先輩ではない顔

水野 七緒

先輩ではない顔

 通話をきるなり、私は身支度をととのえた。

 すごい、やっぱり逆井先輩はすごい。只者ではない。さすが「捜査一課に逆井有り」と言われるだけのことはある。



 一週間前、都内某所で殺人事件が起きた。

 被害者は大曲千佐子・48歳。死因は絞殺。どうやら自宅で何者かに首を絞められたらしい。

 周囲への聞き込みから、被疑者は大曲の交際相手の可能性が高いとされていた。最近、彼女は交際相手と「別れる・別れない」で揉めていたと複数の証言があったからだ。

 問題はその「交際相手」だ。

 事件発生から一週間経ってもなお、警察は未だ該当人物を掴めずにいた。というのも、大曲千佐子の周辺に「交際相手」の痕跡がまるでないのだ。あまりにもなさすぎて、一部の先輩方は「本当に交際相手は存在したのか?」などと疑いはじめていたくらいだ。

 私も、先輩方がそう考える気持ちは理解できた。本当に、それくらいなにも見つからないのだ。いつもなら、とっくに被疑者の特定くらいはできているはずなのに。


『いやぁ、まいったよね』


 そうこぼしたのは課長だ。


『まさかこんなに手こずるなんてねぇ。犯人、自ら訴え出てくれないかなぁ』


 それはさすがに無理だろう。自首する気があるなら、とっくにそうしていたはずだ。

 当然、捜査本部の空気は、日に日に悪くなっていった。その矛先は、逆井先輩に向けられている──ように私は感じていた。

 みんな、口にこそしないけれど、たぶん思っている。「今回逆井は調子が悪いのか」「逆井は本気で捜査しているのか?」──ずいぶん身勝手な話だけど、それくらい普段の逆井先輩は優秀なのだ。

 そのことを一番よく知っているのは、何を隠そう相棒であるこの私だ。

 憧れだった捜査一課に配属されておよそ1年、逆井先輩と組むことができて本当に良かった、とこれまで何度思ったことか。

 なにより先輩とともに行動することで、私自身、きっと大きく成長できている。もっとも先輩からはいつも「君は詰めが甘い」と注意を受けるのだけれど。本当にすみません、日々精進します。


 その逆井先輩から連絡がきたのが、つい数分前だ。


『聞いてくれ、前田。ようやく大曲の交際相手を特定できそうだ』


 その決定打となる証拠品が、遺失物センターで保管されているという。

 朝5時──いわゆる早朝。それでも私は「引き取ってきます!」と即答した。こんなの、後輩としては当然のつとめだ。

 すごい……本当に、逆井先輩はすごい!

 ここのところ、バディの私にも内緒でなにやらコソコソしていたけれど、きっと、この証拠品を探していたに違いない。

 逸る気持ちのまま、私は乗客もまばらな電車に飛び乗った。

 ああ、先輩への賞賛と興奮でめまいがする……なんて言ったら、また先輩に「前田はいちいち大げさだ」と呆れられそうだけど。

 ちなみに、興奮したまま家を飛び出したので、遺失物センターはまだ開いていなかった。ほんと、少し落ち着こうか、私。こんなことなら、剥げかけていたマニキュアを塗り直してから家を出ればよかった。

 1時間後、ようやくセンターが開き、私は担当者に警察手帳を見せた。


「あ、はい。逆井さんからうかがっています」


 担当者は、緊張した面持ちで後方の棚に向かった。おそらくその棚のどこかに例のスマホがあるのだろう。

 ところが、だ。


「あれ、たしかこのへんに……」


 なにやら不穏な声が聞こえてきた。


「へんだな。ここにあったはずなのに……」


 まさか──紛失したとか?

 そんなことはないと思いたいのに、背中を冷たい汗が流れる。

 担当の女性は、焦った様子で棚を漁っている。「すみません、今回の遺失物って……」「スマホです」と私は即答した。


「スマホ……スマホ──ああ、ありました!」


 彼女の一言に、ようやく私は安堵の息をもらした。


「では、こちらの書類にサインを」


 はからずもボールペンを持つ手が震えた。なんて恥ずかしい。これだから逆井先輩に未熟者扱いされるのだ。──まあ、実際そのとおりではあるのだけれども。

 担当者にお礼を伝え、建物の外に出る。

 我慢しきれなかった私は、すぐさま物陰に隠れ、受け取ったばかりのスマホの電源をいれた。

 画面に、メーカーのロゴが表示された。

 続いてロック画面──おなじみの暗証番号を入力するタイプだ。ここには、私の誕生日である「0521」を打ち込んだ。


「やっぱり……」


 記憶違いではなかった。待受画面に表示されたのは、私と千佐子のツーショットだ。

 こんなの、逆井先輩に見られるわけにはいかない。すぐさまデータを消さなければ。もちろん写真フォルダに残されたデータも。際どいのは何枚もあったはず。なにせ、彼女とはかれこれ3年も付き合って……


「いい写真だな」


 突然、背後から響いた声。

 情けなくも、私は悲鳴をあげてしまった。


「ふたりの親密さがとてもよく表れている。実に微笑ましい」


 ドッドッドッ、と心臓が鳴る。

 振り返りたくない──振り返るのが怖い。

 だって、この声の主を私はよく知っている。この1年、彼の相棒としてずっと共にあったのだから。


「どうして、こちらに?」

「決まっているだろう。そのスマホを受け取ったあと、君が何をするのか確認するためだ」


 冷ややかなその声に、ついに私は耐えきれずに振り向いてしまった。

 彼──逆井孝則は、いつもどおりの読めない顔つきで、ジッと私を見下ろしていた。


「おつかれさまです。あの、これは……」


 何と言えばいい? 何と言えば、この男を誤魔化せる?

 この期に及んで、私はまだ悪あがきを試みようとしていた。そんなの、無意味だとわかっていたはずだったのに。


「残念だ」


 先輩のその一言が、ざくっと私の心に刺さった。


「君に捜査のあれこれを教えたのは、一人前の刑事になってほしかったからだ。決して犯罪を隠蔽させるためではない」

「わ……私だって、そんなつもりはなかったですよ! 彼女が『別れたい』なんて言い出さなければ!」


 てのひらに「あの日」がよみがえる。

 痩せた上体にのしかかり、細い首に手を回して力をこめたときの、あの熱、感触……力を失ったあとの呆気なさ。

 あのあと、我に返った私は、すぐさま彼女の部屋の自分の痕跡を消した。刑事や鑑識がどのあたりを調べるのかわかっていたから、それはもうしつこく、徹底的に。

 ただ、どうしてもひとつだけ懸念点が残ってしまった。千佐子はスマホを2台持っていたはずなのに、現場には1台しか見あたらなかったのだ。

 手元にあった1台のデータは完璧に消した。あとはもう1台。なんとか見つけだして、同じように私の痕跡を消せれば──そうすれば完璧だったのに。


「いつから気づいていたんですか」


 もはや降参するしかなくなった私は、今いちばん聞いてみたかったことを先輩にぶつけてみた。その際、少し笑ってしまったのは、いわゆる「苦笑い」というやつだ。


「わりと早い段階から」


 先輩は、あいかわらず眉ひとつ動かそうとしない。


「君が必死に探していたその2台目のスマホも、現場に出た翌日には僕の手元にあった」

「はっ……」


 つまり、その時点ですでに私を疑っていたというわけか。

 だまされた。まったく気づかなかった。バカな私は「あの逆井孝則をあざむけるかも」と、ひそかに浮かれてすらいたのに。


「じゃあ、なぜ私を泳がせたんです?」

「それは君もわかっているはずだろう」

「──決定的な証拠が、見つかっていなかったから?」


 先輩はうなずいた。その仕草に、私はふたつの意味を見いだした。

 ひとつは「正解」というもの。

 そして、もうひとつは──


「では、今はもう見つかった、と?」

「当たり前だ。そうじゃなければ、こんなふうに君に声をかけてはいない」


 なるほど、たしかに。


「それに、課長は君が自ら訴えでることを望んでいた。結局はそれも叶わなかったわけたが」

「……そうですね」


 そうか、昨日の課長のあれは、私への最後通牒だったのか。てっきりただのぼやきばかりだとばかり。

 私は、視線を足元に落とした。逆井先輩の靴が視界に入った。恵まれた容姿でありながら、先輩の革靴は、私や他の刑事たちと変わらない。ひどくくたびれて、ボロボロだ。

 後悔と苛立ちが、胸の内で混ざり合った。そこに、さらにやりきれなさが加わった。

 それらを、私はため息として吐きだした。


「意地悪ですね。さっさと罪を突きつけてくれればよかったのに」

「同感だ。そうするべきだった」


 先輩の声に、初めて怒りがにじんだ。


「今日の君の態度を見て、そう感じた。やはり被疑者に情けなどかけるべきではなかった」


 その怒りは、誰に向けられているのか。

 おそらく、2割は私で、8割は自分自身にだ。逆井先輩は、そういう人だ。そのことを、相棒であった私は嫌というほどよく知っていた。


「やっぱり先輩はすごいです。私としては、うまくだませたつもりだったんですけどね」

「そんなことはない。相変わらず君の詰めが甘いだけだ」

「ちなみに、どのあたりがですか?」

「まず、こんな人目につく場所でスマホを起動させたことが」


 たしかに。


「次に、スマホがすぐに起動できたことに疑問を抱かないところが」

「あー言われてみれば……ふつうならバッテリー切れしていますよね。いちおう『1週間以上放置されたスマホ』って設定ですし」

「遺失物センターの担当者とのやりとりも無防備すぎた」

「えっ、どのあたりがですか?」

「遺失物の内容を聞かれて『スマホです』と即答したところが。僕は、何が届けられているのか、君には説明しなかったのに」

「……そうでしたっけ」


 正直、覚えていない。ただ、先輩からの電話を受けたとき、勝手に「2台目のスマホだ」と決めつけてしまっていた可能性は否定できない。

 そっか、そのあたりから罠は仕掛けられていたのか。


「ありがとうございます、勉強になります」


 流れるようにそう口にしてしまった私に、先輩はわずかに顔を歪めた。それで、ようやく私は、自分の発言がおかしいことに気がついた。

 そうか、たしかにこの返答はないか。もはや「先輩と後輩」ではなくなったというのに。


(でも、先輩がいつもみたいに私の疑問に答えてくれたから)


 先輩と目が合った。

 けれど、その状態は長くは続かなかった。

 先輩はすぐさま目を伏せると、一度瞬きをして再びこちらに目を向けた。


「前田幸次郎、署まで同行願いたい」


 そう告げた彼は、私の知る「先輩」ではない──ただの「刑事」の顔をしていた。

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