欲求のため

 氷室先輩の家は、一言で表すなら田舎の豪邸だった。

 広い庭には、小さな造園がある。

 赤や青の花々が植えられており、アーチ形の草木で白いベンチの周りを囲っている感じだ。


 ブロック塀に沿って、背の高い植物が並んでいる。

 これで覗き見防止の役割を果たしているのだろう。


 家の高さは二階建て。

 一階が横に長くて、上にチョコンと家屋が載っている感じか。

 ただ、広いベランダがついていて、そのために二階の方はスペースが狭いように見えた。


「両親はいないから。入って」


 車のキーみたいに、リモコンを扉の前にかざすと、開く仕組みのようだ。半端に開いた扉の取っ手を持ち、立ち尽くすボクに振り返る。


「入りなさい」

「……はい」


 女の子の家に入るのは、これが初めてだ。

 中に入ると、広い玄関が出迎えてくれた。

 ヒノキの香りがして、ボクが住んでいる六畳間とは全く違う生活感があった。


「お邪魔します」


 結局、ボクはされるがままだ。

 絶対にヤバいって分かっているのに、靴を脱いで先輩の家に上がってしまう。


 廊下は左右に分かれていて、奥行きがあった。

 先輩の部屋は、L字になった長い廊下を曲がって、突き当りの部屋。

 モダン風の内装をしていて、屋内は全体的に薄暗い。


 薄暗いけれど、転ばないのは床の両端に小さなライトが点いているからだろう。


 先輩の部屋に着いたボクは、広々とした部屋に入る。

 妙に緊張してしまい、ソファに座った。


「お茶。入れるから」

「……はい」


 パタン。

 先輩が部屋を出て行く。

 ボクは、部屋を見回した。


「女の人の部屋って、……意外と何もないんだ」


 殺風景だった。

 広さは、16畳半はあるか。

 ただただ、広い。


 端っこにベッドがあって、すぐ近くには机がある。

 ボクの座ってる場所は、ソファとガラステーブル。

 青色の壁紙が貼られており、他に目が付くところといえば、本棚か。


 立ち上がって、本のタイトルを見てみる。


「欲求の満たし方。涙。水難事故記録。……難しい本ばかりだな」


 ドアの方を一瞥し、ボクは机の方も見てみた。

 目で物色をしているが、好奇心があるわけじゃない。

 どちらかというと、ボクは誰と話しているのかが気になるだけだった。


 机には、勉強の参考書が積まれていた。

 ノートは勉強の途中みたいで、小さな文字が虫みたいに羅列を組んでいる。


「……え?」


 ふと、机から目を外した時だった。

 壁に何か貼ってるのに気づいた。


 近づいて、よく見てみると、ボクは一瞬だけ訳が分からなくなり、首を傾げてしまう。


 男にしては、ボサボサと伸ばしっぱなしの長い髪。

 前髪で目が隠れていて、暗い顔をしている男子。

 小さくて、小学生とあまり変わらない容姿。


 ボクだった。


 場所はベンチの所だ。

 角度から見て、斜め横。

 背景が暗くて、全身びしょ濡れになった姿だ。


 断片的な情報から推察するに、この日は雨が降っていたらしかった。


 肝心のボクは、何も覚えていない。


「それ。上手く撮れているでしょう」

「うわ!」


 参考書を床に落とし、慌てて拾う。

 いつの間にか、戻ってきた先輩は片手に持ったトレイをテーブルに置いた。


 カップを一つだけテーブルに置くと、目だけをこちらに向け、落ち着いた声色で言う。


「山川君を見つけたのは、……春だったかしら」

「春……」


 記憶にない。

 ボクは氷室先輩の事を最近知ったばかりだ。


「学校をサボろうと思っていたのだけど。運悪くバスから降りてきたあなたとぶつかったのよ」


 カップを持って立ち上がり、近づいてくる先輩。

 ボクはベッドの方に後ずさり、前に手を組んだ。


「ペットボトルを持っていたのよ。水を。ワタシ、喉が渇きやすいの」


 先輩に頬を撫でられた。

 冷酷な表情とは裏腹に、労わるような手つきだった。


「あなたの顔に掛けてしまって――」


 顎を持たれ、ボクは先輩を見上げる。

 目に掛かった髪の毛を指で掻き分けられた。


「……生まれて初めて、……興奮したわ」


 カップを持ち上げると、先輩はボクの頭上で傾けた。


「う、わ!」


 幸い、熱いお茶ではなかった。

 何でこんなことをするのか、不思議に思った。

 先輩は濡れたボクの顔を見て、段々と表情が崩れていく。


 顔がゆっくりと近づいてきて、頬と頬が密着した。


「困ったことに。ワタシの欲求を満たす術がないのよ」


 手を持たれ、どこかに導かれる。

 触れた先は、熱くて、濡れた何かだった。


「いっそのこと、病名が明らかになれば、対処の仕方があるかもしれない。でも、なかったわ。本当に運悪く、世界で初めての性癖みたいね」


 氷室先輩の熱い舌が、頬を這い回った。

 顔に付着した水滴の一つ一つを舐めとり、先輩は言った。


「……やっと手に入れたの。ワタシだけのオモチャ」

「先輩……」

「山川君。ワタシは、自慰がしたいの。欲求を満たしたいの。……だからね」


 頭を抱きしめられ、ボクは胸に口元を埋めた。


「ワタシの前で、……溺れてほしい」


 先輩は、いわゆる性的倒錯せいてきとうさくというやつだった。

 しかし、先輩いわく、その性癖を表す病名が存在しないのである。

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