泣き場所探し

ちょこっと

第1話

 平日の住宅街。昼は過ぎたが、夕方にはまだ早い。小学生や幼稚園児の姿をよく見かける時間帯。

 忙しく働く大人なら、見落としてしまうだろう。そんな日常。


 駅から気ままに歩いてみれば、辺りにはファミリー向けの戸建てが立ち並び、徒歩圏内にはスーパー、郵便局、ドラッグストアが揃っている。子育て向けの落ち着いた街並み。

 電車で三十分も乗れば都心へ出られるなど、都会に近く程良い田舎感もあって、家族層に人気の駅だ。


 夕方になると、お帰りの曲で時間を教えてくれる防災行政無線が、小学生達の帰宅を告げて、大人達へも交通安全を呼びかける。子ども達の通行が多い時間ですよ、より運転に気を付けて下さい、と。聞きなれた曲で、無意識に訴えかける。そんな日常。


 お馴染みの『児童の下校時刻です』といった放送からほどなく、通学帽とランドセル姿の子ども達で道が賑わった。

 今も昔も変わらない、ランドセルの帰宅風景。

 注意されても突き合いじゃれ合って帰る子どもや、道路でふざけるのを注意する子。手提げをぶんぶん振り回している子。それらを避けてそっと歩いて行く子。


 そんな帰宅風景の中で、一人だけみんなと違う様子の子どもがいた。


 通学帽もランドセルも無く、代わりに遠足へ行くような子ども用リュックと水筒を肩にかけている。

 すれ違う子ども達の誰もが一度振り返るけれど、声をかけたりはしなかった。

 その子ども。低学年と思われる、一人の少年。その子は、明らかに怒っていたからだ。





 俺はぜってぇー悪くない。悪くないからあやまんない。


 俺は、家の近所をずんずん一人で歩いてた。

 低学年は早く帰れる。ダッシュで帰って、ソッコー出てきた。

 ランドセルは置いてきたけど、すれ違う人がちらっと振り返ったりするけど、そんなの気になんかするもんか。


 だって、俺は家出してきたんだからな!


 お気に入りのリュックに、ペカチュウの貯金箱と水筒。

 あ、棚にあったうめぇ棒も入れた。ハンカチとティッシュはポケット。これは、身嗜みだからな。

 小学校でもみんなちゃんと毎日替えて持ってる。小学二年生にもなれば、こんくらい自分で用意出来るってもんだ。


 目指すは、お気に入りの公園。

 少し歩くけど、広くて遊具がいっぱいあって、雨宿り出来たりするベンチがあるんだ。

 水道もトイレもあるんだぞ。公園ならなんだって出来るんだからな。

 そうさ、自由なんだ。

 公園なら、おっきな声で騒いだって怒られないし、宿題なんか知らねーって遊んでられる。勉強机なんて、公園にはないもんねー!


 後少し、公園の近くの交差点で信号待ちをする。ここの赤信号長いんだよな。

 俺は信号待ちしながら、さっきの事を思い出してた。


 そうさ、母さんなんて知らねー。先生だって知らねー。弟なんて、お兄ちゃんなんだからって、そんなの、そんなの知らねー。

 まだまだ赤信号の人マークが、なんだか怒った母さんに見えてきた。



「龍之介! いいかげんにしなさい! もうお兄ちゃんなんだから、帰ったらまず手洗いうがい!

 一人で宿題だって、もう出来るでしょう。ねえ、お母さんは弟の世話でホント忙しいのよ」

 ただいまー! っつって、ご機嫌で帰ってた俺。

 帰ってすぐに、母さんに見せたいものがあったんだ。

 だから、手洗いうがいとか忘れて、ちっちゃい弟のオムツ変えてる母さんの所へ走ってったんだ。

 ランドセルもしょったまま。だって、早く見せたかったんだ。見てほしかったんだ。

「ほら! 弟はまだちっちゃいんだから、すぐ病気したりするの。

 早く手洗いうがい! 毎日言ってるでしょう?」

 知ってる。

 夜泣きで母さんがいつも疲れた顔してるのも知ってる。俺、いつも母さん見てるから知ってる。

 でも、見てほしかったんだ。

 俺の事も、見てほしかったんだ。

 だって、だって、俺の母さんだって、母さんだけなんだぞ。



 信号が赤から青に変わって、隣に立ってたおっちゃんが歩き出した。

 なんかの工事のおっちゃんみたいで、作業着にちょっとペンキか何かついてるのがかっこいい。なんか、ガッツリ仕事してる大人って感じだ。

 俺も急いでちらっと左右見てから、信号を渡る。

 信号無視してくる車とか自転車もいるからな。自分の身は自分で守るんだって、気を付けてって、お母さんから耳タコだ。

 信号からもうちょっと歩いてくと、公園が見えてきた。

 幼稚園帰りの子がお母さんの輪と一緒に居たり。少し離れた所では、楽器演奏してる人もいる。


 俺は、一人で隅っこにある遊具へ歩いてった。

 お山みたいなドームがあって、外側はでこぼこ石が張り付いてる。それを登ったらてっぺんから周りを見渡すのがきもちーんだ。けど、今日はやらねー。

 今日は、ドームの中に入る。下は砂の地面。ドームのコンクリートがひんやりしてんだ。

 げ、しまった、レジャーシート持ってくれば良かったじゃん。

 まいっか、砂なんか付いたっていいや。

 ドームの中は少し暗い。そこに体育座りして、膝抱えた。俺ひとりだ。


 ばーか。

 母さんのばーか。弟のばーか。みんな嫌いだっ!

 膝小僧にくっつくけた目が、じわっと熱くなる。

 百点だったんだ。今日、百点取ったんだ。俺、頑張ったんだよ。

 鼻の奥がつーんとしてきた。

 言ったじゃん。

 頑張ったら褒めてくれるって、言ったじゃん。頑張ったらムクワレルって。ムクワレルって、つまり、頑張ったり良い事したら、それだけ良い事が返ってくるんだよって、母さん言ったじゃん。

 褒めてくれるって、思ったんだ。

 最近ずっと弟ばっか見てて、俺の事全然見てない母さんが、ちゃんと俺を見てくれるって。俺の顔見て、褒めてくれるって。

 そう、わくわくしてた俺がすげー恥ずかしい。すげーくやしい。

 すげー、すっげーばかじゃん、俺。

 半ズボンから出た膝小僧が、ちょっとずつちょっとずつ、濡れていく。

 俺、我慢してんじゃん。ほんとは、俺一人だったのに。後から生まれてきた弟に、いっぱいいっぱい我慢してんじゃん。頑張った時くらい、良いじゃん。俺を一番に見てくれても、いいじゃん。いいじゃんか。


 家出る前の事を思い出したら、なんて言ったらいいのか分かんない気持ちがあふれてきて、俺の中からいっぱいいっぱい溢れ出てった。ぐちゃぐちゃな気持ちを押し出すみたいに、流れてった。

 でも、こんなかっこわりぃとこ、誰にも見られたくないから、家出した。

 俺のお気に入りの公園。

 学校終わってすぐのこの時間は、あんま小学校のやつらも来ない。みんな塾か学童だ。だから、今は、俺だけの秘密基地だ。

 暫くそうやってたら、なんだか喉が渇いてきた。いっぱい泣いたもんな。

 いや! 泣いてねーから! なんか水が出ただけだから。よっし、うめぇ棒食べよ。

 水筒とうめぇ棒をリュックから出す。水飲んでから、うめぇ棒食べた。コーンポタージュのあまじょっぱい味が広がる。

 うめぇ! うめぇよ! かなしい気分なんかどっか飛んでったよ!

 やっぱサイコーだな!

 サクサク食べて、二本目を開けようとしたら、ドームの中に黒猫が入ってきた。


「ん、なんだお前、コレほしいのか? ダメだぞ。猫は多分食べちゃだめだ」


 チョコとか玉ねぎとか、確か、人間の食べ物でも動物にはウカツにあげちゃダメなんだぞ。

 だから、俺は慌ててお菓子をリュックに仕舞った。

 そしたら、チャックを閉める寸前に、猫が顔突っ込んで一本とってった。


「あっ! まてこらっ!」


 水筒をリュックに突っ込んで、急いで追いかける。

 ドームから出て見回すと、もう公園の入り口辺りまで逃げてた。

 くっそ、俺、クラスでかけっこ早いんだぞ! 追いついてやる!

 猫を追っかけて、たまに信号で止まったりして、気が付けば見た事ないところにいた。


「あーっ、店ン中はいっちゃった。

 なんだよ、もう! 食べたらダメかもしんないんだぞ」


 目の前には、なんだか古い感じのお店。

 ガラス張りの入り口から、薄暗くて不気味な中が覗ける。

 ドアの下に小さな小窓みたいなのがあって、猫の入り口になっていた。

 まるで、不思議の国のアリスみたいだ。ドアの下に、ちっちゃいドアがある。

 なんだっけ、こういうの、あんてぃーくって言うんだっけ?

 高そーな古そーな、色んな物が置かれてる。

 ってか、外から覗いてても仕方ないじゃん。

 袋食い破って食べちゃったら、猫が死んじゃうかもしんないじゃん!


「あのぉー、すいませーん」


 勇気を出して、ドアを開けてみた。

 ギィって、軋んだ音とドアベルの音が響く。外の空気よりぐっと冷たい気がした。

 お店に入ったら、なんだかひんやり静かで俺は止まった。まるで、違う世界に入っちゃったみたい。カビじゃないけど、なんか古臭いにおいもする。

 なんだろう。木の匂い? 本の紙の匂い? わっかんねーけど、古臭いにおい。


「す、っすすみませーん! 猫が入っちゃったんですけどー!」


 なんて言ったらいいか分からなくて、思いついたままに声を上げた。

 そしたら、すぐ近くの机の下からガタンって音がして、誰か出てきた。


「やれやれ、お客様とは珍しいね」


 俺とおんなじくらいの子。

 シャンプーのCMでも出てそうなつやっつやの黒髪。

 猫みたいなまん丸で少し吊り上がった目。

 大人みたいに白いシャツとベスト? 前にボタンで留められるようなのを着てる。

 七五三で俺も似たようなのを着た覚えがある。けど、俺が着てたのとは全然違ってスゲー似合ってる。

 そいつは大人みたいにキマってた。ズボンは半ズボンだったけどな。

 なんだかちょっと緊張しちゃったけど、俺は思い切って話してみた。


「あ、あのさ、猫がうめぇ棒とってって、ここに入っちゃったんだ。

 猫が食べたらダメかもしんないからさ、ほら、チョコとかダメじゃん?」


 俺の話を静かに聞いてくれて、なんか優しく笑いかけてくれて、だんだん俺の緊張もとけてきた。

 俺と違っていいとこの坊ちゃんって感じだけど、もしかしたら友達になれるかもしれねー。

 まだちょっとドキドキして話す俺に、そいつは大人みたいに手を口元に持ってって、ふふって笑った。笑うと、真っ白な歯が見えた。

 猫みたいに、右と左の歯がちょっと尖っててカッケー感じ。イイじゃん。俺はこいつの事、ちょっと気に入ってきた。


「そうか、君は随分と優しいのだね。

 大丈夫。その猫の持ち去った菓子ならば、僕が取り上げておいたよ」


 そういってズボンのポケットから取り出すのは、うめぇ棒。コーンポタージュ味。


「あっ! そっか、あんがと。

 じゃあ、それはお前にやるよ!」


 にっと笑って言う俺に、そいつはちょっとびっくりした顔をした。

 はは、まん丸の目がもっとまん丸でお月さまみてー。


「そう、か。ありがとう。

 では、頂くとしよう。嬉しいね、実は初めて食べるんだ」


 まるでお高い箱菓子の包みでも開けるみたいに、そいつは優雅に包装を開けていく。

 うめぇ棒だけど。コーン君のプリントされた笑顔がまぶしいぜ。


「そのまま、でっかく口開けて食べたらいいんだぞ」


 包装を開けたまま、どう食べたらいいか迷ってる感じのそいつに声かけた。

 よし、と勢いをつけてそいつはうめぇ棒を頬張ってく。サクサクこぼれるのを気にしているみたいだが、ばっかだなぁ。

 うめぇ棒はこぼれるもんだ。


「はぁ、美味しいね。

 少し喉が渇くかな。でも、甘さの中になんとも言えないしょっぱさが隠れていて、癖になる味だね」


 嬉しそうに笑うそいつの笑顔は、やっぱり俺と同じ年くらいだなって思わせるもんだった。

 だから、やっぱり友達になれるなって思った。

 うめぇ棒を気に入った奴なら、きっといいやつだ。気に入った!


「ところで、君はそんなリュックを背負って、どこへ冒険に出かける所だったんだい?」


「いや、これは……」


 黙っちゃった俺に、そいつは奥へと案内してお茶を飲もうって誘ってくれた。

 映画とかで見たようなたかそーなティーセット? ってやつで、お茶を淹れる姿は大人みてー。

 ティーバッグじゃなくて、缶に入ってるお茶の葉っぱ。

 丁寧な手付きで、俺の前にカップを置いてくれた。おまけに四角い砂糖もついてきた。

 すすめられるまんま、お砂糖二つ入れて、そーっと混ぜる。

 その甘いお茶を飲んだら、そいつのまん丸の優しい目を見てたら、なんか素直に今日の事を話してた。

 そいつは、ただ静かに聞いてくれた。


「そうか、それは悲しかったね。

 君の頑張りは、報われるべきだよ」


 うんうんと何度も頷いて、ふと何かを思い出したように椅子から立ち上がると、店の中へすたすた歩いてって、小さな箱を持ってきた。


「これを君に。今日という日の記念にね」


「えっ、いや、こんな高そーなもん貰えねーって」


「ふふ、僕たちが友達になれた記念に貰ってくれないかい? 友情の証として」


 変な話し方をする奴だなって思った。

 けど、友達になったって言ってくれたのが嬉しくて、これは貰っていいんだと思えた。

 うめぇ棒気に入ってたし。話し聞いてくれたし。一緒にお茶飲んだし。おいしかったし。


「うん! じゃ、じゃあさ、今度は俺も宝物見せてやるよ! お祭りの射的で落としたんだ。スゲーだろ、超レアな宝石みたいなビー玉とか、走るゴキブリカーのおもちゃとか」


「ああ、それは楽しみだね。

 来てくれるのを待っているよ」


「おう! あ、えっと、地図……書いてもらってもいいか?

 実はさ、猫追っかけてたから、道とか全然覚えてないんだ」


「ふふ、いいよ。

 少し待っていてくれたまえ」


 俺たちには少しおっきい大人用の椅子から、またぴょんと降りてメモ用紙にサラサラっと書いてくれた

 スゲー、先生の字みたいに綺麗だ。俺も、もっと綺麗に書けるように練習しよう、うん。


「はい。途中まで送ろうか?」


「いやっ! いい。俺一人で大丈夫だから。

 またな!」


「ああ、また」


 キィ、パタン。


 扉が閉まる寸前、床に伸びる少年の影が歪んで伸びた。

 確かに少年だった影。丸く形の良い頭部と華奢な腰辺りに、ぴょこりと伸びた。

 黒猫そっくりの耳と尻尾。

 少年の影でフサフサご機嫌に揺れていたが、振り返らずに走っていくあの子の目には触れなかった。





 不思議なお店の、不思議なアイツ。

 あっ! 名前聞くの忘れてた。

 ま、いっか。もう店出ちゃったし、また来るって約束したもんな。

 俺は貰った地図を見ながら歩いてった。途中知ってる道まで来たところで、地図を大事にリュックへしまった。

 角を曲がったら、もう家だってトコまで来て、ベビーカーに弟乗せた母さんが俺を見つけた。


「龍之介ー! あんたって子は……まだ一人でどっか行っちゃ危ないでしょう!

 行先も言わないで、一人で……」


 ベビーカーがガラガラ音を立てて俺に突進してくる。

 やべぇ。でも弟の頭がカクカクしないくらいには、ちゃんとスピード落としてる。


「ほんっとに、心配したでしょう!」


 俺の目の前まできて、ベビーカーを道の端っこに寄せる。

 俺の前にしゃがんで、下からぎゅって抱きしめてきた。ちっちゃい頃みたいに脇の下から背中に手を回して、体全部でぎゅってしてくる。

 上から見下ろすんじゃなくて、見下ろして頭に手を置いたりするんじゃなくて、ちゃんと正面から向き合って優しく抱きしめてくれる。

 あ、これだ。ちっちゃい頃のだ。俺だけが母さんの宝物だった頃のだ。ぐわーって、すごい熱いのが吹き上がってきた。


「ごめん、ごめんね。

 ランドセルの側に落ちてたの、見たよ。百点とったんだね。

 早く見せようとしてたのね」


 くしゃくしゃに丸めて、ランドセルに投げ捨てた百点。先生がくれた花丸百点。大事そうに母さんのポケットから出てきた。

 分かって、くれたんだ。気付いて、くれたんだ。


「俺。おれ、おれ、ごめんなさい」


「ううん、ありがとう。ちゃんと無事に帰ってきてくれて。

 もしもの事があったら、お母さん後悔してもしきれなかったわ」


 俺の頭にぽたぽた雨が降ってきた。

 ぽたぽた、ぽたぽた、降ってきた。

 干からびそうだった俺の中に、雨が降ってきたから、俺も水が溜まって溢れてきた。

 こっから先は、俺と母さんの内緒だ。

 なんでって?

 それは、あれだ。

 俺が噴水になったからだ。






 夜、子ども部屋の布団の中で、すやすや眠る龍之介。

 昼間にあった事なんてなんでもなかったような、いつもの可愛い寝顔。最高の寝顔。

 それを愛おしく眺めて、龍之介の母は寝ている龍之介のおでこにおやすみのキスをした。


 今日は肝が冷えた。

 下の子の忙しさにかまけて、成長してきたお兄ちゃんなら少しは分かってくれるだろうと、我慢をさせ過ぎた。

 自分の余裕のなさが情けなくて、自己嫌悪の海に溺れそうになる。

 でも、ちゃんと帰ってきてくれた。帰ってきて【弟は、俺と母さんと一緒の大事だな】と、はにかんで言う姿は前よりも頼もしくて、愛おしくて。また抱きしめた龍之介の後ろ頭に隠れて、少し泣いた。


「おやすみ、私の大切な大切な宝物さん達」

 そっと部屋の小さな灯りが消されて、穏やかな闇が優しい夢へ迎え入れていた。





 落ち着いた佇まいのアンティークショップ。住宅街にポツンと古い洋館風の建物がある様は、些か不自然だ。

 渋谷や新宿のように、何かのコンセプトショップを置くのは似合わない。東京と言っても、畑もあるし雑木林のような空き地もある。都会の田舎といった風の、のどかな街。

 けれど誰も不自然には気付かない。何故か記憶に残らない。まるで隠れ家のような店。

 月明かりが射し込む店舗内で、一人の少年が満足そうに座っていた。

 重厚なウィングバックチェアに華奢な体躯をゆったりと讃えて、採光用の小窓から覗ける三日月を見上げている。

 深緑色の皮張りで仕上げられたチェアは、およそ子どもに不似合いだろう。

 けれど、少年の自然な佇まいに良く馴染んでいる。


「ああ、愉快な友人が出来たものだ。

 ふふっ、なんとも愛らしい。

 泣き顔も悪くは無いが、やはりあの子に一番似合うのは笑顔だろうね。

 また、か。

 誰かと再会の約束を交わすだなどと、幾年ぶりか。年甲斐もなく心躍るものだ。

 秘密の泣き場所になるのも良いが、もしもまた会えたなら……次は僕の喉が鳴ってしまいそうだ」


 そう微笑む少年の喉からは、猫が嬉しい時に鳴らすゴロゴロとした音が微かに鳴っていた。






「いってきまーす!」


「気を付けて、お帰りの曲がかかったら帰るのよ」


 母さんの声を背中に受けながら、俺はリュック背負って、玄関を出た。

 この前の家出事件から、母さんは俺に子どもケータイを買ってくれた。

 これさえあれば、近所の公園とかなら一人で行っても良いって事になったんだ。

 あ、防犯ブザーはリュックの肩紐に付いてる。すぐ鳴らせるように、ブザーの紐がゆらゆら。


 俺は、家を出てからこっそり地図を開いた。あいつに貰った地図。

 自転車に気を付けて、信号や曲がり角では一旦止まって。わくわくわくわくして、走りたくなるのをスゲー我慢する。

 地図の通りに歩いてって、やっとあいつの居るお店が見えてきた。


 お店の見た目は、なんか暗っぽい茶色。古い感じの、あの、あんてぃーくなお店。

 良い匂いのお茶と、カッコイイあいつと、今日渡すつもりのとっておき。お揃いの黒猫のハンカチ。だって、あの猫のおかげで会えたしな。まっくろくろねこのハンカチ。母さんと一緒に買いに行った。

 喜んでくれるかな?

 なんか大人っぽいあいつ。俺のお返しのプレゼント、気に入ってくれるかな?

 わくわくするけど、おんなじくらいドキドキだ。


 お店の重たい木のドアは、黒い鉄の取っ手が触ると少しザラザラした。なんか、猫の舌に似てる。

 おばあちゃんちのタマ。タマって呼んでるのは俺だけ。歩く後ろ姿が、タマタマぷりっぷりさせてて可愛かったから。けどそれ言ったらめっちゃ怒られた。なんでだ。可愛いのに。

 そんな事を思い出しながら、ドアを開ける。

 開ける時に、お日様の光がドアにあたって、お店の中へ虹が射し込んだみたいになった。

 全体的に茶色のお店だけど、ドアに嵌められた色ガラスが、カラフルな光を生み出したんだ。

 色ガラスの部分はちょびっとなのに、光が当たったらスゲーいっぱい虹が出来た。なんでだ。スゲーな!


「やあ、いらっしゃい。

 うれしいよ。また来てくれたんだね」


 お店の中に入ると、すぐにあいつが出てきた。

 相変わらずカッチリした恰好してる。


「おう! 今日はスゲーいいもん持ってきた!」


 ニカっと笑う俺と、口元だけ少し上向けて笑うあいつ。

 そうだ。名前。名前も聞こう。もっと仲良くなれるかな。

 わくわくしながら、俺は新しい友達に手を差し出した。


「俺、龍之介! お前は?」





 平日の住宅街。

 忙しく働く大人なら、見落としてしまうだろう。そんな日常。


 少しだけ不思議な友達と出会った俺の、スゲーわくわくする日常だ。

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