第5話 傷物Ⅱ
〇 * 〇
ここからは少し香帆ちゃんの話。とはいっても香帆ちゃんから聞いた話を元にした場面回想。私が頭の中で想像したものだから実際とは少し異なっているかもしれないけれど。
ことの発端は昨日、時刻にして22時頃。
つまりは、私が昨日バイトを終えてスーパーに寄っている頃に、事件は起きていた。
香帆ちゃんはいつもこの時間に寝ているそうで、昨日もちょうど、就寝する準備をしていたそう。歯を磨き終えて、自室がある2階に上がろうとした時、リビングから母親と父親の”2人”の悲鳴が聞こえて来たという。
微かに異変を感じた香帆ちゃんは、何があったのか気になり、リビングの扉を開けた。
「──────え?」
たった1回、まばたきをした次の瞬間。そこには目を疑う光景が映っていた。
白い壁が血によって赤黒く染め上げられていた。
目線を少し下げるとすぐに、父親にまたがって父親の胸を何度も何度も刺す”マスクを被った不審者”の姿があった。その時、父親の近くにいた母親は、目の前で起きていることに腰を抜かし、動けなくなっていたのだという。
ゴキュッ。ゴキュッ。と、聞いたことのない、耳を塞ぎたくなるような。おぞましく、とてつもなく不快な音が、父親の身から聞こえてくる。
「────────ッ」
声にすらならない悲鳴。
その不審者の姿が、香帆ちゃんには悪魔のように見えたそう。
香帆ちゃんは、一瞬にして恐怖に支配された。
父親が完全に死んだのを確認した不審者は、香帆ちゃんと香帆ちゃんの母親を見て、次の標的に母親を選んだのだ。そしてずしずしと、重く、大きな足音を立てながら、母親に近づいた。
「嫌ッ……! やめて……来ないでッ……! 助けて、香帆ッ!」
「……ッ」
香帆ちゃんは思わず目を塞いだ。
そしてまた、ゴキュッ。ゴキュッ。と。
ナイフを一振り、また一振りと、母親を刺す音が聞こえてくる。
「痛いッ……! いやぁ! ァ、ゔっ────」
ドタドタと母親が手足を動かし、もがいている強い音が聞こえる。
だんだんと、その音は弱い音へと変わっていく。
次第に、音はしなくなった。
その時の香帆ちゃんの頭の中は助けなきゃという考えで支配されていた。既に母親は息などしてなかっただろうが、助けてという母親の声に応えようとしたのだ。
そして香帆ちゃんはキッチンから果物包丁を取り出した。
だが、香帆ちゃんは包丁を手にもった途端、動けなくなってしまった。
母親を助けなくちゃいけない。でも、どうやったら助けられるのか。自分は何をすればいいか分からなかった。
足音が聞こえる。1歩、また1歩とタイムリミットが迫る。
バクンバクンと心臓が強く鼓動する。時間はない。
その時香帆ちゃんの頭に浮かんだ言葉は、『死にたくない』だった。
そして不審者が香帆ちゃんの前に現れ、そのマスク顔をのぞかせた。なにかを考えるよりも先に勝手に身体が動いていた。香帆ちゃんは包丁を思いっきり握りしめ、不審者に向かって突進した。両腕の袖の汚れはこの時の返り血によるものらしい。
包丁は香帆ちゃんからみて右側のお腹に刺さり、不審者はその場に倒れ込んだ。
「か──────はッ────」
その声は、男とも、女にも聞こえる声だったそう。
香帆ちゃんは母親と父親の元に駆け寄った。
「お……ママ! パパ!」
肩を持って母親に問いかける。だが、母親はその問いかけに答えることはなかった。
「いや、嫌だよ。そんなのっ。ねえママ! 起きてよっ。お願いだから……っ……こんなの、私知らない……」
ポツ、ポツ。と、大粒の涙が溢れ出す。
母親の瞳孔から光が消えていた。母親から流れ出た血液の先に、父親が食べていたであろう夕食が散らばっていた。テーブルはひっくり返っていて、不審者と争ったときに散らかったのだろう。
ハンバーグに添えらえれていた白い大根おろしが、赤く、黒く、染まっていく。
大窓から、凍てついてしまいそうなほど冷たい風が吹く。カーテンがガラガラと音を立てながら。
その時、香帆ちゃんは初めて人の死を目の当たりにしたのだ。生臭い血の匂い、肉の裂け目から漂うほのかな暖かさ。鼻の奥にこびりついて取れない嫌な匂いが、口にまで広がり始める。
ずしんとした母親の重さが手の内に伝わってくる。照明に照らされ、反射する血。目の前で苦しんでいる親を見て何もできなかった無力な自分。
あまりの気持ち悪さに、胃の中の物が床に広がった。
「ぁ────ぁあ────ゥ”ェオ────ガポッ──────」
手で髪の毛をかきむしるように、正気を保つように、頭を押さえこんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……私が、助けられなかったから……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ママ、パパ……ごめんなさい」
背後、刺されて倒れていたはずの不審者が立っていたことに気づいた。
「ぁ……なん……れ……」
細くかすれた悲鳴がでる。
後ずさる香帆ちゃん。そして、香帆ちゃんに向けてナイフが振りあげられる。ナイフに付着した血液が目に写る。その黒い血液は、母親と父親の2つの
再び恐怖が香帆ちゃんを支配する。
ナイフが振り降ろされる一瞬。
逃げなきゃ。というその一心で裸足で家を駆け出した。
そこからただひたすらに走り続けた。
涙で前が見えにくい。それでも。
冬の寒さに凍えてしまいそうになっても。
足の裏を小石がズキズキとまとわりついても。それでも、足を止めることはなかった。痛くても、逃げる。もっと遠くへ、遠くへと。必死の思いで足を前へと動かした。
しまいに、アパートのゴミ捨て場で疲れ果てたのだった。
〇 * 〇
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