嫉妬と狂気

 バス停で座っていた時だった。


「山川君」

「う……」


 待っていたと言わんばかりに、どこからか氷室先輩が姿を現した。

 ボクが反応すると、明らかに不機嫌そうな表情になる。


「彼女が現れて嫌そうにするのが、山川君の態度なわけ?」

「そういう、わけでは……」


 先輩は隣に腰を下ろし、横から睨んでくる。

 顔をまともに見ることができず、ボクは前を向いた。


「……素っ気ないわね」

「だって」

「もしかして、キスで照れたのかしら」


 違う。

 怖いだけだ。


 精神的に追い詰められると、不思議なもので、自棄に近い状態になる。

 普段は引っ込めている言動が、つい感情と一緒に口から出てくる。


「……あんなの……普通じゃ……」

「当たり前でしょう」

「殺され、……るんじゃないかな、って」

「殺すわけないでしょう。溺れたら、心肺蘇生するわよ。それくらいの知識はある」


 氷室先輩が距離を詰めてきた。

 太ももをくっ付けて、顔を覗き込んでくる。


「ワタシ、自慰がしたいだけよ」


 恥ずかしがることもせず、ハッキリと言うのだ。

 こういう所も、ボクには信じられなかった。

 貞淑ていしゅくであれ、とは言わないけど。

 ちょっとは遠慮してほしいかな、って思ってしまう。


「だったら、山川君のことを教えて」

「ボクのことですか?」

「そうよ。山川君は何が好きなの? 胸? お尻? それとも、別の何か?」


 女の子と猥談をするのは、これが初めてだ。

 本人は至って真剣に聞いてくるから、軽い調子ではないけど。


「え、と、男の人は……」

「男じゃない」

「……あ……う」

、何が好きなの?」


 ピンポイントで聞かれると、ボクは言葉に詰まってしまう。

 ボクは、何が好きなんだろう。


 実は、自分のことが分からなかった。

 女子の事は、可愛い人だなと思ったことは多々ある。

 でも、どうこうしたいとは考えたことがなかった。


 毎日、明るく話して、普通に授業を受けて暮らせれば、もう十分だ。


「特に、何も」


 無欲というやつだ。

 ボクには、欲という欲がなかった。

 というか、思いつかなかった。


「それってでしょう」

「でも、何も思い浮かばなくて……」

「これでも?」


 ぐいっ。

 氷室先輩に手を引かれた。

 いきなりのことで動揺したが、次の瞬間、手の平には柔らかい感触が伝わってくる。


 見れば、氷室先輩は自分の胸にボクの手を押し付けていた。


「うわ!」


 氷室先輩は動じない。

 堀田君が気味悪がって発した言葉は、言い得て妙だった。

 本当に人形みたいなのだ。


 氷室先輩はボクの目を真っ直ぐに見つめ、反応を窺っている。


「こっちは?」


 手の平を尻に誘導され、ボクは抵抗した。


「や、やめ……」


 べちんっ。

 耳を巻き込んで、ビンタをされる。

 一瞬、止まった隙に、ボクの手の平は尻に触れていた。


「何も感じないの?」

「こういうの、得意じゃなくて……」


 氷室先輩は目だけを動かし、別の方を見る。

 考え事をしているのだろう。

 嫌な予感しかしなかったが、氷室先輩は何を思ったのか、口を開いた。


「……あ……む」

「うっ」


 指を咥えたのだ。

 第一関節を歯で固定され、逃げられないようにしている。

 甘噛みより少し強めで、力加減から「逃げたら嚙み千切る」という意思を感じた。


 薄桃色の唇がもごもごと動き、口の中で舌が這い回っていた。

 ざらついた表面が指先を舐め、口端からは溢れた涎が出てくる。


 これだけ淫靡いんび扇情的せんじょうてきなのに、氷室先輩は鉄面皮てつめんぴのままだった。


「ん」

「ちょ、っと」


 こんな場所で、何の躊躇いもなく急所を掴んでくる。

 ズボン越しとはいえ、鷲掴みにされてしまい、ボクは固まった。

 周りを見るが、本当に氷室先輩といる時は誰も通りがからない。


 時が止まったかのように、ボクらの間は誰にも邪魔されない。


 水音を鳴らして、先輩が口を離す。

 何やら、得心がいった様子だった。


「あぁ、山川君。ワタシのなのね」

「い、いや、……手を」


 氷室先輩が手を離し、ボクはベンチの端に移る。と、先輩も距離を詰めてきた。


「今日は山川君のことを知れてよかったわ。今度は、ワタシの家でたくさんキスしましょう。そっちの方が、山川君も楽しいでしょう?」


 翻弄されっぱなしだ。

 氷室先輩が、何を考えているのか分からない。


「ところで、山川君。連絡先を教えてくれないかしら」

「連絡先、……えっと」

「スマホを出して」


 と、言いながら、氷室先輩はボクのポケットに手を突っ込んだ。

 手首を掴んで抵抗するけど、するりと手の平をすり抜けてしまう。


 氷室先輩は片手でボクのスマホを操作し、もう片方の手でスマホを操作する。


 ふと、その手が止まった。

 ボクのスマホを凝視して、画面を見せてくる。


「ねえ。山川君」

「……はい」

「こいつら、……誰?」


 ユイさんと柊先輩だ。


「友達、です」


 正直、ユイさんの事は考えたくない。

 でも、友達と言い訳しておかないと、何をされるか分からないので、そう言っておくことにした。


 氷室先輩は黙ってスマホを操作した。

 それから、無言でスマホを返してくる。


「山川君」


 スマホをカバンにしまい、氷室先輩はボクの前に跪いた。

 下から覗き込むようにして、白い手がズボンに掛けられる。


「……ここで、舐めてあげるわ」

「え?」


 ズボンのチャックが下ろされ、手が入り込んでくる。

 さすがにマズいと思い、ボクは両手で氷室先輩の腕を掴んだ。


「だ、ダメです!」

「舌が好きなんでしょう? 山川君は彼氏だもの。舐めてあげるわ」

「ひ、人が……」

「たくさん舐めて――」


 ジロっとした上目を向けてきて、白い歯を見せた。


「たっぷり噛んであげる」


 カチカチと歯を鳴らし、氷室先輩が笑った。

 それが、とにかく怖かった。


「くふ、あっはっはっは!」

「……せ、……先輩」

「あっはっはっは! なに、その顔! あっはっはっは!」


 笑いながら、ズボンに突っ込んだ手は動いていた。

 ボクの急所を直に握り、段々と力が込められていくのだ。


「恋人だもの。これくらいは普通でしょう?」

「お願いします。やめてください!」

「山川君。……ワタシ、嫉妬深いみたい」


 唇を開いたチャックに近づけた。

 それから、頬を擦り付けるようにして、下からボクを見つめてくる。


「……誰?」


 チャットの相手だろう。


「友達です。本当なんです」

「そろそろバスが来るわよ。かれないといいわね」


 氷室先輩は、性と死が混在していた。

 言動から分かる通り、油断ができない。


「みんなに、見てもらう? ワタシは構わないわよ。たくさんの人たちに囲まれて。アソコを舐められるところ」

「お願い。やめて……」

「そして、血が出ちゃう光景」


 心臓が激しく脈を打っていた。

 興奮なんてあるわけがなく、ひたすら冷や汗が噴き出しては、先輩の顔に落ちていく。


「どうする?」


 静かな問いに、答えるしかなかった。


「消します、から」


 スマホを取り出し、バスが来る前にチャットのフレンドリストを開く。

 すぐに消去を押して、画面を見せた。


 口角を釣り上げた笑みから、一瞬にして元の鉄面皮に戻り、先輩は起き上がった。

 ボクの前で立ち上がると、手を振り上げる。


 べちんっ。


 頬を強く叩かれ、先輩が言った。


「ワタシだけのオモチャって言ったでしょう。忘れないで」

「……はい」


 そして、先輩はさっさと帰ったのだった。

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