✞Prologue

♰Chapter Pro:東雲朱音の心音

――努力は報われる。


これを初めに口にした人は誰だっただろう。

こんなにも綺麗で、魅力的で――残酷な言葉をあたしは知らない。


『疑う』ことを知らなかった幼い頃。

そんな魔性の言葉に誘われてしまったことがある。

まるで寂しい夜に灯る一つの明かりに釣られるように。


一人一人にどんな理由があったのかは分からない。

独りの子どもばかりが寄せ集まって、一人のもとに愛されようとした。


優しい微笑みを浮かべる施設長。

空腹を和らげる食事に、寝転がれるベッド。

たまには水風呂に入ることも。


どれも簡素で気休め程度のものではあったけど、そこで生活していたあたしや他の子どもにとってはこれ以上ない『幸せ』と呼べる居場所だった。


でもある日をきっかけにして、気付いてしまった。

そして自分の中の何かが崩れた。


――抵抗する手を縛られ、口元を抑えられ。

――泣いても叫んでも嵐の夜に虚しく消えて。


それからは一つの出会いを経て、東雲朱音しののめあかねとして生きていくことになった。


東雲朱音の役割は、大企業のCEOに相応しい養子として――令嬢としての『努力』を常に欠かさないこと。

だからこそ礼儀作法から最適な行動を選択するところまで、たくさんのことを身に付けてきた。


例えば、そう。

八方美人ににこにこと伽藍洞の笑顔を振りまき、他人の機嫌を損ねないように上手に立ち回った。


例えば、そう。

お父様の掲げる理想的な娘であろうと従順に振舞った。


それらを嫌だと思ったことはない。

それがお父様のために自分の担うべき役割で、必然の使命と言えたから。


――まるで錆びついた刀ね。


鞘に納められてはいるが、その中身はなまくらの刃。

外面だけはたくましく、身に付ける者の外敵を牽制する。

上等な外装と下等な内装。

だというのに。

それでもわずかに――本当に少しだけ寂しさがあったのかもしれない。

決して口に出してはならない迷いの芽。


「……あーあ、今日は見えないのかあ」


あたしは屋敷の敷地内にある道場で正座していた。

精神統一を行うためにここに来たというのにこれではまったく集中できていない。

週末であるにも関わらず、朝から接待にてんてこ舞いになっていた疲労が祟ったのだろうか。

嫌なことを思い出してしまった。


豪快な筆遣いで『明鏡止水』と銘打たれた扁額を一目見て目蓋を閉ざし、深呼吸。

それから再び夜空へ。


「月、見たかったな」


分厚い黒雲が夜空を覆い、月はおろか星の一つさえも覗くことはない。

ややもするとぽつぽつと空の嘆きを聞かされ、轟雷が鋭く明滅する。


――ぴしゃん!


「いやっ!!」


もう何も怖くない。

そう思っていたはずなのに――。

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