう。ご飯を食べよう。」


ノアN

僕は食卓の上にオルゴールを置いた。ジリジリとゼンマイを巻きなおす。


ソフィー「あっ、この曲……」


ノアN

パッヘルベルのカノンだった。実に懐かしい。結婚式の時にお金をかけて音楽をかけてもらった曲だ。音楽は狭い我が家を反響することで、より可愛く響く。多様な事を音楽が流れている間に思い出す。楽しかった事。幸せだった事。悲しい事。もう無理だと思った事。そしてそのたびにソフィーがいてくれたから、今の僕があるんだという事。


ソフィー「あれ……あれ……おかしいな……なんで……えっ……なんで……」


ノア「どうしたの? もしかしてこの曲が苦手になったとか? もうとめようか?」


ソフィー「いいえ、違うの。私なぜだかとっても不思議で。ここまで一緒に生きてきて。そうしてこれからもそれが続いていくんだろうなって事を考えたら。なんだか泣いちゃった。」


ノアN

彼女は舌をだして見せた。そんなことがあった数時間の後。彼女はぷつりと糸が切れた人形のように倒れた。シチューの入った鍋はテーブルごとひっくり返り、暖かい湯気が床からたちのぼっていた。








転換2



ノアN

先生に彼女が死ぬ事を伝えられた。必ず死ぬという事。治しようがないという事。僕でもわかる公害による死。環境を変える事ができない事がわかっていたから。彼女は死ぬと。必ず死ぬと。心臓が痛いほど苦しかった。そうして僕はただただ怖かったのだ。彼女が僕の目の前からいなくなってしまう事が。それは深い海の中で寒さに凍えて身体が震えるようで、とてもとても寂しいと感じた。たった数分の短い時間の中で、光の明滅のように。ごちゃ混ぜの感情を抱く混沌とした頭の中で医師に詰め寄る。思考をただただ医者に、思いついただけをすべて押しつける。



ノア「お前ふざけんなよ! それが医者の言う事かよ! いいか、あんたがソフィーを治さなかったらお前を必ず殺す。これは脅しじゃないぞ。いいか! 治せよ!おい誰だよ、離せよ。離せ。離せよ! 治してくれるまでここににいてやるよ! そのためになら、なんだってしてやる!」



転換3



ノアN

たくさんの人間に手や足をつかまれ縄で縛られどこかに運ばれても僕は無感情であった。なにもかも放棄した思考で留置所で3日過ごした。そうして心身喪失との判断。すぐに釈放されると聞いても狭い鉄の塊の中、怖さでただただ震える事しかできなかった。出所しすぐに病院に着く。僕はたくさんの人にぶつかってソフィーの元へと向かう。


ソフィー「ノアっ!あなた、なんて事を……お医者様はさぞ気の毒だったでしょうに……。あなたはあなたがしたことをわかっているの……あんなこと……私のために……警察につかまってまで。ノアは犯罪者? そんなことで私を救うことができるとでも? 正しい事と正しくない事の判別もつかないノアとは、今のノアとは一緒にいたくないわ! いつからノアは善悪の区別がつかなくなってしまったの……」


ノア「だめだ。だめなんだ。僕にはあてがある。僕にしかできない事がきっとある。僕は。ソフィーにどれだけ恨まれても。たとえどんな事をされたとしても助けるんだ。だから。少しの間だけ我慢して、待っていて欲しいんだ!」


ソフィーN

彼はすごくやつれていた。人の死は脆く。その死後しばらく経過したとあるならば、余計その存在は人の心にとどまるとは限らないのだ。あんな暴力まがいなことを、私は彼がどこまでも意味のない争いをしたという事にひたすら戸惑っていた。なにをしたって必ず……私は死んでしまうのに……


ソフィー「ノアは馬鹿よ!私はそんな事を言っているんじゃないわ!どうしてそんな危ない事をしたの?そう聞いているの。あんなことをして刑務所に入ってしまったら私はもう二度とノア にあえないから……」


ノアN

僕はソフィーに駆けより強く抱きしめる。彼女の身体からだんだんと力が抜けるのがわかった。彼女はゆっくりと語り始めた。


ソフィー「私のせいだったんだ。前からがんばってたの。これが一番だって。こんな風に自分を犠牲にしてだなんて……私はノアの事をわかっていなかった。……そうやってノアを心配させないようとしていたバチがあたっちゃった。このままだと死んじゃうんだってことも、もっと前から気づいていた。」


ノア「どんなに悩みぬいても道を探そうって……一緒に乗り越えようって、どんな時でも一緒だって決めていたじゃないか。治す方法がないなんてこともないさ。今はそうだね。お医者様には僕は何度だって。殴られたって。許してもらうまで謝るよ。あんな事は二度としない。ソフィーに、こんな事で心配はもうかけない。そして僕は……君を治してみせる。」









転換4



ソフィーN

彼は仕事を辞め私の病室に入り浸っては、どこかへ足取りおぼつかないまま出かけていた。長い一週間だった。彼は時々宙を見つめて、それから私を見て微笑んでくれた。バカだなと。心配いらないさと。僕がなんとかするからと。病室ではオルゴールの突起がぐるぐるぐるぐる金属の棒をはじき続けた。カノンは、そのオルゴールが飽きるまでなり続ける。彼は曲が終わるたびに、何度もネジをジリジリ巻く。


ノア「ソフィー。話しを少しいいだろうか。僕さ。考えていたんだ。ソフィーは生体脳って知っているかい?もちろん医療倫理の禁忌だけれど、今はそんなことは全く問題じゃない。生体脳に脳のデータを魂ごとコピーしさえすればソフィーはソフィーとして生き続けられる。僕はそれが出来るツテをもう見つけているんだ。」



ソフィーN

スラムのような地域には、いつだってアンダーグラウンドなコミュニティはつきものだ。彼はMADサイエンティストの居場所をつきとめた。科学のためならどんな研究もする。お金になんか興味がない。好きな値段で商売をして、法外な値段を請求する事もよくある。そのMADサイエンティストはアイザックという名で推定40歳。複数の学位を取得した研究者。アイザックは禁忌を犯した。犬の脳に自分が飼っている死にかけの犬の脳のデータをコピーしたのだ。動機は不明。結果も不明。学会から追放。学位も免許もはく奪されタブーを犯した人物として、行方をくらましていた。ノアは言う。私のために生体脳へ脳のデータを魂ごとコピーすると。私はノアと一緒に生きていく事がてきるならばそれでも良かった。ただ一つ。たった一点だけはどうしても認められない事があった。それは、費用の担保が彼の身体になってしまった事だ。ノアが勝手に決めてしまった、この方法だと私は彼と共に”は”生きることはできない。



ノア 「お願いだ。僕がいなくてもソフィーさえ生きているのなら。いつか僕ではない好きな人ができるかもしれない。幸せに暮らせるかもしれない。僕は契約書を書いた。いかなる事を……」


     ト ソフィーがノアのに胸を痛くはないがドンドンと叩いて言う。


ソフィー「ばか! ばか! ばかぁ……ノアがいない世界に私を残してどうするのよ! 私を見殺しにして! お願いよ! 私はあなたを犠牲にしてまで生きてはいけないのよ。……私が死ぬ事は決まっていた事だった! 自然の法則を捻じ曲げてまで私は生きていたくはないの! ……ましてノアの身体を担保にだなんて、決してあってはならないわ! ノアはこれから生きるあなたの世界を全うするのよ……ノアは……生きて!」



ノア「ごめん。その話しだけは聞くことができない。……はは。ふっ。はは……。……きっと……神様なんかいないんだろうね。もし仮にいるんだとしたら外道だ。ほら、全知全能なら防げたはずなんだ。僕たちが何をした。ただ僕たちは貧乏でもつつましくでも暮らしていけたらそれでよかったんだ。……それだけでよかった!君が治るんだったら、僕はどんなことでもする。ソフィーが助かるのなら、僕はたとえ悪魔にだろうが魂を渡す事だってたやすい。」



ソフィー「それでも! つつましい暮らしでも、それはノア、あなたがいないとダメなのよ。あなたはあなた自身の価値がわかっていない! ノアと私。二人の世界で、私はノアがいて初めて幸せも愛情もたくさん。人間として知っておかなきゃいけない。経験しなければそれがあるという事すら知りえない感情をもらった!私。なにも返していない!」



ノア「……うん。うん。でもね。もうダメだ。もう決まった事なんだよ。ごめんね。僕の世界が終わってもソフィーの世界は続く。続く世界が保証される。もしかしたらやりとげた人間の一生の果てが達観にいたるみたいな。僕は今こそ人生で一番この身体があって良かったと思える瞬間なんだ。ごめんよ。時間がないんだ。話し合いはここまでにしよう。今から君をアイザック博士のところにつれていくよ。ソフィーは眠っていて。そのうちにすべてが終わる。」



ソフィー「どうか……私の話しを……聞いて……それは……何……?」


ソフィーN

彼は私に小型の銃のようなものを頭にあてた。そこから私の意識はなくなった。



転換5



ノア「アイザック博士!成功したんですか!失敗したんですか!?」


ソフィーN

目が覚めて、白衣を着た壮年の男性へとつめよる彼の声が聞こえる。あわてないでと聞いた事がない声がする。私がいた場所は……ベッドの上だった。目を覚まして当たりを見回す。恐る恐る声を発する。


ソフィー「ノア……?」


ノア「ああ! やっと目を覚ました! ソフィー、ねぇ、ねぇ……ああ、意識があるんだね……良かった……ほんとうに良かった……」


ソフィーN

手術はこうして、私がほとんど関わる事なく成功した。



転換6



ノア「アイザックはね。猶予と仕事をひと月分くれるって言ってくれたんだ。その間僕はアイザックの研究室の手伝いをすること事にしたよ。」


ソフィー「そんな……。なにをしてもあなたは……死んでしまうのよ……生きていく事を真剣にどうして考えないの?」


ノア「この身体で今できる事はこれだけだから。生活はしていくから……こんな身体でも差し出せばソフィーが生きる事ができる。ソフィーとの生活が続くというのなら、最初からそのつもりだった。そして僕の残りの人生全て決まったのが、たまたま今だっただけなんだ。僕は君のために……生き"た"。」


     ト ソフィーがノアの頬を叩く。

ソフィー「ノアは……ノアは……私を愛しているのね……だからノアはそんなに身勝手なのね!」


ソフィーN

行動と言動がちぐはぐだ。そして私は彼を強く抱きしめる。果たして機械の私の、今の体温は以前と同じだろうか。果たしてノアは以前の私と同じ生き物だと思ってくれているのだろうか。これからの事がどうしても不安で彼の胸の中で。ひたすら考え、彼を感じた。


ノア「僕たちが出会ったのはね。覚えているかい?」

ノアN

僕はソフィーが落ち着くのをゆっくり待ってから、なるべく彼女の記憶を確認するように。昔話をはじめた。これはアイザックからの依頼の一つにもある内容だ。



ソフィー「ええ、ちっちゃな頃からの同級生。それからたくさんデートをしてお付き合いをはじめて……そうだわ!大きな結婚式を挙げた!」



ノア「そうだね。実はアレ。生活ギリギリだったんだ。結婚式の指輪だって、一年分の給料だった。すごく働いたなぁ……今はほら……機械の身体で調整がまだだからつけられていないけどさ。今後の事を考えると、それはそれで良かったと思う。」


ソフィー「うっ……うっ……あなた……ごめんなさい……ごめんなさい……」


ノア「もう済んだ事だから。どうか独りよがりだったけれど、僕は今さえ大事にできればいい。どうかお願いだ。あと少しの間だから、ほんの少しを一緒に生きて欲しいんだ。そうすれば僕はきっと悔いなく逝ける。」



     ト ソフィー後悔や懺悔を含んだ気持ちでの慟哭。

ソフィー「……ノアは死ぬ事をなんとも思っていないの?」


ノア「死ぬのは怖い事だ。でもソフィーのために死んで、そしてソフィーは生きる。それだけの事なんだ……不思議かもしれないけれど、僕はすごく満足しているんだよ。」


ソフィー「そう……なのね……私にはどうする事も……(また泣き出す)」


ノア「どうかどうか泣かないで……僕の命が無駄になってしまうから……過ごそう。二人きりの。最後の期間。」



転換7



ノアN

アイザックのところで仕事をして帰る事以外はすべて同じ生活に戻った。アイザックは言う。この仕事は生活を記録してありのまま伝える事。しかし記録を集めて何になるというのだ。朝一緒にご飯を食べて、仕事から帰ってきたら出迎えてくれる彼女を抱きしめて、他愛もない会話をして、夜一緒に眠って。また次の日も同じ事をする。僕にはそれでよかった。けれどアイザックに何の得があるのかわからない。彼の仕事をこなして帰る。もちろんアイザックには感謝をしている。なぜアイザックは僕たちに興味を持ったのか。この街に住む人の身体はなにかしら使い物にならなくて、一ヵ月ほどの食事のカネにもならない



ソフィー「ねぇノア、明日のご飯の献立、何にいたしましょうか?」



ノアN

ソフィーにそう言われ。僕は我に返る。考え事のせいか一瞬言葉に詰まった。



ノア「……あのさ、明日はソフィーもアイザックのところについてきて欲しいんだ。彼は変わった人間だ。でも彼の本質はおそらく。悪い人間だとは思わないんだ。」


ソフィー

「ええ……それは構わないけれど。お仕事の邪魔じゃないかしら?」


ノアN

「その仕事についてアイザックが話しをしたいって。内容は……ごめん。だめなんだ。余計な事を話す事は全て止められていて……どうかついてきて欲しい。」


ソフィー「それじゃあ、明日は私の身体の点検かなにかねきっと。」


ソフィーN

私は気が付かないふりをしていた。いろんな事を見て見ぬふりをした。それは彼の邪魔をしたくない。彼の残りの人生を私が邪魔をするわけにはいかない。いつもアイザックのところから、話疲れたといった様子で帰ってくるノアがいる。それでもどこか……、私は彼のする事を信じていた。



転換8



ソフィーN

二度目のアイザックの研究室。ここには彼の研究に必要なものを揃えた複雑な建物である。この建物のいたる所にあるセキュリティシステムも伊達ではなく最新の機材だ。彼は何が望みなのだろうか。これだけ揃っていても、彼の目はいつもなにかを探している。そんな寂しい目だと思った。それは瞳の中にだれかを映していても、決してその人の事は考えてはいない。そうしてアイザックはこの地域では高価なコーヒーを用意して一時間かかるといって、部屋から出て行った。



ノアN

きっと彼はこの部屋を監視しているだろう。今日僕は彼に身体を引き渡す。わかっている。逃げたりはしない。第一に彼女に危害があってはいけないし、彼女を連れてくることさえアイザックにはすべて予測済みの事だったのだろう。きっと決定事項だったはずだ。しかし時間が経つにつれて考えはだんだんと、この部屋で過ごす一時間が僕がソフィーと一緒にいられる最後なんだと痛感しだした。



ソフィー「ノア。私わかっているの。」


ノア「なにを?」


ソフィー「私気づいているのよ?」


ノアN

とても静かな時間だ。彼女は何を想い、何を感じているのだろう。それも生きていればこその感情。彼女にとっての世界はこれからはじまる。生きているからこそ可能性があり希望に満ちている。だから彼女は生きていける。彼女の未来を想像して、それがたまたま明るいものだったから。僕は少し幸せを感じた。



ソフィー「私ね。ノアの身勝手さを怒っていた。私を困らせたいのって。……でもそんなわけない……ノアは、私を不幸にさせようとは決してしない。」



ノアN

彼女の言葉だけで穏やかな気持ちになる。彼女の髪を、身体を。呼吸を、沈黙の中に綴られ続ける動きのある生々しい言葉を僕は感じた。これが、僕と今ソフィーが生きているということなんだ。



ノア「ソフィーが僕を選んでくれて一緒にいてくれてありがとう。最後にこれだけを言おうと決めていて。……考えてみてはいたけれど。やっぱり僕が伝えたいのはありがとうだった。一緒に生きてくれて支えてくれて、ありがとうソフィー。」


ノアN

彼女の表情は泣きそうに曇る。けれど笑顔で僕の手を取った。考えた抜いた。最後の言葉。お別れの言葉。ありがとう。そう告げるのを合図にアイザックが入ってきた。僕は別室で冷凍保存され検体として使用される。その部屋に連れていかれる事となった。最愛の人に手を振りながら、思わず声に出す。



ノア「ああ、さようならソフィー! 今までありがとうとても幸せだった!世界を憎まないで、君はどうか新たな幸せを!」


ソフィー「……あっ、ああ、ああああ!ノア!ノア!うわぁぁぁぁぁ!」


ソフィーN

1時間した後にアイザックは、この部屋に入ってきた。アイザックは言う。"彼は寝ているよ"とあっさり。とっさに一口もつけずにいた冷えたコーヒーを彼にかけた。


アイザック「あ……あーあ。ちょっと今着替える時間ないのにな。ソフィーたちの様子はモニターで拝見させてもらっていたよ。」


ソフィー「……あなたは……悪魔です。」


アイザック「そうだね。僕はたぶん。まぁ。悪魔に近いなにかだよ。あるとき僕は悪魔になるか魂をそいつに売るかを選んだんだ。それにたいした迷いはなかった。あのさ。こんなの。君もわかるだろうけど。迷う必要あると思う?人なら当然だ。これは……そうだな、この話しはしておいたほうがいいな。20分もかからないから話しを聞いて欲しい。」



ソフィー「……あなたはどうしてこんな場所で才能を肥やしにしているのですか。あなたが禁忌を犯し学会から追放された理由とはなんですか?なにをしたんですか?なにが目的なんですか?」



アイザック「すごいなぁ、次から次に。頭の回転はきっと早いんだね。ただアドバイスするならば話しは簡潔に手短にだ。いくらなんでも質問が多すぎる。こちらは悠長にしてはいないんだよ。」


ソフィーN

彼はこれが天才の流儀なのだろうか?という悪びれもしない率直さで言葉を続けた。


アイザック 「うん。3つの質問に同時にこたえよう。僕はね。僕の飼っていた愛犬の命を魂ごとコピーしようとした。結果は失敗。でもね。僕は純粋に親友と一緒に過ごしたかっただけなのさ。」



ソフィー「それは……」



アイザック「いいや、質問には答えた。時間が惜しい。実験はまだ終わっていないんだ。僕の手元が狂って変数になったりなんかした日には目も当てられない。実験のほとんどは失敗でできているんだよ。」



ソフィー「……あなたは……、私になにをさせようというのですか。実験?あなたは私になにかさせたいのですか?」


アイザック「それは聞くだけなら聞くという事に同義だ。今はそれでいい。」


ソフィー「…………どうぞお話しください。」


アイザック「僕は実験がしたかった。彼は死んではいない。ただこれから死ぬかもしれない。これには生きる末路も用意されているという意味なんだよソフィー。未知なんだけどさ。ただ僕はこういう慎重な実験においてミスは一度しかした事がない。だいたいのやつは手を抜いているのさ。内容としては簡単だ。ソフィー脳の空き容量に彼の脳のデータをコピーする。当然禁忌を使って。もともと単純な0と1による数列であるDNAデータだ。大した容量じゃない。大昔の磁気ディスクに収まるよ。そしてデータは脳に上書きをするのではなく共存させる。機器は準備済み。さて質問はある?」―


ソフィー「なにをいっているのかわかりません。わかるように答えてください。」


アイザック「うん。……そうだね。人の魂とは……動物の魂とはいったいどこにあるんだろうね。僕が学会なんてのを追放されたのは、その実験を許可すると面倒になるからという判断でしかない。逆に言えば技術的に全然難しくはない。僕はその臨床データが欲しい。そうして……僕は……。……いいや意味のない事は嫌いだ。どうだろうね。ソフィー。彼。死ぬよ?いろんな所に検体となる契約を交わしてあるからさ。この契約は彼の身体を担保にするという当初の話しにつながっている。そこで君にどんな選択肢があって、どうすれば彼の身体をバラバラにしない方法なのかは、ソフィー。君は理解してはいるんだよね?」

 

ソフィー「あなたは人でなしだわ! 人でなし! ……そんな事を。判断を。この状況で迫るなんて!」


アイザック「ああやめようよ……面倒で無駄な感情論だ。やるか。やらないかだけで答えればいいだろうに……」


ソフィー「そんなの……そんなの……やるに決まっているじゃない……」


アイザック「ああ、よかった決まりだ。準備は出来ているんだ。急ごう、途中で気分を変えられるなんて、それこそ面倒で無駄でしかないからね。」


ソフィー「……ですが仰いました"問題は少ない"と。どんな問題が起こりうるんですか?」



アイザック「うん。馬鹿ではないんだね。君は。聞かれるなら答えよう。それくらいで決意なんかは鈍らないんだろう?……実は魂というのはよくわかっていない。定性定量どちらも不確実なんだ。当然仮説がこんなのだからさ。どれだけ積み上げ練りこんだ理論であったとしても、不確実性定理が必ず介入する。今日までうまくいく確率をひたすら上げる準備もしたんだ。そこで起きる問題とはね……うーんと要するにだ……一つの箱に魂なんてよくわからないものが、混ざってしまったらどうなるんだろうねって事。この実験の結果はなんでもいいさ。失敗したらまたやるだろうし。……結局、僕にとって成功のサンプルは一つあれば十分なんだ。認知行動も済ませ、準備は整った。だからソフィーにお願いしている。」


     ト 深呼吸を浅めに行いながら。

ソフィー「そう……ですか……、……なら私はかまいません。彼の魂を私の生体脳に。……さあどうぞ。実験をなさってください。」


ソフィーN

そうか。と言ってアイザックは私をつれていった。私は部屋に入り寝ている彼を一瞥した。寝ている彼の隣にベッドがもう一つ。私はアイザックにうながされてベッドに横になる。……私は何かを確信しているのだろうか?自分にもわからない気持ちでアイザックに声をかける。


ソフィー「博士。私のベッドをもっと近づけてください。手を……手をつないでもいいですか?そうすれば実験は成功しますよ。ノアも私も同時に生きるんです。」


ソフィーN

この程度は気持ちの問題なのかもしれない。私はノアの事を強く考える。何もかも勝手に決めてしまった事。それからずっと幸せだった記憶の数々。そうして、少しの時間の後。私は形のない何かを確信した。




ソフィー「ノア……また会いましょう。今日までありがとう。私、またノアと会えるから。」



アイザック

「彼女を眠らせた。実験が始まった。転送はあっというまだ。これも1時間くらいだろうな。さてっと。このあたりに座らせてもらうよ。僕はさ。ノアから毎日認知行動療法の報告書を受け取って聞いて読んでさ。ちょっとね。白状すると。少し感動したんだ。恐らく、君らの行動に当てはまる言葉はアガペーだろうね。相手になんの要求もせず。相手の幸せのみを考えて行動する。そんな理論値に近い純粋性の極めて高い愛。こんな貴重なのさ。この時世だととても貴重な事だからね。そのうちにね。僕も少しわかったような気になれたよ。なんだかさ。この感じ。すっごく気持ちがいいね。それでもさ。ただ僕は研究者だからね。出来る事は全てする。うまくいかない研究なんて、僕には意味がなかった人生だ。だからね。本当。君たちの行為は驚いた。結構手が震えたよ。だって面白かったしさ。それでもね。僕は君たちを馬鹿な事を決めてそれをしたんだとは、思っちゃいない。さて。……聞こえてなんかいないだろうけど、いつもどおり好きに実験をさせてもらうよ。本当はね。僕はさ。子どもの頃、あの時の何も知らなかった僕の事なんだけどさ。死んでしまった親友のぺスと走り回る事を夢見ていただけなんだ。それだけでよかった。それしかいらない。そのためにここまできたんだ。ぺスが死ぬ時。あの横たわる姿を見ながら、ペスを抱きしめながら僕は、無力だったんだと思い知らされた。とても辛かった。息をするのも辛かった。だからこの研究をはじめたんだよ? ……ああ、できる事ならまたパパに怒られるかもしれないけれど、一緒にベッドで眠りたいなぁ。ん……なんだろうコレ。泣いてるの。僕が。なんでまた。ううん。おかしいな。僕の異常反応だ。でも。そうか。うん……うん。そうか。君たちがね……うん。そうだねペス。……そうか、僕は本当にうっかりしていたよぺス。ごめんねぺス。大好きな君に。この実験がうまくいったらなんて話そう。僕たちもさ……。ああそうか……こんなに単純な事……忘れていたなぁ……結果しか求めなくなった僕は。今になって僕は。ペスに対してノアとソフィー が決断した行動原理で。僕もまた愛していたからこれしかなかったんだという事に気が付かされた。結果がうまくいっても愛情がなければ永遠なんて間が持たないだろう。ようやく経過45分といったところか。実験はうまくいっただろうか。この実験は失敗なら死ぬまで植物状態。上手くいったら一つの脳に二人の魂が共存できる。そのまま機械が朽ちるまで二人は恐ろしいほどの時間を生き続ける。狂った考えかもしれないけれどね。僕はさ。君たちなら永遠の愛を形づくる事ができると思うんだ……箱舟は知恵を乗せて新世界へと到達する……。ああ、これは願いなんだろうな。ホントさ。あの二人うまくいくといいな……」




ト   終幕したかのような長い間をとってからエピローグは始まる。

エピローグ




ソフィーN

夢を見ているようだった。昔の資料で視たような、ひたすら自然が広がる地球であろう草原に立っていた。自分は何をしていたのだろうか。それまで見ていた景色と今見ている景色が乖離しすぎていて、まるで生きている実感がない。たしか……実験……、それは一体なんの実験だったか。あたりを見ると暖かい太陽と涼しい月が並んでいた。ここはどこなのだろう。身体が軽く。とても不思議な感覚だ。するとすぐ向こうから聞き慣れた声がした。



ノア「ソフィー。おはよう。僕はずっと君を待っていたよ。君が起きるのを待っていたんだ。そうして話したいことがたくさんできた。ここはもしかして天国かな?どうやら僕らがいるところは素敵な場所みたいだよ。……あのさ。ソフィー。僕はすごい身勝手だった。本当にすまなかった。それでも。……また君とおしゃべりできる事を、僕は期待しても良いのだろうか?」



     ト ソフィーが勢い強くノアに抱きついて叫ぶ。

ソフィー「ノア! 私……きっとね、きっと。またあなたに会えるんだとわかっていた。確信してたわ。ああ、今はとにかく……あなたに触れたい。」


ノア「うん。うん。」


ソフィー「ノア! 私、不安だった! 怖かった! でもノアのいない世界になんかやっぱり興味がなかった! だから……だから……私は……」



ノア「ああ、うん。わかっているよ。そっか。ソフィーならいずれこの世界に来ると思っていたんだよ? 僕はあれから眠っていた。起きたらこんな場所で暖かくて穏やかで、向こうには木の実があったよ。なによりも、やっぱりソフィーがいるならどこだって幸せに生きる事ができると思うんだ。ほら、見てごらんよ。僕たちの世界はこんなに美しい。」


ソフィーN

コクリと私は頷いた。草原が続く地平線は遥か彼方まで続く。澄み渡る空の下で、太陽の光によってまぶしく指輪が光る。遠くの草原が揺れるのが見えた、そのすぐあと優しい風が私の頬をなでる。



ソフィー

――そうして私達はたった二人で永遠を生きる。




アイザック

『――愛とは、深刻な狂気である。   プラトン』











アガペー:agape   了

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